暴力と安寧
三人称でいきます。
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動物でも人間でも変わりなく、群れ及び社会を従えるのは強い者。
強い者が上に立てば社会が構築される。強いからこそ社会を正しい方向へ導くことができる。数多の動物達が一匹のリーダーの下で群れを成し、生きているのだ。同じ動物である人間も強者に従っていれば正しく生きられるに決まっている。
頂点にいるリーダーに弱さの隙があれば引きずり下ろし、より強い者が道を示す。強者が示した道が繁栄を生み、より発展した世界となる。
筈だったのに。
いつしか誰もが忘れてしまった。どうして一番になるのか。どうして頂点に立つのか。強い者だけが正しいとは、いったい誰が言い出したのか。
先行したのは強者こそ勝者であるという思考のみ。だから誰もが暴力を振りかざし、一番強い者になろうと躍起になった。
強ければ認められる。強くなければ蔑まれる。だから、だから、弱者にだけはなりたくない。
強くありたい。周りを率いることができる強さが欲しい。上から見下ろされたくない。弱くありたくない。強くなければ生きる意味がない。弱者とは敗者であり、生きているかも怪しい存在だから。
ユニ・ベドムの周りは暴力で構築されていた。
人が殴られるのは当たり前。血飛沫がこびりついた壁が普通。地面には亀裂が入っている場所が大概で、怒号と嘲笑が常にどこかから聞こえてくる。
ユニが生まれた時には既に、
強さを求め、他者を狩り、一番上に立つ者だけに意味がある。頂点以外は弱者の立ち位置。少数の選ばれた強者だけが笑っていい。
強さこそ正義。
強さだけが正しい。
己の本能に忠実に、
ユニにとって世界は灰色だ。どこかしらで誰かが怒り、誰かが命乞いをし、誰かが誰かを殺している。
少年の中にある一番古い記憶は、男に跨り、包丁を何度も振り下ろしている女の姿である。
はだけた服の間から覗く肌は真っ赤に濡れ、何やら罵詈雑言を叫んでいる。男は判別できないほど顔を切り刻まれ、喉からは血潮が溢れ、四肢が時折痙攣していた。
ユニは部屋の隅で膝を抱えている。骨と皮しかない体だ。目の下には黒い隈が色濃く浮かび、唇はひび割れている。
絶叫している女は母親だと思われた。男は父親かもしれない。はっきりとしない判断は、ユニの中に家族の記憶がないからだ。
母親らしき女の銀髪が赤く染まる。赤黒い
「やっと、やっと勝った! 私が強い! 私の方が! お前よりッ!!」
ユニは覚えている。鬼の形相で包丁を振り下ろしていた女が徐々に口角を上げ、最後には恍惚とした笑みを浮かべた姿を。
鼻で嗅ぎ取った鉄の香りも、灰色の視界を染めた赤褐色も、ユニは忘れたことがない。
女の顔が少年の方へ向く。髪を掴まれるのはいつものことで、蹴られるのもいつも通り。女がユニを殺されないのは「自分の子ども」というレッテルに価値があるからに他ならない。
自分を敗者にするかもしれない存在を大人は殺す。しかし、そんな恐れもない存在は殺す労力も惜しい。それが
子どもはいても邪魔なだけ。しかし子どもは自分を敗者にしない為の従者にできる。生まれた瞬間に教育できるのだ。邪魔ではあるが価値もあった。
だから女もユニを生んだ。ユニを教育して、これからの自分の盾にする為に。
「さぁユニ、貴方は私の盾になる。貴方は私の下僕だから」
キッチンにまで漂っている血の香り。吐き気を催す淀んだ空気。
火にかけられた水の温度は上がり続け、湯となったそれは女が持つ鍋の中にあった。
「私に逆らうことは許さない」
引き倒されたユニの顔に降った、熱湯の雨。
喉が裂けるほど声を上げ、顔を覆った手はぬるついた皮膚に触れる。
痛みとは絶対だ。忘れることはできない。体に刻み込まれた不変の記憶。
顔を大きく
恐怖とは紛れもない暴力だ。恐怖で踏みつけ、恐怖で腕を引き、恐怖で言うことを聞かせる。だからこそ、大人は子どもに恐怖を与えた。自分に盾突くことは許さない。自分はお前より強い。だから指示に従っていろ。
その呪縛を解くには相応の時間が必要である。生涯呪縛から逃げられず、一生敗者のまま生きる子どももいるだろう。
どれだけ体が育っても、どれだけ経験を積んでも、親という大人の呪いを解かなければ強者にはなれない。大人になれない。大人なような皮を被った子どもなのだ。
火傷が疼いて眠れないユニは、鉄の香りが染み付いた部屋に横たわっていた。
どうして自分がこんな思いをしなくてはいけないのか。どうしてあの女は男の体を分解し、外で叫んでいるのか。自分が強い、自分はやった。文句がある奴はかかってこい。なんて、うるさくて仕方ない騒音だ。
耳を塞いでも
奥歯を噛み締めたユニは、火傷が治る暇もなく女の道具にされた。
母親らしき者は綺麗な顔で自分より体躯のいい男に近づき、懐に入りかけたところで首を狩る。そうすれば男に従っていた弱者の上に立ち、金品を貰い、笑っていることを許されたから。
ユニは女の汚れた靴を拭き、刃物を整え、少しでも綻びがあれば殴られる生活しか知らない。青痣しかない体は痛みを忘れ始め、痛んでいることが普通になり、笑わない顔には火傷の痕が明確に残っていた。
口答えしないユニは、弱者の中でも格好の獲物だっただろう。
弱い者は石を投げられても仕方がない。嘲られても仕方がない。殴られたって仕方がない。何故なら世界がそれを許しているから。強い者が正しいと流布してしまったから。どうして強い者が正しいのか、考える者など誰もいないのに。
――うるさいな。
ユニは冷たい床で眠りながら耳を塞いだ。殴打する音も発砲音も、物が崩れる音も窓が割れる音も。うるさくて堪らない。
どうすれば、静かに眠れるだろうか。
ぼんやりと考え始めたユニは自分を騒音の渦中へ連れてきた女を思う。
アイツがいなければ、静かになるだろうか。
強くなれば眠れるようになるだろうか。
自分の上に誰もいなければ、安寧が訪れてくれるだろうか。
ユニは笑うことを覚えた。ヘラヘラへらへら。泣く者や抵抗する者はより暴力の標的になるが、笑っている者は相手の懐に入り込めるから。そう母を見て学んだ。
ユニは知識を貪った。身の守り方も筋肉が育つ原理も、人の急所もなんだって。母親は決して力が強いわけではないが、頭がよかった。だから金に困ることも周りに石を投げられることもない。そこからまた少年は学んだ。
ユニは魔術に着目した。力や背丈の足りない自分には、追加の要素がいると分かっていたから。母親の猫なで声を耳から削ぎ落したいと願いながら、少年は自分に必要なものを模索した。
魔術といっても、
鍵を開ける、鉄の温度を上げる、光の屈折率を上げる。様々なものに微々たる変化を与える、軽やかな魔法程度のものだ。
しかしユニはそれで良かった。目に見える力で黙らせにくる大人に笑い、恐怖に勝てない子どものフリをして、虎視眈々と魔術の知識を増やしていたのだから。
火傷に触れる度に熱湯の衝撃を思い出す。何日も疼いた頬に力が入る。女を見るだけで体が痛む。
そんな一生、ユニには耐えられない。耐える気など毛頭ない。
大人になりたい、大人になりたい。女の呪縛を破って、一人で立てる
ユニは声の圧を上げる魔術に焦点を合わせた。
拳や蹴りを強化したところで届かなければ意味がない。相手にダメージを与えられなければ無力と同義だ。
声ならばどこへでも届く。耳を塞いでも完璧に防ぐことは難しい。それこそ鼓膜を破りたくなるような、絶対の声が欲しい。
声がいい。自分を笑う声も、命令する声も、すべて、すべて、自分の声で黙らせよう。
暴力とは形に見えるものだけではないから。
形に見えない場所にこそ強さがあると、少年は思い知っているから。
殴られた体より、熱湯を浴びた顔より、少年に深い痛みを与えたのは、嘲りの声だから。
痛みには痛みを。
侮辱には侮辱を。
言葉には言葉を。
喉は人間の急所ともなる場所である。そこに向かって魔術を組むことはリスクが大きい。
しかしハイリスクにはハイリターン。力が手に入るのであれば、ユニが迷うことはなかった。
少年は自分の喉に術をかける。
普通の声はいらない。強い声が欲しい。相手を屈服させて、地面を舐めさせるだけの圧が欲しい。
欲しい、欲しい、力が欲しい。
欲しい、欲しい、嘲りのない場所が欲しい。
欲しい、欲しい。
静かに眠れる場所が、ただ欲しい。
【 退けよ 】
はじめてユニが喋った時、彼の喉は魔術に耐えきれなかった。
圧をかける声は少年の喉にも負荷をかけ、喉の内側が切れて血も吐いた。
だが、それ以上の収穫があったのもまた事実。
ユニを力で押さえつけようとした女が、目の前で倒れたのだ。
体を芯から震わせて、乱れた呼吸でユニを見上げている。
そこで初めて、少年の口角は自然と緩んだ。
父親の上で笑っていた、母親のように。
【 あ"ぁ……こ、れ"か"、せ、か"ぃ、た" 】
喉を押さえながらユニは笑う。呼吸ができない女の頭を踏んで、周りで倒れた大人の上を歩いて、首に魔術痕の渦を発現させながら。
ユニの声はどこまでも広がった。
耳を塞ぐ者がいればその手を越えて届く声にしよう。
自分の声の圧に耐えられるなら、より強い声で潰してしまおう。
聞け、聞け、これが俺の声だ。
聞け、聞け、これは俺の強さだ。
血へども吐いた。喉を痛めた数などもう分からない。それでも強さが手に入るならば構わない。
聞け、聞け、声に平伏せ、黙ってかしずけ。
お前達の拳より、俺の声の方が強いから。
お前達の言葉より、俺の言葉の方が痛いから。
刻めや刻め、その心に。見えない傷を刻んで泣けよ。
【" 俺の方が強い "】
言い聞かせたのは誰に対してか。ユニの周りで起きている者などいないのに。
声で周囲を圧制した少年は、一人で空を見上げていた。
笑い癖のついた頬はすぐに上がり、彼が捨てた感情はどこかで踏まれていることだろう。
彼は静けさを求めていた。誰も他人を蔑まず、嘲笑うこともなく、上も下もない。ただただ静かに眠れるどこかを。
とうの昔に壊れている。こんな世界、壊れてしまってどうしようもない。
壊れた世界に先などない。遅かれ早かれ
どれだけ上を目指したところで、地盤が脆ければ崩れるのみ。頂上に立っていても、下が崩壊すれば合わせて地面に転がり落ちるのだ。
ユニは齢十八にして知っていた。
強さに意味などない。
頂上に立ったところで、そこには孤独と緊張感しかない。
いつか後ろから刺されないか。寝首をかかれて地に落とされないか。
安心感など無縁である。
声の圧を手に入れたユニは、自分の本来の声を忘れてしまった。厳重に声を飾り立てていなければ安心できなくなってしまった。
誰かに命令する気もない。喋れば他人の心が折れた。だから誰もがユニの声が届かない場所へ距離をとる。
出来上がった静寂の中、ユニは一人で呟くのだ。
【" ……これでいい "】
そんな、一人ぼっちの銀髪の元に現れたのは、黒い鎧を纏った異形であった。
「おめでとうございます。貴方は未来創造学園都市・パンデモニウムの第十三期生に選ばれました。私は貴方のクラス担任を務めます。バルバノット・パラダイムと申します」
【" うるさい消えろウザいな "】
野心の担任――バルバノットは、ユニの声にも屈しなかった。腰を折ったお辞儀の姿勢を微塵も崩すことなく、敬うようにユニが立ち上がることを待っている。
【" 何の用だよ "】
「ここではない世界で頂点の一つになって欲しく、迎えに参りました」
バルバノットが差し出した手に頬を歪めたユニは、一度だけ空を見上げて足を踏み出した。
ここではない世界。
そこが静かであればいいと願って。
パンデモニウムで
なぜ
どうして数多の異界から素質のある候補生達を集めているのか。
パンデモニウムの中から
異界の子ども達にパンデモニウムの教育を施し、身の回りを整え、食事を与える意味は何だ。
疑問が尽きない世界の夜は静かであった。しかしその静けさは他人に与えられたものであり、ユニが作ったものではない。与えられた幻の静けさなど、少年を安心させるものにはならなかった。
呼ばれてからの数日を、ユニはパンデモニウム及びクラスメイトの観察に消費した。そして、クラスの中に自分の声を防げそうな者がいないと判断できた時に初めて口を開いたのだ。
【" 全員俺の下につけ "】
野心のクラスメイト達は少年の声を聞いた瞬間に理解した。
この声は微塵の容赦もない。他者を圧死させる為だけに練り上げられた声だ。逆らってはいけない。頭を上げてはいけない。反旗など掲げてはいけない。そんなことをすれば、この声に骨の髄まで折られてしまうから。
ユニは野心のフィロルドを任された。自分の中に水の魔力があると知り、一番最初に
自分も後れを取った訳ではなかったが、まさか初日に
それはどんな存在だろう。どんな強者だろう。
ユニは不言の少女――彼がつけた呼び名より、イグニとされた少女を観察した。
イグニの周りは、静かだった。
少女が一切の発語を許さず、喋り声に鈍器を振り被り、徹底的に静寂を求めていたから。
ユニは見ていた。静けさを求める少女の掌が痛んでいると。
ユニは肯定された気分になった。声こそ力、言葉こそ強い。それを突き詰めた先には静寂がやってくる。自分が選んだ道は正しかったのだと。
ユニはイグニに喋らせたかった。それは
自分が正しいと信じた道を突き進み、突き詰めて、静寂の中にいようとする少女。
静かな安寧を求めたユニにとって、少女は唯一の並走者であった。
静けさを求めて同じ方向へ歩いている。片方は眠れる場所を求めて喋り、片方は静寂を求めて不言を貫く。
言葉の痛みを知る少女が喋った時、その声はどれほど強いのか。
強き彼女を折ることができたならば、自分は真の強者になれるだろう。本当の安寧を手に入れられるだろう。
そうユニは信じているからこそ、イグニの声を求め、少女を屈服させる日を楽しみにしている。
だからこそ、イグニに壊れてもらう訳にはいかなかった。
疲弊しきった顔の少女に少しばかり眠気を誘う魔法をかけ、夢に誘ったユニ。彼の膝に頭を乗せたイグニは、涙の跡を残したまま眠っていた。
ユニは己の部屋と酷使した造りをしたイグニ、及びライラの部屋を観察する。
少年の部屋には深い青の色合いを、少女の部屋には濃い紫を。
青みがかった白い瞳はベッドサイドに置かれたウェストポーチを視界に入れる。微かに紫の火の粉がこぼれており、ユニのウェストポーチの中では野心の卵が揺れていた。
【" ……うるさいなぁ "】
目を細めた少年はイグニの耳に片手を乗せる。
冷え切っている野心は、静寂と安寧だけを求めていた。
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