上書きと初心

 〈パンデモニウムは おかしいだろ〉


 なんて、砂の文字が踊ったのは談話室で、だ。


 乾燥しきった料理をメルが完食した後、「まだあるから」と手が引かれた。連れて行かれた談話室には鼻腔と胃袋を刺激する匂いが漂っており、窓の外は薄暗い。本当に授業をサボってしまったらしい。守護者ゲネシスなのに。


 ソファに座ればメル作の満漢全席が並び、向かい側でフィオネと湊への給仕が始まった。私はスープにストローをさし、マスクを少しだけずらして啜る。行儀は悪いが正面にはメルがいるので、外せなかった。


 料理に手をつけないノアは砂を操って文字を動かしていく。赤い双眼は私のウェストポーチに向かった後、それぞれの腰にも視線を投げていた。


 砂を害するように、水が宙を舞う。


 〈パンデモニウムがおかしいなんて今更だな〉


 〈今日はみんなでお喋りの日? 素敵ね素敵! とっても好き!〉


 砂と水を吹き飛ばす勢いで風が巻き起こる。金のページの切れ端を乗せた風はやはり騒がしいようだ。


 〈なんで文字? イグニがいるからか〉


 〈それもあるけど 喋ってたら聞こえるから 卵に〉


 床から伸びた植物がうねり、ナイフで刺した亀裂が文字になる。


 それは、静かなやり取りだった。


 不言の世界パンミーメでのやり取りと近い、静かに互いの目を見て、喋らずに意思疎通を図る行為。


 私はウェストポーチからホワイトボードを取り出しかけたが、それは鱗の手に止められた。


 顔を上げるとノアが首を横に振っている。大きな爪は、私の掌を軽く叩いていた。


 〈今は開けない方が良い〉


 砂を読む。私は首を反対に傾けて、ノアの掌に文字を綴った。


 〈どうして?〉


 疑問を目に込めてノアを見つめる。爬虫類の目は微かに迷った色を浮かべ、大きな掌が私の目元を撫でた。それがどういった意図によるものかも分からなくて、私の疑問は増えてしまう。


 〈俺は教えたよ イグニ 染まるのは駄目だって〉


 水が私の目の前を横切っていく。浮かべた疑問符を弾き飛ばす勢いはないけれど、水の文字は印象的だった。


 ノアとは反対側に座っているユニに顔を向ける。火傷の頬を歪めていないユニは、青みがかった白い瞳でこちらを凝視していた。


 なんだ、なんだよ、染まるって。


 〈イグニは聞かれなかった? 目標を作ろうって 先生に〉


 植物が水と砂を吸い上げる。私の視界で渦巻いていた物はあっけなく消え、気づかわしそうなツルがうねった。


 〈私はモニカ先生に言われた だから たくさん食べ続けて 太って 誰にも下に見られないようにする って答えた〉


 〈それを先生は褒めてくれたんだったわよね? 好きなエピソードだわ!〉


 〈そうだよ〉


 植物に絡まる風は楽しそうだ。風を受けた植物も元気に揺れ、フィオネとメルは顔を見合わせて笑っている。仲良しなことで。


 私も聞かれたけど、私の目標って……。


守護者ゲネシスたる者』


 脳裏でガイン先生の声が回る。


『君は守護者ゲネシス、憤怒のライラを任せてるんだ』


 私の目標、目標は。


『ライラを守るのが君だよ、名無しちゃん』


 私はライラの守護者ゲネシスだから。


『模範解答だね、満点をあげよう』


 また先生の声が浮かんで弾ける。それが嫌なのに、先生が何度も繰り返してきた『守護者ゲネシス』の音が外れない。


 〈イグニ〉


 気づけば両耳を塞いでいた。


 どこを見ていたかも分からない目は、金色の紙飛行機を捉えている。


 肩に刺さった以心伝心タラリアに、呼ばれている。


 いつものように甲高くない。私を見て、私に向けて投げられた、確かな声だ。フィオネ・ゲルデの、意思ある声だ。


 少女の手元に金の紙飛行機が戻っていく。その過程で開いた紙は手帳へと戻り、桃色の少女は穏やかに目元を綻ばせる。


 〈私もスー先生に聞かれたの だからみんなを好きになって きちんと飛べるようになりたいって答えたわ〉


 遊んだ風が目標を掲げる。私の中で周囲を好きになることと飛ぶことが繋がらないのだが、その疑問を目に込めたって、ふわふわな愛執には伝わらなかった。彼女の脹脛の羽根は動いていない。


 〈俺は あらゆる人の痛みを許し続ける ペリドットの役割を果たし続けるって答えたよ〉


 ナイフが切り裂く宙に文字が浮かぶ。それはいつかの第二階層で読んだ文字で、緑の双眼は今日も澄んでいた。


 メルもフィオネも、湊も。揺るがない目標を持っている。


 それに対して、私の目標は。


守護者ゲネシス


 待ってガイン先生、黙って、黙って、思い出させないで。


 私の目標。最初に立てた。ガイン先生とグラウンドで。思い出して、私、何を目標に体づくりをしてたっけ。


 ライラが早く生まれるように。

 ライラが早く孵るように。

 そうすれば私がパンデモニウムにいる理由を。


 違う違う違う。それは違う。それはライラが与えてくれるものだ。違う、私が目標にしたのは違う。私は、私はもっと単純で、私の為の目標を考えて。


『俺の目標は君を立派な守護者ゲネシスにして、憤怒のライラを孵化させること。でも君にまで、今すぐ同じ志を持てなんて言えないだろう? 勿論いつかは持ってほしいけど』


 志、志、持ってた。持ってるよ。だって私は守護者ゲネシスだ。


 守護者ゲネシス、待って、待って、私、


『だって今喋っているのは守護者ゲネシスと先生という、他人の前に立つ位置の人達だ。示しをつけるためにも黙らせた方がこの先いいのではないか。喋って失言、語って偏見など笑い話にもならないんだから。』


『悪い花が芽吹く前に摘んだ方が世のため。先導者パラスもその方が喜ぶのではなかろうか。守護者ゲネシスなんだから先導者パラスの為に動いた方がいいんだっけ。罰していいんだっけ。』


 待って、待って待って待って。私はいつから守護者ゲネシスとして物事を考えるようになってた。私は守護者ゲネシス、ライラの守護者ゲネシス。待って待って、お願い待って。


『私はライラのゲネシスです それ以上でもそれ以下でもない』


 待って。


 違うだろ。


 違う? 違わない。いいや違う。


 私は守護者ゲネシスだけど、でも、それを一番に置いていた訳ではない。


『ねぇ名無しちゃん、魔術が使えるようになったら何がしたい?』


 記憶の底からガイン先生の声を引きずり出す。


 私の指先に熱がこもる。


 火を練ることはまだ出来ない。


 でも、指先を温めることはできるから。


 メルの植物から大きな葉を千切り取る。それを赤茶の少女が怒ることはなく、私は葉の表面に指をつけた。


 書いて、熱して、焦がして、文字にしろ。


 私の目標は、単純だった。崇高なものではない。


 魔術に微かな憧れを抱いたまま、意思疎通ができない世界に窒息しそうだったから。


 もっと、もっと、単純に、簡単に。コミュニケーションがとりたくて。


 私の目標は、立派なライラの守護者ゲネシスではない。


 〈火か 火の粉で 文字が書けるようになりたいです〉


 熱さの残るグランドで、隣に座ったガイン先生に向けて書いた、私の目標。


 〈イグニっぽいね〉


 水が私を嘲笑う。少しの飛沫を私の顔にかけたユニは火傷のある頬を歪めて、組んだ足先ではピンヒールが揺れていた。相変わらず上から目線だが、喋っていない分受け止めやすかった。いつもそうやって水文字で喋っていればいいのに。


 〈俺達がしてるようなことが イグニはできないもんね〉


 なんだ湊、その目は。人を憐れむような色をするんじゃない。


 私が反論を書こうとしたら、勢い余って葉に穴を開けてしまった。焦げ穴。どうして。


 小さく噴き出す音が聞こえたので顔を開けたが、全員肩が小刻みに震えていたので誰の声かは判断しかねた。全員同罪としたい。


 〈落ち着いて 簡単だよ〉


 〈ふわっとして するするっと動かすの!〉


 メル、フィオネ、そんな感覚的説明では分かりません。


 笑いながら指先を動かす二人を真似て、私も人差し指を立てる。そこに意識を集中すると小さな紫の火が灯り、ちょっとだけ大きくできた。


 これを、こう……。


 もう少し大きくして、ペンのインクのように宙に残せないかと思考を絞る。


 が、その途中でノアに手首を柔く掴まれて集中が切れてしまった。瞬きをしてからノアを見る間に火の玉は維持できなくなり、消えてしまう。


 灰色の人外は眉を下げており、小さく首を横に振った。……。


 私はもう一度指先に火の玉を作る。徐々に大きくしてみる。ノアが分厚い掌を被せて火を消してしまう。どうして。


 ノアを凝視すると、目を伏せた人外が緩く首を横に振り続けていた。


 〈それは 爆発 するから〉


 嘘だ。


 こう、もうちょっと意識し続けたら、線くらい引ける感覚があるのに。


 〈イグニがしようとしてること なんとなく分かるけど 爆発するから また〉


 しない。


 首を横に振って意思表示する。ノアは片手で顔を覆い、私と同じように首を横に振っていた。どうして。


 〈爆発させた方が早いよ どうせ慣れてるでしょ〉


 〈怪我するから〉


 〈過保護な人外だな〉


 〈無視できないだろ〉


 頭の上で水と砂がやいやいと弾け合う。


 〈イグニは魔術の操作ヘタだから 形態変化ならユニが教えてあげやすいと思うんだけど〉


 〈湊には俺が人に教えられるヤツに見えてるわけ?〉


 〈見えない〉


 〈褒めても何もあげないよ〉


 〈褒めてないけど〉


 宙の亀裂に向かって水がぶつかる。


 〈私が教えてあげる がんばろう イグニ〉


 〈私も一緒にしたいわ! 教えるメルも頑張るイグニも素敵! 好き!〉


 植物と風は自由だ。騒ぐ水も砂も亀裂も無視しているのだから。


 静かな中に広がるコミュニケーション。無音の空間で意思が飛びあっている。


 その光景が、パンデモニウムで見られるなんて思っていなかったから。


 この静かな騒がしさが、私の肩から、力を抜かせたから。


 眉が下がった自覚がある。目元も下がったと自分で分かる。


 マスクを押さえて、唇を噛んで、声を出してはいけません。


 それでも私の肩は揺れてしまって、手の甲から火の粉がこぼれてしまった。


 風が目元を撫でる。どこからか息を吐く音が聞こえる。


 〈思い出せたみたいで よかった〉


 私の膝に触れた砂が文章を作る。


 〈染まっちゃ駄目だよ パンデモニウムに染まれば 自分がいなくなる〉


 いつか貰った指摘を水が反芻する。


 〈昨日の決闘 先生達の様子もおかしかった〉


 亀裂が微かに荒くなり、ナイフが少しだけ揺れていた。


 〈無理やりは 違うよ〉


 植物が私の手を包み、温めようとしてくれる。


 〈イグニはイグニよ 他の誰でもないし 何でもないわ〉


 輝く風は私の前髪を撫でて、体に残っていた力を抜いていってしまった。


 下がりかけた頭に大きな手が乗る。鱗のある手は重くて、圧があって、それでも私を潰さないと分かっていた。


 〈大丈夫だよ〉


 そんな文字を、砂が作るから。


 私の瞳は一気に緩んで、自分の中にあった不安を、吐き出した気がした。

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