偽善と自己満足

 パンデモニウムの食糧庫へ戻り、寮へと帰還する。談話室でフィオネが紹介してくれたのは完全遮光ができる上着だった。


「素敵でしょ! とっても素敵! かわいいわ!」


 黒い上着は頭の先から足の先まですっぽりと覆えるサイズをしており、羽織ってフードを被ると顔まで完全に隠れる。裾に銀色の糸で刺しゅうが入っているのは確かにお洒落だ。


 試しに羽織らせてもらったが、本当に視界が真っ暗になった。完全に光のない暗がりは黒と表現した方が合う気がして、黒よりも深い闇でもある気がする。


 心音が乱れる感覚になり、すぐに上着を脱いだ。これは、ギアロにとっていい物、なのだろうか。


 彼女は陽光の中で呼吸ができないとしていた。ならばこうして、完全に光を遮断して、闇を纏って歩けば解決に繋がるのかもしれない。周りのことを一切見ずに、自分にとって正しくない者達は無視をして、黒い中を歩くのがいいのかもしれない。


 それでも、それはさ……フィオネ。


「ギアロ、喜んでくれるかしら!」


「たぶん……?」


 上着を抱え、踊るようにフィオネが回る。爪先立ちで、器用に、くるくると。ふわりと広がる上着の裾はドレスを想像させ、私はメルの隣で目を伏せた。


 フィオネは、きっと優しい。甘くてキラキラでふわふわで。みんなの良い所を探して、声に出して、褒め称える。好き好き大好きとっても好き。好意の弾丸は人の胸を撃ち抜いて、どろどろと溶けて侵食する。


 危険な優しさは甘すぎる。全てフィオネの掌の上で、くるくる玩具のように愛でられて、気づけば平等の甘言に溺れてしまっている。彼女が好きと伝えてくれた部分が自分の良い部分だと錯覚してしまう。


「ね、イグニ!」


 満面の笑顔で妖精が舞う。白い頬に桜色を滲ませて、金と桃の髪を揺らしながら。


 影の中だけで呼吸をする。その規律を守り続けるギアロに対し、一人で闇を纏って歩ける物を与えようとしながら。


 みんなと一緒ではない。周りに変われなんて強要しない。影の中にいたいなら纏っていればいい、一人で闇に包まっていればいいと、独りぼっちになる道をプレゼントしようとしているのだから。


 分かってるよ、分かってる。それは譲歩を重ねて、ギアロの立場になって、考えた結果の道だ。周りに陽光の中で息をするな、なんて命令するのは制度改革だとか常識改変になるだろうし。反感が生まれて、反抗心が芽生えるだけだ。


 だからギアロに闇をあげる。影をあげる。それは……正しいんだよね。


 私は肯定の意を示し、緩やかな共犯者になった。


「早速ギアロにプレゼントしに行きたいわ! 寮にいるかしら!」


「どうだろ……虚栄の寮って、入れるのかな……」


 メルは腹部を摩りながら台所へ移動する。冷蔵庫に詰め込まれた食材は全てメルの物だ。他の守護者ゲネシスはここの冷蔵庫を使っていない、はず。


 ウェストポーチからよく研がれた包丁を出した少女は肉や魚を並べ始めた。お腹が空いた時間らしい。それでも意識はフィオネの方へ向いているようだ。


「悪食の寮に、いた頃……他クラスの生徒って、見たこと、ない気がする……」


 意外と視野が広いんだよな、メルって。


 包丁で容赦なく肉を切り始めた少女を見つつ、私は憤怒の寮を思い出す。他の憤怒の候補者達とは会いたくなかったので、常に人気が無いのを確認して歩いていたな。憤怒の寮で他の生徒に会ったことはない。


 フィオネは顎に指を添えて眉を下げる。そんな困り顔を外で晒せば信者達が秒で集まるだろう。「どうしたの、フィー」という誰とも知らない声が耳の奥で再生された。最悪。


「なら、スー先生に明日聞いてみるわ。ギアロの所に行きたいのって!」


 虚栄なら、ノアに同伴してもらえば早いのではなかろうか。


 深く考えないまま浮かんだ意見に従い、フィオネの袖を引く。桃色の双眼をこちらへ向けた少女は宝石のような笑みを携え、脹脛の羽根がはばたいた。


 その瞬間、私の胸には、再びさざ波が立ったのだ。


 私を残して保健室を去った人外の後ろ姿が。〈わかった〉の文字が、私の安心を揺るがしている。


「なぁに? イグニ!」


 輝く物を見ると目を細めたくなるのは、人間の脊髄反射だろうか。それとも不言の世界パンミーメの生態だろうか。


 私は手で目を覆いたい気持ちを覚えながら、ホワイトボードにペン先をつけた。


 〈ノアに〉


 そこまで書いて警鐘が鳴る。頭の奥。後頭部の底。


 これは、書いても意味がないと、私は理解している。


 ノアは駄目だって、知っている。


 どんどん荒くなる波が、私の胸を圧迫した。


『イグニは……きっと、悪くないよ』


 メルの声が脳裏で木霊した時、包丁がまな板に当たる音が響く。


「イグニ」


 顔を上げる。呼ばれた方へ目を向ける行為に、私の体は慣れ始めてしまっているから。それがコミュニケーションの最初だと、否が応でも周りに教えられてしまったから。


 私が目を留めた赤茶の瞳は、意味の分からない憂いを帯びていた。


 セミロングの髪が緩く横に振られる。その視線の先には私が握るマーカーがあるから、ホワイトボードに文字が増えることはなかった。


 ぬくもりが私の手に触れる。心地よい香りがマスク越しに香ってくる。


 見るとフィオネが、ホワイトボードを持つ私の手を支え、白い面を覗き込んでいた。金の睫毛に縁取られた瞼は目元に影を落としている。


 少しだけ口角を上げた少女が顔を上げる。私は桃色の瞳に、整理できない問いをぶつけた。視線に乗せて、目に浮かべて。


 しかし、それが伝わるよりも先に。まだ伝わっていない中で。


 心地よい香りを、腐葉土の香りが上書きする。


 私とフィオネに影がさし、振り返る。


 足音もなく立っていたのは、ノアだった。


 黒い毛先を肩から流し、ねじれた角は後方に向かって伸びている。


 赤い爬虫類の目はホワイトボードを確認し、ふわりと砂が舞った。


 〈俺がどうかした?〉


 柔らかな聞き方はいつものノアだ。ノアはそういう人外だ。優しいって知ってる。私の前で極力喋らない道を選んでくれてる。そんな、友達。大事な友人。


 でもね、ノア、どうしてだろう。


 私は今、君に問うべきことが分からなくて。何も間違えてはいけないって、背中がざわめいているんだ。


「今日、虚栄のクラスの子と友達になったの。その話をしてたのよ!」


 私とノアの間で桃色が浮かぶ。妖精のフィオネは屈託なく破顔し、ノアと同じ目線で浮遊していた。


 狼の尾がゆったりと揺れる。赤い双眼は数秒だけフィオネを観察し、私の方へと下りてきた。


 自然と頷いてしまう。フィオネの主張に嘘はないのだと、罪悪感になりかけた気持ちを隠したまま。


 宙で舞った砂は私の額を撫で、フィオネの首をかすめていった。


 〈ギアロ・ジレ・ナグマホーンは もう俺達に会わないと思う〉


 砂が形どった文字の羅列。


 私は何度も目を往復させ、フィオネの羽根が動くのをやめた。台所からは、包丁が強くまな板に当たる音がする。


 〈フィオネのそれ その友達へのプレゼントだって思ったけど 違うか?〉


「いいえ、違わないわ。あげるの、ギアロに。帰りたいけど帰れなくて、周りが嫌で、悲しくなってるあの子に。安心できる闇をあげるのよ」


 フィオネが床に足をつく。私からは後ろ姿しか見えない。だからフィオネの表情をうかがえない。


 ただ、笑ってはいないだろうって思ってしまった。その声にいつもの弾みがないから。いつもの柔らかさが、彼女にないから。


 目を伏せたノアは軽く首を横に振り、砂が意思を綴っていく。


 〈それをあげて 一人闇の中で泣けって?〉


「違うわ、泣かなくていい場所をあげるの」


 〈変わらないよ フィオネ どれだけ物をあげても 好意を伝えても それは救いじゃない〉


「相手のことを考えて、好意を伝えることは素敵なことよ。誰しも良い所があるの。でもそれは自分では見つけにくいから、他人である私が伝えるの。平等に、全員に。そうすれば、そうしていれば、みんな救われるの」


 〈救われてるのはフィオネだけだよ ナグマホーンに必要な物も分かってないんだから〉


「ノアは分かるの?」


 〈分かるよ〉


 赤い双眼が妖精を見下ろしている。その目に浮かぶのは仕方なさであり、哀れみであり、深い呆れも受け取れる。


 フィオネの肩が動き、両手で上着を抱き締めていると理解できた。


 〈ナグマホーンにいるのは物じゃない 理解してくれる他人だよ〉


 砂が頭上を回っていく。形を変えて、文字を変えて、意味を変えて。


 〈一緒に泣いてくれる人 苦しさを理解してくれる人 共に怒ってくれる人 それが欲しいのさ〉


「それは、」


 〈金では買えない 宝石でも無理 出会いは奇跡だ だから作れないし 与えられない〉


「なら、なら私がなるわ。ギアロと一緒に泣いて、怒れば、」


「フィオネ」


 低く穏やかな声が、フィオネをたしなめる。声に乗ったのはやはり仕方なさで、灰色の首は緩く傾いた。


「天使は贔屓しないだろ」


 ……――ぁ、


 気づけば、桃色が私の腕の中にいる。


 ホワイトボードもマーカーも捨てて、金色の頭を胸に押し付けて。


 腕を引いたのはいつだっけ。

 フィオネの顔は見たっけ。


 私はどうして、フィオネを抱き締めているんだっけ。


 ノアを見上げて、ゆっくり首を横に振る。簪が揺れて小さな音がした。私の髪は、フィオネを隠すように垂れている。


 駄目だよノア。直感で、感覚で、それはフィオネに伝えてはいけないことな気がしたんだ。


 だからやめて。やめてあげて。フィオネの行為は全て彼女自身の為だけど、彼女がそうしてるのは落ちた天使の園ホワイトラバーで成長したからだ。


 分からなくていい、分かり合えなくていい。


 それでも、否定するのだけは間違ってる。


 なんでも喋ってしまうフィオネが嫌いだ。強くなったその時、魔術も扱える守護者ゲネシスになった時は罰を下さないといけないって思ってる。そうしないと世界が壊れてしまうだろうから。彼女の言葉が各所に亀裂を入れるだろうから。


 でもそれは、フィオネの好意事態を否定しているわけではない。私が危ないと思っているのは


 言葉は世界を焼いた。喋ることで世界は壊れた。少なくとも不言の世界パンミーメはそうだった。


 世界を壊した言葉の中には、愛の台詞も混ざってる。愛の言葉は強くて厄介。言葉は危ない。


 でも、愛が悪いわけではない。


 嘘や策略が愛の言葉には混ざりやすいから危険なのだ。人の心を掻き乱し、亀裂を入れかねないから駄目なのだ。


 愛を伝えるなら手紙や贈り物にしよう。表情で伝えよう。そうすれば私は罰しようなんて思わない。良いことだとさえ思えるだろう。


 だから、お願いだよノア。


 フィオネ自身を否定しないで。


 彼女を天使だなんて、言わないで。


 全ての気持ちを目に込めて、ノアを凝視する。爬虫類の目は微かに見開かれたが、すぐにいつも通りの穏やかさを滲ませてくれた。


 〈イグニは やっぱり優しい〉


 砂が私の前で舞い、ノアが後ろへ数歩下がる。


 瞬間、私達の間を鉈が縦断した。


 鋭い歯が床をみ、瓦礫と共に起き上がる。伸びた凶器を握るのは台所から出てきたメルだ。


 爪を固く噛んでいる少女は胡乱な瞳でノアを射抜いている。


「ノア……退場」


 メルの言葉に、ノアは軽く両手を上げてから踵を返す。


 彼の背後を追いかけた砂は最後の文字を残していた。


 〈ナグマホーンは もうゲネシスとは会わないよ〉


 揺れた銀色の尾が談話室を後にする。私はフィオネを抱き締めたまま肩の力を抜き、私達の腕をメルが撫でた。


「フィー……」


 腕の力を緩めた私は、メルと一緒にフィオネの顔を覗き込む。


 そこには、両目を見開いて固まっているフィオネがいた。


 桃色の双眼はどこでもない一点だけを見つめており、こちらに対する応答がない。私とメルは顔を見合わせ、弱くフィオネの肩を揺らした。


「……大丈夫よ」


 口角を上げたようなフィオネは目を伏せる。そのまま私の胸に顔を埋め直し、メルにも腕を回して抱き寄せた。


「大丈夫、間違ってない。私は間違ってないの。好意は素敵。平等に与えるの。みんな大好き。平等に。みんな素敵なの。平等に」


「フィー……?」


 もう一度、メルが呼ぶ。


 フィオネは私達の服を握り締める。


 ギアロにあげるはずだった上着は、床に落ちて皺だらけになっていた。


「大好きよ、メル、イグニ」


 なんて、言葉にしたフィオネの顔は見えないし、彼女の羽根は動かないままだった。

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