邂逅と故郷


 フィオネとメルに連れられ、やって来たのは第二階層。使ったのは食堂奥にある食材の貯蔵庫から繋がっている道だ。


 目的はギアロが呼吸しやすくなる為の道具探し。フィオネの好意に巻き込まれた結果だ。


 私は耳栓を奥の奥まで捻じ込んで、フィオネとメルの声は聞こえない。周りの声も聞こうとしない。思い出すのはノアの砂文字だ。


 〈わかった〉


 ねえノア、一体何が分かったの。君はどこへ行ったの。どうして私はこんなに不安に駆られるんだろう。君は私の周りで唯一マスクをつけて、喋らないでいてくれる、友達なのに。


 私は、君が分からないよ。


 歩いているのは煌びやかな衣服や布が多く並ぶ通り。道行く魔物も装飾品や小物を身につけたものの比率が高く、目も耳も眩みそうだ。


 魔物達はこちらを見て、守護者ゲネシスだと分かれば膝をつく。頭を垂れて道を開ける。三人揃った守護者ゲネシスの邪魔をするなど許されないと示さんばかりの雰囲気で。


 それは学園でも見た光景に似ていた。三人揃った私達の前で元候補者達が道を開けるあの光景。邪魔をしてはいけないと教え込まれたような顔色。


 フィオネの声は聞こえない。メルの相槌も聞こえない。浮いた桃色の妖精は赤茶の少女と手を繋ぎ、私の歩幅は狭くなった。


 少し距離を取りたくて。

 三人ではなく、二人と一人になりたくて。

 一人になれる場所に行きたくて。


 静寂を、作りたくて。


 今、自分がどこにいるのか自信が無くなっていく。声のさざめきが押し寄せて指が痙攣する。私達の腰にいる卵を崇拝している者達は、期待の声を我慢しない。


 あぁ、殴らないと、罰しないと。黙らせないと、静かにさせないと。


 喋っていれば誰かが傷つく。声を発することは悪いこと。


 世界が崩れるその前に。


 ライラが孵るその前に。


 正しておくのが私の役目。


 私に意味をくれる、ライラの為にも。


 気づけば手がモーニングスターを握っている。固く固く力を込めて、掌に持ち手の形が移るほど。


 ウェストポーチの中でライラが揺れた時、私は一つの強い視線を感じた。


 煌びやかな店と店の間。暗がりの路地からこちらを凝視する、黒い瞳。


 二本の銀色の長い棒を数個の鎖で繋いだ武器――フレイルを持った、白い少年。


 立ち止まった私は目を見開いていると頭の片隅で理解し、耳の奥で心音が大きくなっていった。


 どんどん大きくなる。心臓が自分では制御できない早さで血液を送り出している。破裂しそうだ。あまりにも脈が速い。


 額から指先まで強すぎる脈拍で震え、私の肩に力が入った。


 爪先が向きを変える。

 少年は後ずさる。

 その目には、確かな驚きが浮いている。


 私の一歩は大きくなり、道を作っていた魔物の舗装を踏み越えた。


 誰も私の道を邪魔しない。私が歩く方向へ道を作る。それが例え、共にいた二人の守護者ゲネシスとは別方向になったとしても。


 ヒールが石畳を踏む音は心音に消された。心音よりも大きいのは呼吸音で、浅くなっていると気づいていながらも整えられない。


 薄暗い路地の中、大通りの視線も届かない暗がりの中、私は少年と向き合う。


 白いパーカーにグレーのスラックス。膝丈の白い上着にはポケットが二つあり、襟や袖口には紫のラインが入っている。パンデモニウムの制服かと一瞬考えたが、こんな白さは見たことがない。


 パーカーのフードを被っている少年は、その上から銀色のヘッドフォンをしていた。黒い前髪は目の上で切り揃えられ、同色の黒い瞳が私を射抜いている。


 そんな彼の口には――銀のマスクがついていた。


 固めの素材で出来ているのだろう。マスクには鈍い光沢があり、私の心臓が痛いほど拍動した。


 私の手にはモーニングスター。


 彼の手にはフレイル。


 彼の黒い目は複雑な色をしながらも、喜色を多く孕んでいると認識できた。


 ゆっくりと耳栓を外せば、彼もヘッドフォンを首に下ろす。通りの喧騒が耳に入り、鳥肌が立った時、彼も私も同時に耳を塞いだ。耳栓と、ヘッドフォンで。


 もう一度目を合わせる。


 彼、彼は、彼は――そうだ。


 思い出した。パンデモニウムにいる間、一度だけ脳裏に浮かべた男の子。


 体育の授業中にマスクを外した男の子。


 ハードル走を終えて、天気もいい日で、みんな汗をかいていた。


 その中で一人木陰でマスクを外した人がいた。クラスは違った。中学校も違って、高校から一緒になったから、彼がどんな人かなんて知らなかった。


 外したマスクの下の汗を拭った男の子は、私と目が合うと、悪戯っぽく笑って――


 今も、同じ目元をしている。


 じわじわと驚きを溶かして、目元に皺を刻んで、悪戯っぽく細めてる。


 彼は自分のマスクを指さした後、その人差し指で私のマスクを押した。


 ―― 覚えてる?


 そう、問われたと伝わるから。


 私は一度頷いて、彼は噛み締めるように瞼を閉じた。


 彼の手からフレイルが滑り落ちて金属音を立てる。ゆっくりとしゃがんだ彼は武器を拾うことなく、額に両手を当てていた。私も合わせて膝をつけば、彼の皮膚を流れた水滴を見つけてしまう。


 大粒の涙をこぼして、声は上げず、目元を真っ赤にして。


 下瞼からマスクを伝って落ちた雫は石畳に跡を残したから、私の視界も滲んでしまうのだ。


 私はモーニングスターを離して、彼のヘッドフォンを押さえる。冷たいそれは音を聞かない為にあるのだと、すぐに分かってしまったから。


 歪んだ視界が決壊する。目に溜まった雫が解けていく。


 私が唇を噛み締めて涙を落とせば、彼の両手が耳を覆ってくれた。


 冷たくない、人外でもない、普通の人の手。男の子の手。私と同じ――不言の世界パンミーメを知る、人の手。


 私達は互いの耳を塞いで泣いてしまう。


 やっと会えた。やっと会えた。やっと見つけた。


 しっかりと意思疎通したことなんて一度もない。それでも、同じ教室で、同じ授業を受けてきた人。


 服装やマスクが変わっていても伝わった。ただ一瞬のジェスチャーでお互いに理解できたのだ。


 喋らなくてもいい人。言葉を許さない人。私と同じ道を生きてきた、普通の人。


 泣き崩れた私達は互いの耳を押さえつけ、嫌いな声から遠ざかる。

 怖い世界に背を向ける。

 私達を異常だとする世界から目を逸らす。


 動けなくなった私達は、涙で地面を濡らし続けた。


 ***


 ―― 俺は、隣のエデンって国にいるんだ


 ―― パンデモニウムではなく?


 ―― そう


 ジャスチャーや表情での意思疎通は久しぶりだったが、やはり体に染み込んでいるのだろう。ヘッドフォンの彼とのやり取りは想像以上にスムーズで、私の表情はよく動いた。彼も顔色が生き生きとしており、お互いに目元は赤いままだと思う。


 手を動かして、指をさしたり表現したり。腕も使って、表情も大事。ホワイトボードを真ん中に置いて、補足表現で文字を綴る。


 彼が連れて行かれたのはエデン。パンデモニウムではない、もう一つの国。


 そこにもパンデモニウムのような学園があり、彼は「不屈」と名付けられたクラスにいるそうだ。


 ―― そっちは守護者ゲネシスってないんだ


 ―― なんだそれ


 ―― パンデモニウムの大事な存在を守る、役目のこと


 二度瞬きをした彼はもう一度首を横に振る。私は少しだけ斜め上に視線を投げ、ポーチの中にいるライラが大人しいと感じていた。


 ―― じゃあ、お前はその大事な役目に選ばれたわけだ。すごいな


 ―― いや……初日に喋ってるクラスメイト全員殴っただけ


 すごいと拍手を貰う程のことではない。今まで教えられてきた規律通りに動いたら守護者ゲネシスに祀り上げられたのだ。嫉妬と嫌悪の視線を背中に刺されながら。


 私が少し視線を下げかけた時、ヘッドフォンの彼は勢いよくこちらを指さした。


 ―― 俺も殴った


 ―― え


 ―― 初日、クラスに入ったら全員喋ってたから


 ―― ……やっぱり殴るよね?


 ―― そりゃ、罰しなきゃ駄目だし


 ―― 周りは分かってくれないけど


 ―― そう。でも喋ることは悪いことだ


 ―― 喋ってたら誰かが傷ついて、世界が壊れていくんだよ


 ―― だから罰する。殴って黙らせる。それが正しい


 はじめて。


 パンデモニウムに来てはじめて、思想を肯定された。異常ではないとされた。私の行動が正しいと、喋ることは悪いことなんだって分かってもらえた。


 溢れた喜びは両手を上げさせ、彼も同じように掌を見せる。勢いよくハイタッチした音は路地に響き、私達の顔には満面の笑みが浮かんでいた。


 ―― 君、体育の授業中にマスク外したことがあったでしょ


 ―― あぁ、あまりにも熱くてさ。一瞬だけのつもりで取ったらすげぇ気持ち良かったんだ


 ―― それで、罰を受けてた


 ―― あれで懲りたよ。マスクはやっぱり、少しだって外しちゃ駄目だって


 二人で同じ記憶を共有する。あまりにも暑かった夏の日に罰を受けた彼は、銀色のマスクを撫でていた。


 ―― 見てるこっちは肝が冷えたよ。ヤバいことしてる子がいるって


 ―― あれから暫く腫れ物扱いだったからなぁ


 ―― 罪人予備軍かなって思ってたから


 ―― いや、ほんとに、息するのしんどくてさ……我慢が足りなかったよ


 眉を下げて笑った彼は私の目を射抜く。その目はやはり、あの夏の色を隠している気がしたのだ。


 ―― 世界が変わっても、髪は伸ばしてるのな


 ―― あぁ、うん。髪型を考えるのが趣味だからね


 第二階層に下りる時、少しでも喋り声を入れたくなくて髪を下ろした。ハーフアップにして簪をさして、耳を隠して。


 私は紙をひと房掴んで視線を落とし、地面に転がしたモーニングスターを視界に入れた。


 ―― パンデモニウムに来て、人を罰する機会が増えたよ


 ―― 俺もだよ。こんなにフレイルを振ったことない


 ―― モーニングスター、握り過ぎた


 お互いの武器を持ち上げて、軽く合わせる。彼のフレイルは鎖の先に着いた棒を揺らし、私のモーニングスターは棘のある鉄球部分を輝かせた。


 ―― メイス型のモーニングスター、やっぱり似合うな


 ―― フレイル型は照準合わせるのが難しいよ


 ―― 慣れたら簡単さ


 彼はフレイルを揺らす。モーニングスターにはメイス型とフレイル型があるが、私が持つのは前者だ。鉄球と持ち手がそのまま繋がっている。鉄球と持ち手の間に鎖があるフレイル型を振ったこともあるが、あれは狙った場所を打つのが難しかった。


 私はモーニングスターを撫で、気になっていたことを確認した。


 ―― 今日はどうしてここに来たの?


 ―― 観光だよ。お忍びでってエデンの先生は注意してた


 ヘッドフォンの彼はフレイルを下ろし、通りを指さす。それから首を横に振ったので、本当にお忍びらしい。


 ―― 裏路地を使うこと。通りの方に出たり、パンデモニウムにいる魔族と接触したりするのは駄目だって言ってたかな


 ―― 本当にお忍びだね。どうして?


 ―― さぁ? 俺と同じように観光に参加してる生徒もいるけど、誰も理由は知らないと思う


 ―― 変な観光するね


 ―― まぁ、こんなに魔物いたらな


 ―― そっちは魔物いないの?


 ―― こっちは人間みたいな奴ばっかりだよ。浮いてたり背が異様に高かったりする奴はいるけど


 ヘッドフォンを押さえた彼と一緒に首を傾ける。パンデモニウムとエデン、どうやら住んでいる者から色々と違うらしい。


 私達はそれから、喋る中にいるのは頭痛がするだとか、日々気持ち悪いとか、魔術なんて知るかといった愚痴大会を開催した。何度も二人で膝を叩いて笑ったし、手や肩を叩いて同意を表現した。


 ―― イグニって渾名をつけられた


 ―― なんか格好いいな。俺はポルカって呼ばれてるよ


 ―― ポルカ


 ―― 分かってる。そんな似合ってないって


 互いを労わりながら肩を揺らす。笑い声なんて上げない。同意の台詞なんて口にしない。喋らないまま。マスクをしたまま。武器を横に置いて。


 ふと私が耳栓を入れ直そうとした時、通りの方からフィオネの声が聞こえた。


「イグニ~! どこ行ったの? 一人で移動できる貴方の行動力とっても好きよ!」


「……帰っちゃった?」


 私は耳栓を元に戻せないまま息を吐く。軽くヘッドフォンをズラしていた彼――ポルカは苦笑しており、私は重たい腰を上げた。


 質問攻めに合うなら先延ばしにしないほうがいいな。


 名残惜しくもポルカに手を振る。本当に名残惜しい。私の常識が通用する相手と離れて、私を非常識だとする場所へ戻らなければならないのだ。億劫でしかない。


 彼も残念そうな空気で手を振り返してくれる。互いに不安と鬱屈とした気持ちが伝わり、固い握手を交わしておいた。


 そこで、脳裏にガイン先生の声が浮かぶ。


『今のパンデモニウムには神様がいないと言っても過言じゃない。だからみんな待ちわびていたんだよ。守護者ゲネシスが決まって、神様を育ててくれるこの時を』


 私の腰にいる神様は静かだ。いつになく沈黙して、笑いもしなければ揺れもしない。


『さぁ、分かるよね名無しちゃん。先導者パラスに害を成すものがどこにいるのか、賢い君が分からないわけがない』


 視線を上げて銀色のマスクを見る。


 パンデモニウムではない国、エデンに呼ばれた少年。


 彼は、お忍びでパンデモニウムにやって来た。


 私の肺をザラりと不安が撫でた時、ポルカは屈託なく笑ってくれた。


 ―― お互い、世界に負けず、頑張ろう


 肩がふっと軽くなる。


 顔が自然と笑ってしまう。


 頷いた私達は、確かに同じ気持ちを伝えたのだ。


 ―― またね


 明るく広い通りへ向かう。ヒールの音を奏で、喋り声の溢れる世界へ戻ってくる。


 色々な方を向いていた桃色の瞳が私を捉える。赤茶の瞳を隠す眼鏡が光る。


「いたわ! イグニ~!」


「よかった……迷子?」


 フィオネが私に抱きつき、メルが手を取ってくれる。


 その温かさはまだ私に染みることがなく、鼓膜を揺らす声が怖くて、私は目を伏せた。


 ここではない、違う国で。同じ場所から来た子も頑張っているのだと、胸に刻みながら。


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