妖精と手枷


 メルが作った朝ご飯の量は普通の人間が食べるには少々、いやだいぶ、多い。


 彼女の基準で出されるご飯に朝から胃袋がどうにかなりそうだったが、メルが世話好きなのは今に始まったことではない。昨日はライラの熱気に当てられたり、文字でコミュニケーションを取ったりと色々あった日だった。……一昨日から、色々ありすぎているのが事実だ。


 だからだろう。メルは朝から人を起こしに来るし、部屋までご飯を運んで来るし、食べきるまで部屋に居座る姿勢を見せている。


 〈食べるよ ちゃんと おいしい〉


 〈見てるよ〉


 大丈夫なんだけど。


 ゆっくり宙に火の文字を書く私を、メルは和やかに見ている。丸い眼鏡の奥にある赤茶の瞳は静かなもので、子猫を見守る母猫の空気さえ感じた。なんでだろう。


「やぁ名無しちゃん、一日ゆっくり休めたかな?」


 教室へ行けば、変わらずガイン先生がホワイトボードの前に立っていた。紫髪の魔族の視線はウェストポーチに向かっており、私は指に溜まる熱を感じている。


 〈おかげさまで〉


 宙に紫の火を綴る。そうすれば先生は目を瞬かせ、鋭い歯を見せながら口角を上げたのだ。


「いい成長だ」


 ***


 あれから数日、校内で憤怒の生徒達を見かけることがなくなった。他のクラスの生徒に会えば道を開けられ、周りが一気に口を閉じるので、大変歩きやすい事態になっている。


 モーニングスターを片手に食堂へ向かい、私に気づいた生徒達が体を引く。カウンターまで作られた道に沿って足を出せば、ウェストポーチでライラが笑っている気がした。


 紫の魔人は、狭くて広いポーチの中で火の粉をこぼしているのだろう。


「やぁ、ライラは元気かい? 憤怒の守護者ゲネシス


 緑の触手を動かして、料理長のシュシュさんが今日のお昼を渡してくれる。私は首を縦に振り、ポーチから溢れた紫の火の粉を目で追った。


 紫の火がシュシュさんの目の前で弾ける。料理長は両目に緩く弧を描き、恭しく頭を下げた。見れば厨房の奥にいる職員達も同じように頭を下げており、私は軽く鳥肌を覚えるのだ。


 彼らが頭を上げる前にお昼をひったくった私は、お金を置いて食堂を後にした。


 ここ最近、何かあるごとに感じてしまう寒気がある。私の中には火の魔力が流れているのに、腰には猛火の魔人がいるというのに。


 〈パンデモニウムは おかしいだろ〉


 ノアの文字が瞼の裏を回り、第三グラウンドで感じていた熱気を肌が思い出す。うるさい声も、騒がしい周囲も、それを消せなかった火柱も。


 霧深い林の中。私は思わず両手で顔を覆い、口の中にある白い肉を噛み締めた。今日のお昼は、蒸し鶏のサンドイッチだ。


 背中に添えられるのは大きな鱗の手。霧の中で私に静寂をくれる友人の掌。私は何度か深呼吸を繰り返し、それに合わせて、ノアは背中を撫でてくれた。


 冷や汗の浮かんだ額を指先で押さえれば、砂の文字が柔らかく舞う。


 〈無理しなくていい イグニの体験は 数日で解決できるようなものじゃない〉


 砂につられて灰色の人外を見上げる。赤い爬虫類の目は、私を心配する空気しか纏っていなかった。


 ねじれた角には枯葉が引っかかり、鼻から口には黒いマスク。狼の尾はゆったりと地面を撫でた後、私を落ち着かせるように膝に乗せられた。


 銀色の尾に両手を置けば、ふわりと沈む柔らかさに息を吐く。


 私はノアの尻尾を暫く撫でさせてもらい、灰色の人外は動かず隣に居てくれた。


 事ある毎に思い出す光景に鳥肌が立って、私は望んでしていないと暴れたくなって、無理やり動かしたのは先生だと、腹の底に感情が溜まる。


 でも、それも先生が考えていた通りなら。


 私の中にある感情を、膨らませたいだけだったなら。


 〈イグニ〉


 鱗が私の目元に触れる。見るとびっしりと並んだ鱗の指には、透明な雫がついていた。


 私は何度か瞼を開閉させ、一瞬だけ視界が滲む。


 ノアは何も言わずに私の目元を撫で続けてくれた。


 腹の底が読めない人外。黒い前髪の奥で、何を考えているのか分からない友人。


 それでも、彼が優しくしてくれるのは間違いではないから。


 深い深い霧の中、消化しきれない感情を、私はぽろぽろとこぼすのだ。


 ノアの尻尾を腕に抱き、唇はマスクの中で噛み締めた。


 そうして数分経ち、私の感情の波が終わる頃。


 ノアはふっと別の方を向き、角に引っかかっていた枯葉が落ちた。


 何かに気づいた友人の視線を追う。軽く溜息をつく音が聞こえたかと思うと、ノアは鋭い指先を回した。


 同調するように霧には渦ができ、ふわりと道が開く。相変わらず魔術が上手いな。


 感心していた私の耳は枯葉を踏んだ音を聞き、見知った姿を発見した。


「あぁ、この霧、ノアのだったんだ」


「人の魔術を引っ掻き回せるの、流石は空属性と言ったらいいか?」


「引っ掻き回した気はしてないんだけど。迷わせようとしてたから切っただけで」


「そういうところだ」


「同じこと言われたことあるな。購買のポワポワに」


 片手にナイフを握って立っているのは、献身少年の最上湊。今日の彼は右目に大きなガーゼを貼り、指も首も包帯で覆っている。


 ナイフを軽く回した湊に対し、ノアは肩を落とす。私は狼の尾を撫で、湊が手を繋いでいる者を見上げた。


「イグニとノアが霧の中にいるなんて驚いたわ! それはお弁当? お昼を一緒に食べてるの? 相変わらず二人は仲良しなのね! 素敵で好きよ!」


 ふわふわあまあまキラキラと。


 湊の顔の高さ以上に浮いている桃色好意少女、フィオネ・ゲルデ。


 包帯だらけの少年に手を繋がれている少女は、まるで風船のようだ。


 ライラが起きて数日、私が感じていることは二つ。


 一つは自分のウェストポーチの中にいる魔人への消化不良な感覚。喜ぶべきで、称えるべきだと分かるのに、二の足を踏んでいる私がいる。


 この感情は時間が解決するかと思って無視しようとしているのだが、明らかに無視できない事象がある。それが二つ目の、感じていること。


 フィオネ・ゲルデが浮く時間が、伸びている。


 寮では床を歩く時間より、メルや湊と手を繋いでいる姿をよく見るようになった。


 彼女が任された愛執のリベールには既に亀裂が入っていた。フィオネ自身も生まれるのはもうすぐだと笑っていた。


 だけど、それを応援できてない私が、ライラに寒気を感じている私が、浮く時間の伸びたフィオネに警鐘を鳴らしている。


 フィオネが宙に浮かぶのは出会った頃からだ。少女の脹脛にある羽根はよく動き、妖精だと見紛う可愛らしさで舞っている。


 けれど今のフィオネは、どこか儚い。


 自由に飛ぶというよりも、浮いてどこかに消えるのではないかと感じることがある。


 脹脛の羽根をどこまでも動かし、浮いて浮いて、浮ききって、どこかに行こうとしている気がするのだ。


 今もフィオネは浮いている。桃色の瞳の輝きを強め、柔らかなおさげは重力を感じさせない。


「イグニ、見て見て、今日の私、昨日の私より飛べてるの」


 なんだかフィオネの声までふわふわレベルが増している気がする。


 私はノアの尻尾を離し、横に置いていたモーニングスターに手を伸ばした。


「スー先生が教えてくれたの。私の好きを重ねていれば、私はこうして飛べるって」


 甘い言葉は私の鼓膜をどろりと溶かす。ノアは自分の耳を撫でる仕草を見せ、湊はフィオネを見上げていた。


 浮かぶ少女は、甘すぎる笑みを浮かべている。


「素敵、素敵でしょ? 私は飛べるの、高く高く、飛べそうなの。見ててイグニ、湊、私、パンデモニウムなら飛べそうだから。ノア、私の羽根はきっと、翼になれるわ」


 フィオネの瞳が微かにブレる。桃色が白目との境を曖昧にして滲み、私の指はモーニングスターを握った。


「あぁ、好き、好きよ、全部好き。みんな好き。好きで好きで堪らない。私の好きを貫けばリベールは生まれるの、それはとっても素敵よね! 素敵なの! 早くリベールに好きだと直接言いたいわ!」


 彼女の言葉は誰に対するものか。


 霧深い林の中で、フィオネは虚空に笑っている。


 そのは、メルとユニにも感じていることだ。


 メルの食べる量が増えた気がする。いつも気づけば何かを食べて、食べて、食べ続けて、こちらへの給仕もしながら食べ続ける。


 ユニは常に魔具のスピーカーを飛ばして周囲に泡を吹かせている。何かをぼそりと呟いて、倒れた生徒には見向きもしない。


 いつも通りのようで、どこか拍車のかかったそれぞれの素養。ユニの目の下には微かな隈が浮き、食事をするメルのこめかみには少し汗が浮いていた。


 何かがおかしいわけではない。でも正体の分からない違和感がそこにある。


 ライラが孵化してから、教師が生徒に何かを求めている。もしくは、元々求めていた何かを強めている。


 各教室でどんな授業が行われているかなんて知らないが、それが正しい教育か、私には分からなかった。


 フィオネの足先がより高く浮きそうになる。


 湊の指先に力がこもる。


 妖精を繋ぎ止める献身は、緑の左目を緩めていた。


 私はモーニングスターを持って立ち上がる。湊の瞳が私の武器に向く。


 視線を合わせた緑眼は、妖精の手をこちらに渡した。


 私はモーニングスターを握ったまま、空いている手でフィオネの手を取る。


「あら?」


 澄んだ桃色は輝きすぎて、眩しくて、目を細めてしまったよ。


 そんなに眩しくては、見つめることなんてできないよ。


 私はフィオネの手を握り、自分の方へ引き寄せる。


 目を見開いたフィオネの輝きは微かに収まり、脹脛の羽根が震えた。


 少女の瞳を凝視する。


 君が何を考えてるかなんて知らない。リベールに会いたいと思うのも、好きを叫ぶのもフィオネの気持ちだ。だから私は、いつか君を正面から罰しよう。


 君の好きは甘すぎる。周りをドロドロに溶かしてしまう危機感を孕んでいるから、私は君を殴りたい。好きを吐くなと示したい。


 それでもね、フィオネ。


 私は別に、君に消えて欲しいとは思ってないよ。


 君がどこかに飛び立てばいいとも、思ってないんだよ。


 握る手に力を込めて、フィオネを地面に引き止める。


 浮遊力の落ち着いた少女は枯れた地面に足をつき、丸い瞳で私を見上げた。


 繋いだ手を離さずに、指先で少女の手を撫でておく。


 フィオネはゆっくりと握り返し、私に掴まれている手を自分の額に当てていた。


「……私、まだまだ、飛べないのね」


 フィオネの声に笑いが混ざった気がする。


 私は湊と目を合わせ、俯く妖精を離さなかった。


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