胎動編

無理解と疎外感


 パンデモニウムに来て、不安を感じない日はなかった。


 禁じられていた行為が許される世界にいるなんて、自分の中にある何かを摩耗させるには十分なのだ。


 他人の物を盗んではいけませんと教えられた人が、物を盗むことが当たり前の世界に来たら。

 日の下で息をしては駄目だと生きてきた人が、どこでも呼吸を許された世界を見てしまったら。

 人を殺してはいけませんと育てられた人が、人を殺してもいい世界に放り出されたら。


 気味が悪くなる。恐ろしくなる。どうして許されるのかと頭の奥底で警鐘が鳴る。


 そんな理解のできなさが、パンデモニウムでは常に存在した。


「う、うぅぅ……」


 目の前で泣いている生徒も、その理解のズレにもがいている。


 保健室のベッドでシーツを被っている彼女は、なんとなく、マスクを無くした時の私みたいだと感じていた。


 私はベッド脇の椅子に座り、今日の昼休みは、ノアの元へ行けないだろうと考えている。


 ***


 事は十数分前。私が焼き魚弁当を手に入れて、ノアがいる林へ向かっている時。校舎の影から泣いている音がしたので覗いてしまったことが発端だ。


 不言の世界パンミーメでは誰も嗚咽をこぼさない。幼少期から中学に上がる前の期間で堪え方を学ぶから。


 転んで泣き声を上げる子は先生に殴られる。友達と喧嘩して泣き声が漏れたら倉庫に閉じ込められる。泣いてもいいが、泣き声は許されない。


 そんな光景を日頃から見てきた。日常の中で言葉が閉じ込められる瞬間を焼き付けてきた。


 だから私達は静かに泣く。奥歯を噛み締めて、袖でマスクを押さえ、体を小さくして。


「う、うぅ……」


 彼女は影で泣いていた。小さい子がするように、声を必死に抑え込んで。その姿は、大人に見つかる前に声を殺そうと、必死になった子どもの姿と重なった。


 怒られる前に、殴られる前に我慢しろ。そう自分に言い聞かせた幼少期。不言の世界パンミーメならば誰もが通る道。


 そんな経験を思い出してしまったから、私の足は日影を踏んだのだ。


 肩を跳ねさせて振り返った少女。その目には白目がない。潤んだ黒だけの瞳から大粒の涙がうだり、透けるように白い肌と黒髪のせいでお化けかと思った。失礼な勘違いだ。


「ぼ、暴君ッ!!」


 裏返った声を上げた彼女は腰を抜かし、長い毛先が地面を擦る。君も大概失礼だな。


 私はよく分かるように肩を落とし、口を両手で押さえた彼女を観察する。微かに震えているのは私が暴君だからだろう。


 脱力しながら空を仰いだ。今日は吹き抜けるような快晴で、燦燦と照る陽光が心地いい日である。


 泣いてる音がしたから来てしまったけど、失敗だったな。無視すればよかった。


 再度彼女に目を向けると、両手で口を塞いだまま固まっている。なんだか浅い呼吸の音がして、白い顔が青くなって……。


 観察していた彼女が倒れる。芝生の上にぱったりと。


 思わず駆け寄ると、涙痕のある少女は気絶していた。


 ……喋らないで欲しいけど、呼吸を止めろとまで要求した覚えはないよ。


 呆れた私は少女の手を持ち、その冷たさに鳥肌が立つ。生気を全く感じさせないのは彼女の生態だろうか。パンデモニウム、一人一人の取扱説明書とかいるよ、絶対。


 私は彼女をおぶって保健室に向かう。「暴君」と喋ったけど、罰する前に倒れたし。放置するのはこちらが悪者になってしまう気がしたのだ


 一人の女子生徒をおぶって歩けば、道中で嫌な言葉をたくさん浴びた。


「暴君だ」「憤怒の守護者ゲネシスだね」「あの背負ってる子、また殴ったのかな?」「野蛮だな」「聞こえるよ」「こっちまで殴られる」「暴れ出したら止められないんだから」「守護者ゲネシスだし」


 聞こえてるんだよ煩わしい。


 喋る者達を睨んで歩く。私と目が合えば口を閉じて去るのだから、なんだか馬鹿らしい気もしてきた。そんなんだから守護者ゲネシスになれなかったんだよ。


 両手が塞がってなかったら、罰することができたのに。


 奥歯を噛んだ私の視界に紫のラインが入る。横目に見ると、食堂から出てきたロサ達がいた。


 少し目を丸くしたロサから視線を逸らす。一緒にいるのは、初日に声を掛けてきた小柄な茶髪少女と、名前も知らない異形の子だ。


「また殴ったの」


 歩きやすかった私の前に茶髪の少女がやってくる。周囲の空気は緊張感を孕み、廊下には静寂が訪れた。


「そうやって自分が気に食わない子殴って、なんで貴方が守護者ゲネシスなのさ!」


 別にまだ殴ってないんだけど。


 明らかな冤罪なのだが、倒れた子をおぶっているのでホワイトボードは出せない。この子が起きてくれたら解決なのだが、そうもいかないし。


「まただんまり? ほんと、貴方ってッ!」


「ミュウリン、あの、」


「ロサとブルゾナも思うでしょ!?」


 茶髪のおさげっ子――ミュウリンの感情が熱くなっているのが分かる。ロサと異形の子――ブルゾナでは止められない熱量だけど、私を焼くには足りなかった。


 どうせパンデモニウムでは分かってもらえない。言葉は痛くて危なくて、喋ることは傷つける行為なのに。誰もそれを分からないまま垂れ流す。


 ミュウリンの言葉は、声で反論しない私に刺さる。


 きっと彼女は頭のどこかで思ってる。殴られた自分の方が痛くて、言葉で責める方が許されるって。


 喋るより手を出す方が悪くなる。


 そんなの、もう嫌というほど学んだよ。


 背中で少女が少し動いた気がする。私は軽く彼女を背負いなおし、ミュウリン達を無視すると決めた。


 音を立てて床を踏み、一瞬だけたじろいたミュウリンを認める。今は殴れないから、見逃すよ。なんて、何様の考えだろうか。


 ウェストポーチの中でライラの揺れを感じ取った時、食堂から元気な声が炸裂した。


「あらイグニ! なんだか廊下が変だと思ったら貴方がいたのね!」


「……なにか、あった?」


 現れたのは桃色好意少女・フィオネと、無限胃袋保持者・メル。お昼を食べ終わったらしいメルの腹部は膨らみ、フィオネは今日も浮いていた。餓鬼が妖精を捕まえてる図とか思ってしまった。


「悪食と愛執だ」「え、守護者ゲネシス三人?」「フィーだ」「今日も可愛いフィオネだ」「メルもいる」「いつも通り、凄いお腹……」「守護者ゲネシス同士って仲いいの?」「何あの状況」「守護者ゲネシスの前を生徒が塞ぐのは……」「道を開けないと」


 ざわめきが私の鼓膜を震わせる。眉間に力が入れば頭痛も始まり、両腕は意識して少女をおぶっていた。そうしないと落としそうになる。


 フィオネとメルは私の背中を確認し、肩越しに息を詰めた音を聞く。……この子、さては起きてるな?


「この子はどうしたの? 顔が真っ青ね……」


 ふわふわとフィオネが私の周りに浮かぶ。眉を下げた彼女に私は首を横に振った。メルは、気絶しているかもしれない少女を食い入るように見つめている。


「……殴った痕、ないね……どうしたの?って……今は、書けないか」


「分かったわ! この子の具合が悪そうだから、保健室に運んでいるんじゃないかしら?」


 珍しく的を得たフィオネの言葉に肯定を示す。「やっぱりね!」と金髪の少女は一度足をつき、脹脛の羽根を揺らしながら跳躍した。グラデーションがかった毛先がふわりと揺れる。満面の笑みは太陽の如く輝いていた。


「イグニは優しいもの! 困ってる子を保健室に運ぶなんて素敵ね、好きよ!」


「ッ、その子が優しいわけ!」


「誰……?」


 フィオネの言葉にミュウリンが噛みつく。だが、彼女達の間にはメルが立ち、爪を噛みながら憤怒の元候補者を見下ろした。


 ミュウリンは息を詰めて一歩下がり、ロサが青い顔で手を伸ばす。


「な、なんでもないの、ごめんなさい」


「ロサ! ブルゾナ!!」


「行こうってミュウリン、守護者ゲネシスの前はヤバいって」


 ブルゾナとロサが、小柄なミュウリンの腕を掴んで去っていく。私はゆっくりと息を吐き、背中の少女をおぶり直した。


「今の……憤怒のクラス、だったね」


 メルはこちらに赤茶の瞳を向ける。私は軽く肩を竦めてから保健室を目指した。後ろからはフィオネとメルも着いて来る。どうして、なんて質問も今はできない。


 私の前が塞がれることはなかった。誰もが道を開けてくれる。歩きやすい、整えられた道を。


 それは第二階層で見た光景のようで、踏み出す一歩に自信を無くしそうだった。


「急患なのだね」


「おやおやなのだね」


 保健室に着くと、ウサギの保険医が近づいて来た。立ち耳のウルは背中の少女の足を持ち、垂れ耳のエルが肩甲骨を支える。ぽてぽてと二羽のウサギに運ばれた少女はベッドに寝かされ、私は近くの椅子を引っ張った。


 肩を叩かれ顔を上げる。すぐ隣にはフィオネが立っており、桃色の瞳が私を覗き込んだ。


 〈何があったか聞いてもいいかしら?〉


 微笑むフィオネが以心伝心タラリアを見せる。金のページは私に触れることがないから、頭に声が響くこともない。


 穏やかな静けさのある保健室にて、私はホワイトボードを取り出した。


 〈目が合ったら倒れてしまったんです 私が暴君だから 見過ごすことはできませんでした〉


 〈やっぱりイグニは優しいわ 好きよ〉


 にこにことフィオネが微笑み続ける。私は彼女の隣にいるメルにも視線を向けた。爪を噛んでいる悪食は、ベッドで横たわっている少女を眼鏡のレンズに映している。


「……いつまで、寝たふり……するの?」


 ぬめりを帯びた問いにベッドの少女が飛び起きる。スプリングの軋みと共に白いシーツが皺を作り、長すぎる黒髪が広がった。


「ご、ごめんなさい、ごめんなさい。私、あの、驚いて、運んでもらえるなんて思わなくて」


 言葉が詰まる彼女に目元が痙攣する。


 喋り方というのが人それぞれ違うとパンデモニウムで学んだ。そして、言葉が詰まる傾向があると喋る時間が長くなるとも分かった。不快だ。メルの間の多い喋り方と似た部類。


「貴方の瞳は真っ黒なのね! そんなに艶のある黒目って初めて見たわ! 宝石みたいで綺麗、好きよ! 肌もお人形さんみたいに白いのね! 手足も長いしスタイルがとってもいいわ! 好き!」


 はじめましての挨拶とばかりにフィオネの弾丸が飛ぶ。ベッドの上では少女の顔に赤みがさし、なるほど普通はそうなるのかと観察した。


 好き好き大好きとっても素敵。中身を感じられない言葉に頬を染められるうちは可愛げがあるのだろうな。残念ながら守護者ゲネシスの中にはそんな奴いないので、反応しないのが正常だと思ってたよ。


 ベッドの少女の制服には赤色のラインがある。赤は虚栄のアデルのクラス、ノアの元クラスメイトか。


「イグニが教えてくれたわ。暴君って呼ばれる彼女に驚いて倒れてしまったんだって。そんな可愛い小兎みたいな反応も可愛くて好きだわ! でも安心してね、イグニはとっても優しいの!」


「イグニ……?」


「彼女の渾名よ!」


 真っ黒な瞳がこちらに向けられる。その渾名も不本意なんだが、暴君よりはいくらかマシなので我慢しよう。


「こっちはメル! 料理がとっても上手で、私の手を引いてくれる素敵な友達なの! 貴方もぜひ好きになってね! そうだ貴方お名前は?」


 なんか、こういう時にフィオネって役に立つなって思ってしまった。こちらが聞けないこともズンズン聞いて相手の懐に入り込む。私にはできない芸当だし、隣に座ったメルも苦手な部類だろう。爪を噛んでいる彼女の目はフィオネの紹介で柔らかくなっていた。


 虚栄のクラスの少女はシーツを頭から被り直す。


「私はギアロ・ジレ・ナグマホーン……ぎ、ギアロって呼んで」


 黒目の少女――ギアロの名前に対し「ギアロね! 可愛い名前! 好き!」とフィオネが踊る。私は時間を確認し、もういいかと席を立とうとした。


 やろうと思ったことは終わった。ギアロを罰するとなるとフィオネとメルも相手しないといけないから、今の私では分が悪い。


「あ、あの! イグニ!」


 腰を上げかけた体勢で呼び止められる。私はギアロの顔を見て、今一度座り直した。これ以上喋って欲しくないんだけど。


「ご……ごめんね、怖がって。運んでくれてありがとう」


 艶のある黒目が真っ直ぐ私を射抜く。その視線に、私は肺の奥がザラりと揺れる気がした。


 ホワイトボードには、思っていた言葉を自然と書いてしまう。


 〈もう大丈夫ですか〉


 目の下を指先で示し、確認する。ギアロは黒い目を見開くと、暫く固まり、再び泣き出してしまった。


 大粒の涙がぼろぼろとこぼれ、フィオネが明らかに狼狽うろたえる。


 私は桃色の少女の手を引き、騒がせない為にも椅子へ誘導した。


「う、うぅぅ……」


「ぎ、ギアロ、大丈夫? つらいの? 痛いの?」


 シーツで体を包んだギアロにフィオネまで泣きそうな顔をする。感受性が豊かだね。


「わたし、私さぁ……」


 ギアロがシーツで顔を覆う。震える声は、今まで喋ることを許されてきたからこそだ。


「パンデモニウムにいるの、もう……つらいのぉ……」


 そう吐き出したギアロに、私も、メルも、フィオネも、唇を結ぶしかできなかった。

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