壁と陰鬱
パンデモニウムに来て数カ月が経過した、ある日。季節を感じないまま、ただ日にちだけが過ぎる今日この頃。
朝から寮へやって来た担任教師達。質問を挟む暇もなく
こういう時に一番に口を開くのは、最も口を開いて欲しくない奴である。
【 朝からなんなの。校外学習第二弾とか? それともまた引っ越し? 事前説明なく行動させようとしてくるの、ちょっとムカつくんだけど 】
足を組んだユニはピンヒールの踵を揺らす。バルバノット先生はユニの口を背後から静かに塞ぎ、他の先生達は私の後ろへ視線を向けた。
私とノアの間を通ってガイン先生が中央に立つ。紫の毛先を遊ばせて、段違いに長い部分は一つに結って。結われた毛先は肩口から前に流され、先生の動きに合わせて部屋の明かりを反射した。
黒い上着の裾を正し、紫の双眼が私に向く。その顔にはいつもの笑みっぽい何かが張り付いており、私の腕に鳥肌が入った。
「憤怒のライラの
私の背筋が自然と伸びる。ガイン先生は微笑を携えたまま軽く腰を折り、ゆらりと右手を開いてみせた。
白い掌に浮かんだのは赤と青が混ざった火。それは細く文字を綴り始め、私は瞬きをせずに視線を走らせた。
〈憤怒のライラの
文字を最後まで読んで、最初に戻って、また読んだ。
五人の
交代。
……私の、交代?
首を傾けて、毛先が背中を撫でた感覚をおぼえる。今日はポニーテールだ。綺麗に結うことができて少しばかり気分が良かったんだけど、今は疑問符でいっぱいにされた。
「交代……って、イグニが?」
本日も健康的に包帯だらけの湊。彼はモズ先生に顔を向けたが、教師達が口を開くことはなかった。
微かに肌を刺激する空気は優しくない。先が尖りかけた針で突かれる寸前のような、緊張感を増幅させるだけのものだ。
「これは宣戦布告だよ、名無しちゃん」
唯一語る教師はガイン先生。背中を伸ばした彼は火で遊び、火を練って、私の周りを囲っていく。細い火の縄は私を逃がさないと示すように弾けていたが、私は熱さを感じることが無かった。
「元憤怒の候補者達から異議申し立てがきた。名無しちゃんは憤怒の
犬歯を見せたガイン先生は微かに顎を上げて目を細める。
私は揺らめく火の縄に軽く触れ、火傷しない自分の指先を認めた。
「元候補者達からの要望はただ一つ。魔術も暴力もありの決闘において、名無しちゃんが負けた場合、彼らが
腰のウェストポーチの中でライラが揺れている。ガイン先生の口角が上がり続ける。
私はノアを見て、メル、フィオネ、湊、ユニの順に視線を回した。いつも騒がしい
私は反対側にゆっくりと首を傾けて、嫌いなガイン先生の声を聞き続けた。
「決闘は今日の午後一番。第三グラウンドにて。勝敗の見届け人は野心・軽蔑・愛執・悪食・虚栄の
私の周りから火の縄が消えていく。ガイン先生は軽い音を立てて両手を打ち鳴らし、目と口を糸にした。
「まぁ簡単に言っちゃえば、他クラス全員の前で戦って、勝った方を憤怒の
〈拒否権無いんですね〉
「あるけど無いよ」
ホワイトボードを両手で持ち、ガイン先生の返事に首を傾げ続ける。スー先生やモズ先生が溜息を吐く仕草をしたのを見つつ、メルが固く爪を噛む音を聞いた。赤茶の少女の横ではオレンジのスライム、モニカ先生が震えている。
「
「決まってるよ。もう決まってる。彼らは既に負けたんだ。パンデモニウムに来たその日に、魔術も使えないこの子にさ」
靴の踵を鳴らして歩いたガイン先生は私の背後に立つ。慣れた動作で私の顎を掴んだ教師は、前だけ見ていろと指示している気がした。
「負け犬の遠吠えを聞くなんて無意味だけど、これは憤怒の元候補者全員の意思だからね。無視していらない火種になっても面倒だ。だから戦っておいで、名無しちゃん」
〈残火の処理係ですか〉
「だって彼らは将来、君の部下なんだから。ちゃんと黙らせとかないとうるさいよ?」
顎にあったガイン先生の手が喉に下りて軽く気道を締める。この魔物の感情なんて読めたもんじゃない。不満なのか喜んでいるのか、楽しいのか面倒くさいのか。生徒である私は、大人の顔色を読むには色々とまだ足りないのだろうな。
〈魔術もありなら勝敗が分かりませんね〉
【 笑わせないでよ、物理の暴君 】
隣の席で、人の神経を逆撫でする声が喜色を孕む。視線だけ向けると、青みがかった白い瞳が細められていた。
【 一度負けた奴らが再び挑んで勝てるなんて、安っぽい小説の中だけだよ 】
〈何が起こるのか分からないのが現実ですよ〉
【 マイナス思考だな。
鼻で笑ったユニに分かるよう肩を下げる。
私は軽くウェストポーチを撫でてから、マーカーをホワイトボードに滑らせた。
〈私はライラのゲネシスです それ以上でもそれ以下でもない〉
「模範解答だね、満点をあげよう」
ガイン先生が掌で私の両目を隠す。何も見えなくなった私はホワイトボードとマーカーを膝に置き、ポーチの中で笑っているライラを感じていた。
他の
だから私は私の道を行く。
私の道は、憤怒の道。
そうではなければ、私がここにいる意味がない。
喋ることが許された世界において、モーニングスターを握っている意味がない。
―― お互い、世界に負けず、頑張ろう
他人に閉じられた視界の中で、浮かんできたのはポルカの姿。もう一つの国にいる、同じ不言の同級生。
負けないよ、ポルカ。
私はパンデモニウムでも発語を許さない。言葉を許さない。それはパンデモニウムを壊しかねない脅威だから。
ライラが孵る世界において、害は不要。私の意味はライラがくれる。この世界でモーニングスターを振り続ける理由を、ライラが作って、私の感情を肯定してくれるから。
ガイン先生の手が離れ、視界が開けた私は、ホワイトボードの面に指の腹を滑らせた。
***
午前の授業を免除された私は、寮の応接室で時間を潰していた。
他の
だから寮はとても静かだ。空っぽで、私しかいなくて、静寂がここにはある。
膝の間で両手を脱力させ、モーニングスターを握る。ポニーテールを結い直し、マスクの中で呼吸して。
〈楽しい遊びをするのね〉
ウェストポーチから火の粉がこぼれてくる。伏せていた瞼を上げれば、紫に輝く火の粉が私の周囲を覆っていた。
〈付き合ってあげましょう 私の憤怒 私のゲネシス〉
なんとも上から目線なことで。
私は肩を落としつつ、机に放っていたホワイトボードとマーカーを手に取る。
〈負ける可能性だってありますよ 魔術ありなんですから〉
〈貴方 一日目に勝ったでしょ? なら大丈夫よ〉
〈あの頃と今では お互い違うと思いますよ〉
〈違わないわよ 彼らは敗者 貴方は勝者 貴方が私の憤怒 これは決定事項よ〉
火の粉が私の目元をくすぐっていく。熱くはないけど目元に火が寄るのはまだ慣れてないんですけど。
私は隣にホワイトボードとマーカーを投げ、モーニングスターを握り直した。
〈あら 貴方 もしかして勝敗に興味はないの?〉
また私の視界に火の粉が入り込んでくる。眼球を動かして意味を汲み取った私は、軽く頷いた。
勝つか負けるかは結果にしかならない。
私の気を重くしているのは、元憤怒のクラスメイトから送られる鋭い言葉だ。
どう考えたって痛い言葉で刺されてしまう。
どう想像したって数多の言葉を受けてしまう。
戦う相手は、
十人の想いを背負って私に挑むと決めた相手は、何と口を開くんだろう。
私が罰した十一人は、何という言葉で私を刺すのだろう。
モーニングスターを握り締める。掌に持ち手の形が食い込んでいく。
罰しないと。
喋るならば罰しないと。
彼らにとっては私の方が悪くたって。
殴ることが、喋ることより悪いと指をさされたって。
私は自分を正しいと信じてる。
喋れば誰かが傷ついてしまう。語ればパンデモニウムに亀裂が入る。言葉は世界を壊してしまう。
だから殴る。だから罰する。
これは暴力だが、暴力ではない。
守る為に必要なんだ。
壊さない為に、壊すんだ。
私は間違ってない。
私は間違ってない。
私の道は、間違ってない。
今日は私に言葉が向けられる。今日の私は傷つけられる。
だから罰してみせよう。
パンデモニウムに悪の種をばらまく奴を。
私は憤怒の
勝敗なんて、罰した先にある結果にすぎない。
モーニングスターの先で軽く床を叩いた私を、卵の
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