本音と勉強


 ギアロは陽光の中で息をしてはいけない世界「逆さ十字ピールイーリ」出身だと喋り始めた。


「建物や影の中なら、普通なんだけど、でも、でも、日の下は駄目なの。駄目、できないの。けど周りは普通で、私だけ日の下にいけなくて、でもしちゃ駄目だって体が言うからぁ」


 ぐずぐずと泣くギアロに口内の頬肉を噛む。


 フィオネは笑うことなくギアロの声を聞き、メルは爪を噛んでいなかった。


「日傘とか試したけど、不安になる気持ちは、止められなくてて……建物の中にずっといればいいんだけど、でも、普通に日の下を歩いてる人達を見たら、すごく、すっごく嫌になっちゃって」


 ギアロの声に微かな怒気が混じった気がする。私は握った掌に爪を立てることで、モーニングスターを出すことを堪えていた。


 嫌になるのは、分かる。


 自分は今まで禁じられてきたこと、駄目だと言われたことを守っている。でも周りには悪いことを普通に行なう奴らがいるから、どうしてって気持ちに苛まれるのだ。


 どうして貴方達は許されているのか。きちんと守ってきた私がどうしておかしな奴になるのか。どうして私が、責められなくてはいけないのか。


 どうして、どうして……どうして。


 そのどうしての回答なんてただ一つ。「ここがパンデモニウムだから」に他ならない。


 きっとみんな、少しずつ、そんな気持ちを抱えてる。私だけでなく、メルもフィオネも……きっと。


 みんな違う世界に生まれた。

 みんな違う世界で育った。

 みんな当たり前が違って、思考が違って、優先順位が違う。


 そんな中で自分を貫ける者が守護者ゲネシスになった。


 しかし裏を返せば、選ばれなかった六十六人は、自分の何かを歪めながら生活しているかもしれないのだ。


「もう……帰りたい……」


 頭からシーツを被ったギアロは泣く。ぐずぐずと鼻を鳴らし、帰れないのに願っている。


 元の世界へ帰りたい。自分の当たり前を肯定してくれる世界に戻りたい。


 フィオネの視線が私とメルに向く。桃色の瞳は憂いを帯びて、僅かに水の膜を張っていた。


 私は首を横に振る。メルも同様に「無理だ」と示し、フィオネは大きな瞳を伏せた。


「そろそろ予鈴が鳴るのだよ」


「戻る戻るなのだよ」


「ベッドの子はもうちょっといてもいいのだよ」


守護者ゲネシスは帰る帰るなのだよ」


 ベッド周りのカーテンが開けられ、エルとウルが跳ねる。空色のウサギ達は澄んだ瞳でこちらを見つめ、私達は立ち上がった。ギアロはシーツを被ったままベッドに寝直している。


 フィオネは少女の頭をシーツ越しに撫で、ふやけるような声を落としていった。


「ギアロ、不安を吐露してくれてありがとう。聞かせてくれてとても嬉しかったわ。今日会ったばかりだけど、そうやって貴方の話を聞かせてくれた気持ち、とても好き。故郷を恋しいと思う気持ちも、大事なもので、とっても好きよ」


 相手の良い所を見つけて肯定する特性が、ギアロにとって優しいものかは分からない。フィオネの好意は全て彼女の中にある決まりに沿っているのだろうから。


 あれは他者の為ではない。全てフィオネが安心する為の好意でしかない。


 危険な言葉。亀裂の甘言。私がもっと強くなった時、モーニングスターが溶かされなくなった時、彼女の言葉を殴らねば。世界が傷つく、その前に。


 私とメルは先に保健室を出て、なんとなく壁に背中を預ける。もうノアの所に行く時間ないな。教室でお昼食べられるかな。


「……イグニは、思ったことある? ……帰りたいって」


 高い位置から降る声に首を横に振る。以前ガイン先生にも同じようなことを問われたが、私は不言の世界パンミーメに未練はないのだ。帰りたいと思ったことは一度もない。


 メルは体の前で両手の指を組んだり離したりしており、その腹部は未だに膨れたままだった。


「私も、ないんだ……脂肪こそ至高グラフェットは、疲れちゃったから」


 そう呟いたメル。私が彼女に視線を向けた時にフィオネも廊下に出てきて、可愛らしく笑いかけてきた。


「メル、イグニ! 待っててくれてありがとう! 置いて行かない二人の姿勢とっても好きだわ!」


「うん……フィーはある? 元の世界に帰りたいって思ったこと」


 メルの質問にフィオネは二度、瞬きする。


 それからゆっくりと目を細め、肩を竦める。脹脛の羽根が揺れ、顔にはいつもの完璧さとは違う笑みを浮かべた。


 それはどこか儚くて、風に消えるような……微笑みだ。


「ないわ」


 ***


「それで、暴君に恐れをなして気絶した生徒を保健室まで運んで、お昼食べ損ねちゃったの?」


 午後の授業一番は「社会基礎」だったのだが、私がお弁当の入った袋を机に置いて凝視していたので、先生が何事かと確認してくれた。


 ホワイトボードで要点だけ伝えると、ガイン先生は噴き出して笑うのだ。椅子を引っ張って私の隣に座った先生は長い足を組んでいる。


「食べていいよ。守護者ゲネシスたる者、しっかり栄養とってもらわなきゃ困るからね。先生は勝手に隣で喋ってるから」


 歓喜半分、最悪半分。


 私は数秒考え、喜びきれないまま袋を開けた。隣に座ったガイン先生も上着からティーポットとカップを出して注いでいる。どこから出したとか、何で両方浮いてるのか、なんて疑問はもう湧かない。


 私はお弁当の蓋を開ける。黒くふかふかのご飯の上には紫の焼き魚。野菜の煮物のような物も添えられて美味しそうだ。


 マスクを外して遅れた昼食開始。ガイン先生は優雅に紅茶を飲みつつ、組んだ足先を揺らしていた。


「パンデモニウムの生徒に選ばれたという栄誉を捨ててまで、故郷に帰りたいと思う。その思考に辿りつく時点で、その子は守護者ゲネシスに相応しくなかったね」


 しっかり焼かれた魚の身はお箸でほろほろと崩れていく。ご飯と一緒に口に含むと油と海苔のような香りがして一気に胃袋が刺激された。唾液が出る。


「ここで生きられなければ守護者ゲネシスになんてなれないし、先導者パラスを守る者には相応しくない。でもパンデモニウムに染まってもらっちゃガッカリだ。守護者ゲネシスには芯のある心がないと先導者パラスも困るからね」


 カラフルな煮物類にもお箸をつける。ほっこりと甘みを含んだ灰色、ねっとりとした食感の青色。パリッとした歯ごたえと酸味のある緑色は漬物みたいなものだろうか。どれも一口大で大変美味しい。


「俺達教師が何のためにいるのか。それは守護者ゲネシスを心身共に育てる為に他ならない。魔力の増加、魔術の習得以外にも、君達の内面を刺激し続けるのが俺達だ」


 口に頬張った昼食は美味しい。それでも、ガイン先生の言葉によって肺の辺りはザラついた。


「虎視眈々と強さを求める野心を、傷つかない周りに向ける軽蔑を、溢れて迷った愛執を、満たされない体で生まれた悪食を、何も得られないまま育った虚栄を」


 ふと、口に運びかけたお箸を止める。


 脳裏に浮かんで光るのは、五人の目。


 青みがかった白い瞳に浮かんだ野心。


 深く澄んだ緑眼が周りに向けた軽蔑。


 宝石の如き桃色が放ち続ける愛執。


 暗く照った赤茶の目が求めた悪食。


 俯瞰する爬虫類の赤眼が抱えた、虚栄。


 いや、でも、愛執と虚栄は――……


「そして俺が育てるのは、規則に縛られた不自由な憤怒だ」


 不自由。


 その単語と自分を結び付けられないまま、魚とご飯を口に含む。噛めばご飯に染みていた油が滲み出た。


 口に溜まった物を、噛んで、噛んで、飲み込んで。


 ガイン先生の声には笑いが混ざった気がする。


「パンデモニウムには喋ってはいけないなんて法律も規則もない。それでも名無しちゃんは喋らない。なんて頑な、どこまでも従順。でもそれがいい、それでいいんだ。だって君は守護者ゲネシスなんだ。簡単に自分の中にあるものを曲げるなんて、そんな柔な子は求めてない」


 ガイン先生が指先に火を灯す。赤に青が混ざった炎は離れていても頬が焼かれている気がして、私の食欲も下降していった。


「ライラを守るのが君だよ、名無しちゃん。何もかもを燃やす憤怒の炎。紫の火炎。先導者パラスが生まれてくれないとパンデモニウムは困ってしまうからね。だから早く、強く、育ってね」


 私はお弁当の残りを無理やり口に含む。いつもは美味しい食事も、今日はなんだか消化不良の気分だ。無意味に栄養だけ得た気分。パンデモニウム唯一といっていい楽しみなのに。


 袋に入っていたナプキンで口を拭き、マーカーを持つ。ホワイトボードに書いたのは常に思っていた疑問だ。


 〈パラスを害するものとは 一体どんなものなんですか〉


「そのままだよ。先導者パラスが生まれることを拒む者、先導者パラスを傷つけようとする者、先導者パラスを守る守護者ゲネシスに盾突く者。そういった存在は全部、危ないんだ」


 当たり前ではないかという雰囲気で笑われても、いまいちピンとこない。そんな存在、校外学習に行った時も感じなかった。第二階層で感じたのは崇拝と畏れのような形容しがたいものだ。


「そんな存在、いないと思ってる?」


 紫の瞳が私を横目に見下ろす。だから私は素直に頷き、ガイン先生は肩を揺らした。この子どもは仕方ないと表現せんばかりの雰囲気に、微かに眉間に力が入る。


「思い出してよ、名無しちゃん。俺はちゃんと言ったよ。パンデモニウムはだって」


 細い指が私の眉間を撫でる。少しだけ力を込めて、私の皺を伸ばす為に。


 私の脳裏には、オリエンテーションの時の声が浮かんできた。


『パンデモニウムはであり、でもある。我が国はいくつかの層で出来た造りをしていてね。各階層を説明していくよ!』


 パンデモニウムは、この世界の名前ではない。


 不言の世界パンミーメ暴力の輪バディーロア自己献身社会シャグネス落ちた天使の園ホワイトラバー脂肪こそ至高グラフェット間に合わなかった薔薇ラベッラ・スティア


 そういった、私達の世界につけられた名前とは違い、パンデモニウムは国なのだ。


 国とは、世界の中にある単位であって、世界そのものではない。


「名無しちゃんは頭はいいから分かるよね」


 つまり、だから。


「この世界にはがある。パンデモニウムはその一つに過ぎないんだよ」


 ガイン先生の手が私から離れる。紫の双眼を正面から見つめれば、瞳の奥に揺らめく炎を見た気がした。


「パンデモニウムは小さな魔族の国だった。弱い弱い国だった。それを先導者パラスが大きくなるよう整え、導いてくれた。だから魔族はみんな先導者パラスを尊敬し、崇拝し、畏れ続けるんだ」


 ウェストポーチの中でライラが揺れる。私に名前を、ここにいる理由をくれる、卵が笑う。


「今のパンデモニウムには神様がいないと言っても過言じゃない。だからみんな待ちわびていたんだよ。守護者ゲネシスが決まって、神様を育ててくれるこの時を」


 私の手が迷った。書きたいことがある、問いたいことがあるのに、ガイン先生は待ってくれないんだから。


「さぁ、分かるよね名無しちゃん。先導者パラスに害を成すものがどこにいるのか、賢い君が分からないわけがない」


 先生がホワイトボードを指先で叩く。私は何度か呼吸を繰り返し、自分の考えを綴った。


 〈パンデモニウムではない もう一つの国〉


 深い紫の瞳が弧を描く。満点をあげようと言わんばかりに楽しそうで、愉快気で、気味が悪い表情で。


「――正解」


 唾を飲んだ私は、今日のお昼の味なんて思い出せなかった。

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