夢と融解

 亀裂と融解


 夢を見た。


 懐かしい夢だ。


 誰も喋らない世界。私が生まれ育った世界。喋ることを最悪とした――不言の世界パンミーメ


 公園を歩いていた。両親と一緒に、天気がよかったから。


 誰も喋らない世界は音がよく響く。飛行機のエンジン音、鳥のさえずり。車のエンジン音、野良猫の鳴き声。風が木々を揺らす音と人が芝を踏む音。


 あらゆる音があるけれど、そこに人の声は存在しない。晴れ渡った空は目が眩みそうなほど遠く、私が繋いでいた母の手が離れた。


 視線を動かし、見る。


 母が与えられた罰する武器はメイス。


 鈍色の長い持ち手の先には、凹凸のある鉄球がついている。


 それを振り上げている母の目は、私に対する憎悪で燃えている。


 なんて悪い子。どうして、なんで、守れないなんて。どうして、悪い子、悪い子、悪い子は罰しなきゃ。


 母の感情が瞳から溢れて私に注がれる。鳥は枝葉を揺らして飛び立ち、野良猫は小走りに去っていった。私の足は動かず、逃げてはいけないと指先が震える。


 私は、悪いことをしたのだ。


 覚えてる、覚えてる、全部覚えてるよ。ちゃんと、覚えてるよ……お母さん。


 振り下ろされたメイスの衝撃を想像して目を閉じる。背中を殴られると知っている。


 しかしどれだけ待っても痛みはこなくて、目を開けると、私はモーニングスターを振り上げていた。


 体中を鎖で縛られ、自由はどこにもない。両手で持ったモーニングスターは重たく私の頭上に構えられている。


 目の前に倒れているのは、黒い髪の男の子。私と同じ鎖で身動きを封じられた、涙目の少年。顎からは大粒の汗が流れ落ちて、首は弱々しく左右へ振られた。


 分かってる、分かってる、分かってるよ。分かってるんだ。君は確かに喋ったけど、ここは不言の世界パンミーメではないから。ここはパンデモニウムだから、ここまでされるのは間違っているんだ。


 違う、違う、違う。違うよ、違うんだ。今の私がモーニングスターを構えているのは根本的に間違ってる。


 私が罰するのは喋った者だ。喋って他人を傷つけた者。他者を嘲笑った者。不言の世界パンミーメでなら皆が罰してくれるけど、パンデモニウムには私しかいないから。だから殴って、喋ることは悪いことだと教え込んで、世界が壊れるのを防ぎたかっただけなんだ。


 今、鎖にがんじがらめにされた私は、間違ってる。


 この鎖は喋った者を罰しろと示していない。鎖がさせようとしているのは、守護者ゲネシスに盾突いた者を消すことだ。


 違う、違う、違う。私がしてきたことと違う。私の思いと違う。私のモーニングスターは、暴力であって、暴力ではなくて。


 少年の口は塞がれていた。鎖を噛まされて「ごめんなさい」を言う機会すら与えられていない。


 やめて、駄目だ、これは違う。相手にちゃんと機会を与えないと。その言葉を知っているならば、謝って、二度と間違いを犯さないとその口で約束してくれれば許せるのに。


 相手から謝る機会を奪って、自由を奪って、一方的に殴りつけるのは。


 そこに私の意志がないから。


 そこに私の、正義がないから。


 それはただの――暴力だ。


 どれだけ力を込めて抵抗しても、体から炎を噴き出しても、鎖が断ち切れることはない。


 紫の炎は何も燃やせないまま私の体温を上げて、呼吸を荒くし、鎖の音は消さなかった。


 モーニングスターを振り下ろす。


 少年の黒い頭に鈍器を叩き込む。


 勢いを制御できず、指先から肩まで衝撃が走る。


 頭の皮膚が破れた。黒髪が歪んだ。頭蓋骨が陥没して、中に入っていた脳髄がぐちゃりと付着する。


 やめて、やめて、もうやめて。


 どれだけ願っても鎖は止まらない。どれだけ目を閉じたって私の体は止められない。


「おめでとう」


 違う。


「これで君も、大人の仲間入りだ」


 違う。


「よくやったね、憤怒の守護者ゲネシス


 違うッ


 暗い部屋で、目を覚ます。


 上体を跳ね起こした体にはじっとりと汗をかき、意識した心拍は全力疾走をした後のように早くなっていた。激しい拍動が送り出す血液は勢いがよすぎて、私の指先を震わせる。ベッドサイドのランプをつけるのに手間取る程に。


 湿った掌で顔を覆う。噛み締めた唇はどんな声もこぼすなと教えられてきたから、喉までせり上がっている感情も飲み込めた。飲み込んだ。だって私は、その方法しか知らないから。


 私は守護者ゲネシス。そうだけど、それだけではない。


 私が欲しいのは静寂だ。誰も喋らなくて、誰も悪いことをせず、平和で静かな世界が欲しいだけなのに。


 どうして、なんで、こんなにぐちゃぐちゃになってるの。守護者ゲネシスってなんだっけ。私はライラの守護者ゲネシスで、喋ることが普通の世界で生きる意味はライラがくれるって約束してくれて。だから彼女を完全な、成鳥に。


 待ってそれ違うんじゃなかったっけ。


 私、私の意味は、名前は。


 唇が震えて微かに開く。自覚した瞬間には堪えて、口を結んで、掌には熱い雫が流れてしまった。


 分からなくなっていく。パンデモニウムにいると、分からなくなっていく。


 自分の常識が非常識になって、自分という存在が分からなくなってしまうから。


 だからギアロは泣いたんだ。陽光の下で呼吸をしてはいけないあの子は、自分の世界に帰りたいって。


 みんな自分を保とうとして、保てなくて、パンデモニウムにある混沌の渦に負けそうになっている。負けた子は泣いて、守護者ゲネシスには選ばれない。


 この世界は一体なんだ。私達に、守護者ゲネシスに何を求めてる。


 先導者パラスを孵化させること。卵になった先導者パラスを成鳥にさせること。その後は、私達は先導者パラス守護者ゲネシスであり続けて……?


『パンデモニウムは学園の名前であり、俺達の国の名でもある』


 あれ。


『おめでとうございます。貴方は未来創造学園都市・パンデモニウムの第十三期生に選ばれました』


 ここは、国であり、未来創造学園都市。


 未来、創造。


 ここは、未来を創る場所。


 それは、誰の未来を創るんだ。


 生徒? いや、他の世界から連れてきた生徒の未来は決まっている。守護者ゲネシスになるか、守護者ゲネシスの部下になるか。それだけ。道はそれだけ。選ばれるか否か。二つに一つ。それしか私達に道はない。


 ここは私達の未来を創る場所ではない。既に生徒が歩む道は決めているのだから。呼び集めた瞬間から、強制的に。


 ならば、誰の未来を、ここは。


 〈イグニ〉


 目の前を水が踊る。カーテンの隙間から射しこんだ月光が、水滴にきらめきを与える。


 ランプに照らされて立っているのは、ユニだ。


 白銀の髪で表情を隠し、火傷の頬は今日も上がっていない。ここ最近のユニは、笑うことに意識を向けていない気がした。


 私は枕元のマスクをつけ、ユニはこちらの応答も待たずにベッドサイドに腰かける。


 肩も頭も落として息を吐いた少年は、微かに目の下の隈を濃くしていた。


 〈パンデモニウムではない方の国について 情報ある?〉


 水が私に問いかける。私は文章に三回目を通し、脳裏には銀色のマスクが過ぎった。


 白いパーカーにグレーのスラックス。膝丈の白い上着で、襟や袖口には紫のライン。パンデモニウムとは似て非なる制服を着た男の子。


 パーカーのフードを被って、その上から銀色のヘッドフォンをした同郷。


 銀色の棒を鎖で繋いだ武器、フレイルを与えられた彼は、ポルカ。


 〈多少なりとも情報あるなら頂戴〉


 弾けた水が私の意識を戻させる。


 青みがかった白い瞳の感情が分からない私は、指先に熱を集中させた。


 〈どうして?〉


 〈図書室使いなよ〉


 〈あそこはうるさい〉


 〈自分が避けている場所にこそ必要な情報はあるものさ〉


 ユニの目が微かに細くなり、鼻で笑うような表情をする。人を小馬鹿にしているが、なんとなく、それでこそイグニと表現されている気がした。


 浮遊する水は私の問いに答えてくれる。


 〈パンデモニウムともう一つの国の歴史 知らない?〉


 〈知らない 授業されてない〉


 〈それは教師がしない選択をしたからだよ〉


 〈でも 図書室にはその情報がある?〉


 〈綺麗に 相手の国が悪いって情報だけね〉


 私の指先から少しだけ火花が弾ける。思わず片手で指先を握り込めば、ユニは構わず手を振った。


 〈もう一つの国の名はエデンってことは書いてあった 異形や魔族はいない 人間や妖精 聖なる力を秘めた者達の国だって〉


 ポルカの衣装を思い出す。私達とは色が違う、白く美しい制服だった。


 私は指先にだけ意識を集めて、火を綴る。


 〈パンデモニウムは 小さな魔族の国だった それをパラスが大きくしたってことは ガイン先生から授業を受けた〉


 〈俺もバルバノットから聞いた でも 同時に矛盾も感じた ならパラスはどこから来たんだってね〉


 ユニの文字に私の指先が痙攣する。耳の奥ではガイン先生の言葉を嫌々ながら思い出すしかなくて、それでも、そこに答えはなかった。


『パンデモニウムは小さな魔族の国だった。弱い弱い国だった。それを先導者パラスが大きくなるよう整え、導いてくれた。だから魔族はみんな先導者パラスを尊敬し、崇拝し、崇め続けるんだ』


 〈パンデモニウムは小さく弱い国だった そこから突然 強くて崇拝できる魔族が現れると思う? 六体同時に〉


 それは、確立にすればどれほどなのか、私は分からない。ただ偶然が偶然を呼んだにしても出来過ぎていることくらいは想像できた。


 〈この間 イグニの部屋で会話させて知ったけど コイツらは互いのことを「きょうだい」って呼ぶほどの関係だ でもパンデモニウムで生まれたとは思えない もしそうなら 神様と崇められるほどの六体を生んだ親魔族だって崇拝されてないとおかしいから〉


 淡々と流れる水の文字。私は余すことなく目を通し、ユニは強めに指を振った。表現しなければやっていられないとでも示すように。


 〈俺達が守るように頼まれたコイツらは だった 突然現れたから神様なんだ でも それならいつ どこから来たのか どうして聖なる国であるエデンではなく 弱く小さなパンデモニウムに来たのか〉


 私は何も綴れない。


 周りを声で圧制し続けた少年が、これほど周りを見て、疑問に思い、調べていたなんて知らなかったから。


 お腹の奥底が軽く冷える感覚になる。そんな暇すら許さず、ユニは私のマスクを掴んだ。


 冷たい手は、先導者パラスに悟られないように、静かな文字を操っている。


 〈図書室にあるのはパラスを崇める英雄譚ばかり それ以上の情報を知らないとダメだ このままだと俺達は 与えられるだけの情報で選んだつもりになって 自分の意思をあやふやにされていく〉


 青みがかった白い瞳が私を覗き込む。そこには、確かな彼の意思があった。


 〈調べるよ イグニ 染まる前に 消される前に 俺達はまだ上の階には行ってない〉


 上の階。


 私はユニが立てた人差し指を目で追い、ガイン先生の言葉を思い出した。


『第四階層は歴史のエリア。先導者パラス守護者ゲネシスだけが入ることを許された、貴重な資料なんかを保存している階層だね。第四階層より上は先導者パラス守護者ゲネシスの為にある場所だと思ってくれていいよ』

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