啐啄期

大人と無形態


 喋らないで。


 喋らないで。


 私の前で喋らないで。


 私の前で悪いことをしないで。


 世界を壊さないで。


 お願い、お願い、お願いだから。


 私にこれ以上、モーニングスターを振らせないで。


 ***


 記憶がない。


 気づいたら寮の部屋で目覚めた今日。


 黒いカーテンの隙間から陽光が射しこんでいる。いつもより長く眠ってしまったのだとぼんやり考え始めたのは、瞬きを三回してからだ。


 今日は休みだったっけ。昨日は何をしてたんだっけ。瞼が重たいというか、軋んでいるというか。なんでこんなに掌が痛いんだっけ。指も怠いし。腕も疲れが抜けてない感じがする。


 体を起こして瞬きを再び三回。思考がちらばって、頭の中が霧がかっているみたいだ。何かを考える風に頭が動こうとしていない。どうしたんだっけ。私、今日、何するんだっけ。


 ここ、どこだっけ。


 俯けば黒い毛先が肩から落ちる。カーテンのように視界を覆うそれを指先で後ろに払うと、濃い紫色の絨毯が目に入った。


 あぁ、そうだ、ここは寮の部屋だ。保健室ではない。私に与えられた部屋。


 ここは、パンデモニウム。喋ることを許している世界。


 そうだった、そうだった。だから、私、たくさんモーニングスターを振ったんだ。


 目に入る。


 紫の絨毯に転がっている、モーニングスターが。


 中学を卒業する時に与えられた、私の武器。罰するための道具。


 銀色の棒状の持ち手。その先端についた球体には棘がいくつもついており――


 黒く乾いた液体で、汚れ切っていた。


 思い出す。


 思い出す。


 思い、出す。


 罰した、罰した、罰した。いっぱい罰した。


 割った、割った、割ってしまった。


 割った?


 割った。


 私は、割った。


 頭を、あの子の、黒髪を、


 〈おはよう 私のゲネシス〉


 顔を覆っていた。


 掌で顔を押し潰して、指先で額や髪の生え際に爪を立てて。


 〈朝から酷い顔だわ〉


 指の隙間から文字が映り込む。


 紫の火の粉が踊っている。


 手の甲を撫でていく火は私を害することなく、静かに手を下ろせと示している気がした。


 心臓が徐々に加速していく。


 脈拍が上がってしまう。


 口が開いて、空気を吸って、吐いて。


 喉が鳴って、酸素が足りなくて、顔から脂汗が滲んだ。


 ベッドの足元にいたのは、紫の業火。


 天上に届きそうなほど大きく、高く燃える火柱。揺らめいて形を変えて、二本の腕のようなものが生えたと思えば消えていく。顔だと認識した次の瞬間には周りの炎に喰われてなくなり、揺らめく体は細くなったり太くなったり。


 全く安定しない業火が私の視界の中心にいる。


 なんだ、なんだっけ、なに、わたしは、


 〈しっかりして 憤怒のゲネシス かわいい子〉


 私の顔を覆ってしまえるほどの炎。それがまるで手のように両頬を包んで、耳を覆って、顔を撫でるから。


 私には、猛火の魔人――ライラしか、見えなくなった。


 〈貴方はやり遂げたのよ 大丈夫 何も間違ってないわ 私のかわいいゲネシス 貴方は正しい 貴方が正しいの〉


 火の粉が私の周囲を回る。私の視界を文字が踊る。炎の揺らめきはライラという存在がそこにいると証明し、紫の猛火の歪みは笑みだと感じた。


 〈ゲネシスに盾突く者を許してはダメ 貴方は私のゲネシスだもの だから貴方もガインも正しかった 貴方を正しくないと叫んだあの子の方が 正しくなかったのよ〉


 ライラの文字が私の視界から外れない。脳の奥底から生まれ始めた痛みすら燃やすが如く、不形態の魔人は炎の両手を押し付けてきた。


 塞がれた耳が火の爆ぜる音だけを聞く。パチパチと小さく穏やかに響くそれは、私の思考すら燃やすようだ。


 汚れきったモーニングスターが目に入らない。

 紫の炎だけが私の周りを囲っている。


 何を考えたら良かったっけ。何を思い出そうとしたんだっけ。私は何をしたんだっけ。


 掌が思い出しかけた記憶を、ライラの炎が押さえ込む。体から生えた三本目の腕みたいな炎が私の両手を包み込み、火の粉が頬を撫でていく。


 ねぇ、ライラ。


 私、私は、わたしは、さぁ。


 〈貴方はゲネシス 私のゲネシス あぁ嬉しい 貴方の怒りが私の殻を割ってくれたの 嬉しい 嬉しいわ ありがとう〉


 四本目の腕が私の頭を撫でる。

 五本目の腕は背中を。

 六本目と七本目は両の二の腕を。


 三本目は私の両手を。

 二本目と一本目は両頬を。


 覆われて、覆われて、猛火が私を包んで離さない。


 熱くない、熱くない、燃えてないのに意識が散漫。


 私はなにをしたんだっけ。わたしは昨日、なにを、誰を。


【 イグニ 】


 寒気を呼ぶ声と共に、紫の魔人が私の前から霧散する。宙で煌めいた紫の火の粉は枕元のウェストポーチに入り込み、私はぼんやりとその軌道を追った。


 転がっていたモーニングスターが持ち上げられる。そちらへ視線を向けると、銀色の髪がいた。


 透けるような銀の短髪。青みがかった白い瞳。向かって左の頬にあるのは深い火傷の引きつり痕。


 暴力の輪バディーロアを生き抜いた少年、ユニ・べドムがそこにいた。


 モーニングスターを片手に持ち、ピンヒールの踵を絨毯に刺して。いつも気味悪く上がっている口角が、今日は下がっていた。


 常連の不法侵入者はベッドの縁にモーニングスターを放り捨てる。鈍器の重さに揺れたマットレスを何となく感じていれば、今度は一部が深く沈んだ。


 ベッドに腰かけたユニは私に背を向けている。組んだ膝で頬杖をついている背中は無防備にも見えたが、コイツを罰することなんてまだまだ出来ないんだろう。隙がないことくらい嫌でも分かる。


 軽く振り向いたユニの目が細められる。


 私の顔を、正面から見ている。


【 おめでとう、人殺し 】


 人殺し。


 ひとごろし。


 ひとごろし……?


 砕いた。


 割った。


 染み出た脳髄を、私は。


 突然激しい頭痛に苛まれ、顔を覆って唇を噛み締める。痛みと吐き気が体の底から湧き上がり、震える肩を宥めることなど出来なかった。


 罰した、罰した、刑に処した。


 私はあの子を、黒髪の、言葉が痛くて鋭い子を。


 覚えてる。


 黒い目に溜まった涙を。

 地面に染みた冷や汗を。


 彼は喋った。いっぱい喋った。喋って喋って傷つけた。


 だから正しい。罰して正しい。殴って正しい。


 殺して、正し、ぃ……?


【 その様子だと、やっぱり自分で手にかけるのは初めてだったんだ 】


 脂汗が滲んで震える顔を掴まれる。正面から鼻と口を覆うように持たれて始めて、私はマスクをしていなかったと気がついた。


 なんて今更。なにも現状を把握できてない。なにも考えられてない。どうしたんだ、私は。


 ユニは私を真正面から見つめ、冷たい指先が頬に食いこんだ。


【 イグニが勝つのは決まってたじゃん。君があの程度の奴らに負けるはずないんだから。誤算と言えば、ライラを孵化させる為に君が刺激されたことか 】


 青みがかった白い目が横へズレる。その焦点は私の背後で合ったと気づき、じんわりとした熱も感じた気がした。


【 やぁ、口無しライラ。そんなにフィロルドが起きるのをご所望かい 】


 〈も ち ろ ん〉


 背後から炎が伸びて、私とユニの間に火の文字が浮かぶ。私から離れたユニの手は上着の袖の中に隠され、紫の炎が私の口を覆った。


 〈きょうだい達には早く起きて欲しいわ またパラスとして生きるの 楽しみ 楽しみだわぁ〉


【 憤怒が楽しみを綴るなんて、笑わせるね 】


 〈怒りとは そう簡単に表に見せるべきものではないの 野心と同じくね〉


 不形態のライラの炎が私の腹部に巻きついた。熱は感じないが、視覚的に肝が冷えるものだ。


 私では、まだライラの炎を消せないと分かっているから。


 笑うように炎を大きく揺らめかせたライラは、私の腹部を撫でていた。


 〈溜めて 煮えて ゆっくりゆっくり燃やしていくの 一瞬で燃やす炎なんて安上がり 火を受けた相手が痛みを感じ 焼ける匂いを嗅ぎ 燃える体を理解してこその憤怒 じわりじわりと燃やすのよ〉


【 低温調理とは悪趣味だな 】


 〈褒め言葉ありがとう フィロルドに選ばれた貴方も大概よ〉


 細かく火の粉を爆ぜさせたライラがポーチに戻る。


 私は口元を左手で隠し、右手の指先がモーニングスターに触れた。


 冷たい鈍器が鈍く光る。体の芯から熱が引いていく。


【 君が殺した数は一だよ 】


 ユニの指がモーニングスターのトゲに触れる。私は反射的に息を吸い、銀の髪へ視線を投げた。


 青みがかった白い瞳は、笑わない。


【 一人だけ。イグニと戦ったアイツだけ。他の憤怒は要監視。ガインや他の教師の気分が良さそうだったから昨日は見逃されたっぽいね 】


 脳裏を過ぎったのは、ロサの顔。ミュウリンの目。怯えきった憤怒の生徒達が瞼の裏を駆けていく。


『これで君も、大人の仲間入りだ』


 ガイン先生の声が耳の奥で木霊する。


 大人、大人、処する大人。選ばれた者だけがなれる執行人。私は選ばれた。選ばれた? 誰に、どうして、なんで、私は。


 私はどうして、こんなにモーニングスターを振ってるの。


 ライラが正しいと教えてくれた。私が正しいと記してくれた。だから大丈夫。大丈夫。私は間違ってない。喋ってたあの子が悪くて、嘲笑っていた生徒達も悪くて、だから罰した。私は悪くない。私は正しい。正しい、正しい、これが正しいと教えられてきたんだから。


『おめでとう、名無しちゃん』


 響く、ガイン先生の声。頭に声が響く。


『これで君も、大人の仲間入りだ』


 嫌だ、嫌だ、聞きたくない。


『おめでとう、名無しちゃん』


 悪いことだ。喋ることは悪いこと。だから反響なんてしないで、やめて、もうやめて。


 お願いだから、


『これで君も、大人の仲間入りだ』


 静かにしてッ


 嫌で、嫌で、たまらなくて。吐きそうで、鼻の奥が痛くて、気持ち悪くて、体中が痛くなって。


 逃げ出したくなった時、大人の声を塞ごうと耳を覆ってくれたのは、冷たく白い野心の手だった。


【 無理やり大人にならなくていいよ 】


 ユニの掌に力がこもる。彼の脈打つ血管が、低く熱く私の鼓膜を震わせる。


【 周りに大人になれって言われたところで、心がついて行かないでしょ。見せかけの大人なんて捨てちゃおう 】


 ユニの額が私の額に触れる。冷たい銀髪は私の黒髪と混ざって、乱れて、噛み締めた唇から痛みが走った。


【 俺は、生きる為に大人になりたいと思ったけど 】


 両手の縁が熱くなる。


【 結局、大人が何なのか分からないままだった 】


 落ちた雫を、止められない。


【 ねぇイグニ 】


 目を伏せた私を、ユニが笑うことはなかった。


【 自分を見失っちゃ、ダメだよ 】


 歪んだ声が私の内臓を震わせる。


 怖気のする声が不安を背中に走らせる。


 それでも、それでも、私の右手はモーニングスターを握らない。今ならきっと、一撃ぐらい、入れることができるかもしれないのに。


 ユニは私の耳を強く押さえて、音のない世界を、作ろうとしてくれた。

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