未成熟と愉悦


 何時か分からなかった。


 なんとなく意識が浮上する度に耳が冷たく覆われて、瞼を開ける前に眠りに落とされる。


 それを何度か繰り返した時、胃を刺激する香りがしてやっと目が開いた。


「おはよう」


 瞬きをして焦点を合わせた時、自分が横たわっていると気づく。目の前には真緑のスープと黒いおにぎり、青い果物が盛られたお皿がお盆に乗っていた。


 ベッド脇に膝をついてお盆を持っているのは、メルだ。赤茶色の髪を後ろで一つにまとめ、丸い眼鏡の奥で同色の目がこちらを真っ直ぐ見ている。


 私の頬から口元を覆っているのはマスクではない。冷たい手だ。温もりを知らない圧制者の手。私の鼻と口を覆って、マスクの代わりになってくれている。


【 食べてる時か寝てる時だけ眉間の皺が消えるんだ。貴重な時間は大事にしなよ 】


 口を覆っていない方の手で、ユニが私の眉間を撫でる。その動きはガイン先生を彷彿とさせたので鳥肌が立った。無理やり眉間に力を入れればより強い力で皺を伸ばされる。銀髪の火傷少年は笑っているだろう。体が若干揺れてる。


 私はユニの手と口の間に自分の指を差し込んで鼻から下を隠す。起こした体は眠りすぎたせいか重く、ばらついた毛先が肩から落ちた。


「ご飯食べよう、イグニ」


 メルが私の隣に腰かける。彼女は床に何かの種を投げると、殻を割った植物がサイドテーブル程度の大きさに急成長した。そこにお盆を置いたメルは私が食べきるまでいるつもりらしい。


 ユニとメルが両サイドに座っていることを確認した私は、マスク代わりの手を下ろす。


 水を飲めば喉が渇いていたと知り、そのままスープに口をつければ一気にお腹が空いてきた。青いスープは野菜のような甘さがあり、具材も比較的小さく切られている。スープで具を掬うと橙や赤色の野菜が目立ち、どれもほっくりと煮込まれている触感であった。美味しい。


 食べているのにお腹が空き続ける。同時に目の間が痛い気もして、何度か鼻を啜ってしまった。


 〈美味しいね〉


 テーブルの植物の一部が伸び、ぐねぐねと文字を綴る。横目に赤茶色の髪を確認すれば、後頭部を柔く撫でられた。じわじわと胸の奥から湧き上がるのは、居心地の悪い気恥ずかしさだ。


 立ち上がったユニは部屋の扉を開けに行く。炊き立てらしいおにぎりを頬張りながら彼の動きを追えば、廊下から三色の瞳がこちらを覗き込んだ。


 緑の双眼は黒い前髪に隠れ気味。いつも通り顔中包帯だらけの最上湊。

 大きな桃色の双眼は私で止まって動かない。ふわふわ浮いてるフィオネ・ゲルデ。

 赤い爬虫類の目も私を観察している様子。灰色の巨体だけで圧があるノア。


 私は咄嗟に口と鼻をを片手で覆い、フィオネが一番に部屋へ飛び込んで来た。


「イグニ! 元気かしら、ご飯は食べれてる? 今日はずっと眠ってたのね! いっぱい眠りたくなるのは体を頑張って使ってるから! 毎日頑張ってるイグニって素敵で好きよ!」


 ふわふわあまあまキラキラと。フィオネは変わらず浮いて笑って輝いている。


 彼女は私の正面で満面の笑みを炸裂させているので、ご飯が食べられない。ここにいるつもりなら正面から外れて欲しいんだけど。


「そうだわ! 今日何度かガイン先生が寮に来たんだけど、ノアとメルが帰ってもらってたの! 今日はみんな授業に出なかったのよ! 先生達に嫌だって言ってたわ! だから私、いっぱいメルの作るご飯を食べちゃったの! とっても美味しくてとっても好き! また作って欲しいわ!」


「いつでも作るよ、フィー」


「ありがとうメル! それからね、みんなで先導者パラスについても話したわ! 私、難しい話は分からないけど、色々考えたの。色々感じてしまったから、ちゃんと考えようとしたわ」


 フィオネが床に足を着く。少女の桃色の瞳の輝きは微かに落ち着き、脹脛の羽根も動いていなかった。


 少女はウェストポーチから金色の卵を出す。愛執のリベールの殻には微かな亀裂が入っており、卵は笑うように振動していた。


 私の隣に腰かけたフィオネ。場所が無くなったユニは宙から水を集めてスツールのようにして座り、湊は腰より少し下の空間に五指を突き立てる動きをした。献身少年が手首を捻ると空間が歪み、なんとなく腰かける場所が出来たように見える。湊はその歪みに座り、ノアは砂で築いたソファに腰を落ち着かせた。


 全員相変わらず魔術がお上手ですね。


 私は枕元にあるマスクを取って、全員に背を向けた状態でつける。忘れたことがなかったマスクを撫でれば、少しだけ、息苦しいと思ってしまった。


 ―― 君、体育の授業中にマスク外したことがあったでしょ


 ―― あぁ、あまりにも熱くてさ。一瞬だけのつもりで取ったらすげぇ気持ち良かったんだ


 脳裏に浮かんだポルカとのやり取り。暑いグラウンドの隅で、マスクを取って笑った少年の顔。


 ねぇポルカ。私と同じ静寂を探している人。


 君は今、元気にしてますか。


 振り返った私は元のベッドサイドに座る。五人の守護者ゲネシスはそれぞれが任された卵を膝に乗せていた。


 ユニは濃紺、湊は深緑、フィオネは金、メルは朱色、ノアは深紅。


 今最も亀裂が深いのは、フィオネが抱えたリベールに見える。


「きっともうすぐ、リベールも孵るわ。フィロルドもエーラも、グルンもアデルも。みんなそう思ってる。だってライラが孵ったんだもの」


 フィオネは金の卵を穏やかな手つきで撫でる。桃色の瞳はゆらりと移動し、いつも通りマスクをしたノアに向かった。


 ノアの手に卵を慈しむ温度は感じられない。


 〈ライラが生まれた時 不完全だと感じた〉


 砂文字が宙を漂い、爬虫類の瞳が私のウェストポーチへ向かう。紫の火の粉は正解だと示さんばかりに溢れて、メルを越え、私の目元をかすめていった。


 〈正直 魔力の量も業火の勢いも パラスと崇められる程だとは思えてない〉


「魔力の量でいけば、多分イグニと同じくらい。もちろん君が少ないって訳じゃない。元々魔術がない世界から来たっていうのに、それだけの量を内包してたとは思わなかったよ」


「イグニの炎とっても綺麗だったわ! 好きよ! あれだけ広いグラウンドを火の海に出来るところも素敵! 好きだわ!」


 湊が軽蔑のエーラを撫で、フィオネは溌剌と笑みを浮かべる。が、私はイマイチ理解できていなかった。


 自分の魔力量が多いだとか少ないだとか、そんなの誰とも比べたことがないのだから分からない。


 あの子の火炎を弾き返せたのだって――


 黒い髪を思い出し、黒い目も思い出し、鳥肌が立つ。


 私の顔に冷や汗が浮かんだ瞬間、背後から猛火の紫が視界を覆った。


 〈楽しい話をしているの? 私も混ぜて欲しいわ〉


「……ライラ」


 微かに開いた炎の隙間から文字が読める。低い声を発したのはノアだ。


「お前はまだ完全に孵ってはいない。魔力量を見ても、その体を見ても……違うか」


 〈そうね そう 一応正解にしてあげるわ アデルの子〉


 絶え間なく燃え続けるライラが私の目を離す。かと思えばマスクを覆い、肩を包み、火花を散らした。


 〈私はまだ 殻を破った雛に過ぎないわ 成鳥になるにはまだ要素が足りない でも心配しないで私のゲネシス 貴方がこのまま頑張ってくれていれば 私は完全なパラスになることができるわ〉


 淀みなく文字を綴る火の粉を追い、私は小さく頷く。猛火のライラは私の頭を撫でるように動き、目に優しい文字を踊らせた。


 〈成鳥にしてくれた時 貴方に名前をあげる ごめんなさいね 今すぐあげられなくて でも安心していて 約束するわ 私のゲネシス かわいい子 貴方がパンデモニウムで生きる意味は 私が与えてあげるから〉


【" その子はイグニだ歪めるな "】


 突然、体に響く声をダイレクトにぶつけられる。久しぶりに内臓を掴まれた感覚に襲われた私は、奥歯を噛み締めて気持ち悪さをやり過ごした。今日はあまり、ユニの声を聞ける体調ではない気がするのだ。


 メルは尖った歯列で爪を噛み、湊とフィオネは深呼吸をする。微動だにしないノアはライラから視線を外さなかった。


「生きる理由は自分で見つけてこそだ。誰かに与えられるものじゃない」


 ノアの言葉が、私の体に響く。


 俯きかけていた顔を上げると、赤い双眼が緩く私に向けられた。


 ライラの炎が、また弾ける。


「俺達がイグニと呼ぶその子は、優しい子だ。パンデモニウムで生きづらいことは見ていて分かる。縛られていることも。だがその縛りを解くのはその子自身だ。お前が新しく作る檻も道もいらない」


 〈綺麗な言葉が好きなのね アデルの子 それでこそ虚栄だわ〉


 空気を揺らしたライラがノアの眼前に迫る。猛火は一気に部屋の温度を上げ、私以外の守護者ゲネシスの顔には大粒の汗が滲み出た。


 酸素が薄くなる。だから呼吸を合わせよう。

 深呼吸すれば肺が焼ける。だから肺を慣れさせよう。


 私の体は自動的に部屋に順応する。


 メルは自分の周りを大きな葉で覆い、湊の周囲が歪みを生む。フィオネは体近くの空気を常に動かし、ユニは自分の頭に雨を降らせていた。


 それぞれが適応する動きを見せる中、ノアだけは相変わらず不動だった。


 〈貴方の体は強固ね でも中身は脆い とても柔い その矛盾がアデルは大好きよ きっと楽しく話しかけているでしょう?〉


 炎がノアの顎を撫で、振り返るように大きく広がる。


 部屋を熱し続けるライラは、常に楽し気だ。


 〈ねぇ見てアデル フィロルド エーラ リベール グルン 今回は私が一番よ やっぱり殻の中より外がいいわ みんなも早く生まれましょうよ〉


 〈急かすなライラ ワシの体はまだ空腹だ 満たされるまで今しばらく待っておれ〉


 メルの膝にある朱色の卵が枝葉を伸ばす。捻じれた植物は文字を象り、私の髪が強い風を受けた。


 〈アタシはきっともうすぐよぉ フィーが言ってる通りだわぁ 二番目になれるかしらぁ 楽しみねぇ〉


 金の輝きを纏った風がライラの炎と混ざって消える。かと思えば宙に亀裂が入り、ひび割れが文字となって浮かび上がった。


 〈僕の方が早いかも 湊が頑張ってるから 早く殻から出たいな〉


 〈遅かろうと早かろうと 皆が無事に孵ればそれでいいと思いますよ 俺は〉


 涼やかな水がライラの前で弾けて蒸発する。大笑いするように炎を揺らした魔人は、きょうだい達の文字をきちんと受け取ったらしい。


 最後に緩く宙を泳いだのは、ノアの膝にある卵からこぼれた砂だった。


 〈待っててライラ 僕らみんな きちんと生まれてみせるから〉


 〈待ってるわ きょうだい 再びみんなでパラスになれる その日をね〉


 ライラの文字を最後に。


 植物が枯れ、風がやみ、空間が元に戻る。水は蒸発し、砂は宙に溶けて消えた。


 猛火のライラは私の頬をひと撫でし、ウェストポーチに戻ってしまう。


 はじめて見せられた先導者パラス達の会話。それはどこか浮世離れした光景だった。


 室内には熱気がこもっている。ユニはすぐに窓を開けて外の空気を取り込み、メルや湊は風に当たろうと歩き出した。


 フィオネは口角を上げたまま後ろに倒れてベッドが軋む。見ると彼女は珍しく両目を閉じており、金の睫毛が少しだけ揺れていた。


 私はノアに目を向ける。灰色の友人は砂の椅子に深く背中を預けていた。


 風が吹き込んだ。毛先が空気に攫われた。


 視線を落とせば、食べかけだったおにぎりが崩れ、果物とスープは渇ききってしまっていた。

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