無口と思考

三人称でいきます。


――――――――――――――――――――


 イグニと呼ばれる少女は今まで一度たりとも喋った姿を見せたことがない。


 白い肌に黒いアーモンド形の瞳。警戒心の強そうな黒目は周囲を観察する為に動き、口は常に黒いマスクで隠している。外した顔を見たことがあるのは今の所メルとノア、ガインの三人だけだ。それも横顔だけであり、少女は正面から顔を見ることを許さない。


 濃いグレーのワイシャツに黒い革製のショートパンツ。ニーハイソックスにショートブーツの選択は彼女に凛とした印象を与え、膝丈コートに入った紫色は少女にしか合わない色に見える。


 黒いロングヘアは毎日形を変えていた。ある日はハーフアップ、ある日はポニーテール。編み込まれている日もあれば、肩口から前に流された日もある。一つの団子に纏められた日などには綺麗な簪が揺れるのだ。


 そんな彼女は、常にモーニングスターを背負っている。


 華奢な腕で鈍器を振り被り、喋る者を殴る為に。


 彼女に与えられた二つ名は「暴君」


 廊下で談笑していればモーニングスターで頭部を殴打される。クラスメイトをからかっていれば喉元を棘が抉る。声を上げて笑おうものなら顔面に凶器が振り下ろされる。


 喋らない少女は、パンデモニウムの中でも異常であると認識されていた。


 決して喋らず、無言で近づき鈍器を掲げる。その思考も理由も分からない。ただ理解したのは、喋れば殴られ、笑えば黙らされるという事実だけ。


 彼女がなぜ喋る者を殴るのかは守護者ゲネシスと教師陣しか知らない。彼女が不言の世界パンミーメの出身であり、喋ることを悪としているなど、普通の生徒は知る術がないのだ。


 だから彼女は異質に映る。誰にも理解されないまま、ただの暴力の化身として噂される。


 同じ守護者ゲネシスである五人にとっても無言の少女は目を引く存在であった。


 何があっても喋らない。決して口を開かない。発語に過剰反応し、モーニングスターを固く握り、しかし魔力の操作は下手くその域。


 どういった思考が彼女をそこまで突き動かすのか。どうして喋る相手を許せないのか。守護者ゲネシス同士で共感も共有もできなかった。それはイグニが彼らを理解できないのと同じ通りだ。


 ただ一人、ユニ・ベドムだけは不言の世界パンミーメの詳細について綴られた。ガインの代弁以上に、不言の少女は書いたのだ。生まれた時から口を塞がれ、喋ることは大罪人がする行為なのだと。喋る者がいれば罰することが正しいのだと。


 だが、少年は少女の内情までは探れなかった。彼女を暴君に変えるだけの理念や信念までは覗けず、ただ見えたのは、彼女の中に存在するだけだ。


 ユニの気づきは湊も感じていたものだ。初めて会った引っ越しの日、廊下で鉢合わせたイグニの表情。


『君は、そんな顔をして殴るんだね』


 思わずそんな言葉がこぼれてしまうほど、イグニの表情は歪んでいた。


 殴りたくない。


 殴りたくない。


 傷つけたい訳ではない。


 それでも少女は湊を殴った。


 そしてその目は、案じるように揺れたのだ。


 泣き出しそうな目元に力が入り、手に持つ凶器は鮮血を浴びる。


 彼女の思考と行動の歪みに、他の守護者ゲネシス達も勘付いていた。


 メルは食堂でモーニングスターを振り上げたイグニの横顔から。

 フィオネは自分に話しかけていた男子達を殴った瞬間に。

 ノアは再会した霧の中で涙を流した姿で。


『彼女の出身は「不言の世界パンミーメ」って所。言葉で一度崩壊し、それから喋ることを最大の罪とした世界だ。だから彼女は喋らないし、喋る者を罰してる。そう教えられて育ったから。暴君とか色々な名前が流れてるらしいけど、これでも今の彼女は我慢をしている方だからね、大目に見てあげてね』


 ガインがそう紹介した時、ノアは少女の涙に合点がいった。


 イグニは決して、殴りたくて殴っている訳ではない。


 殴らなければいけないから殴っている。


 喋る者を罰せよと育てられたから従っている。


 ただ、それだけなのだ。


 ノア達が自分の育ちや思考に従うように、イグニもまた我が道を進んでいる。我が道を進める者が守護者ゲネシスとなっている。


 少女は他の守護者ゲネシスとあまり関わろうとはしていない。自主的に近づく相手とすればノアくらいだろう。近づく理由がマスクをつけた無口な相手だからだとは、ノアもまだ気づいていない点である。


 そんな彼女が、校外学習をした夜にメルへ質問した。背景を見ればユニに半ば命令されてのことではあるが、イグニが自分からコミュニケーションを取ろうとしているのだ。


 メルは自分が与えられるものは何でも与える精神でいる。自分の能力をユニに教える気など毛頭なかったが、聞いて来たのはイグニだ。彼女からの接触をメルが断るはずもない。


「私は……自分の脂肪を、物に変えられるの……服でも、靴でも、何でも……食べ物には、変えないけど……お金も出せるよ」


 そこまで喋ったメルはイグニの眉間に集まる皺を発見した。無口な少女はよく眉を寄せる仕草を見せ、それは癖のようなものだろうとメルは思っている。喋る相手に対する忌避反応だとは考えていないのだ。


 マーカーを使うイグニの姿は、悪食の少女にとって嬉しいものである。自分の施しが活用されているのだから。


 多幸感はメルの頬を上気させ、次は何を聞かれるのかと眼鏡のレンズを光らせた。


 〈食べた物がすぐ脂肪に変わるんですか〉


「変わるよ……すぐに変わる……でも、私、ちょっとそこら辺の機能が、いまいちだから……お腹にしか、溜められないけど」


 恐らくイグニが問いたかった視点は違う。食べた物はまず消化されて脂肪としてつくのは……と不言の少女は自分の知識を辿ったのだが、身体構造の違いなどパンデモニウムでは日常茶飯事だ。深く問う事は時間の無駄と判断した。


「脂肪が多ければ……大きな物にも、高価な物にも変えられるの……」


 〈高価な物?〉


「脂肪は、富の象徴……沢山あればあるほど、いいの……美味しい物を食べてる証拠、美味しい物を買えるだけの財力がある証拠……」


 そこまで口にしてメルは自分の爪を噛む。尖った歯列は爪を砕きそうであり、イグニは比較的綺麗な文字を消した。メルは口の端から呪言の如き声を漏らす。


「だから、嫌なの……私より太ってる相手、重い相手、蓄えてる存在……ノアとユニ、私より、重いでしょ……」


【 なんか俺デブって言われてる? 】


「褒めてない……」


【 褒められた気もしてないよ 】


 ここで発生するのが言葉の綾。一方にとっては貶す言葉も、一方にとっては誉め言葉。すれ違う要素など無数に転がっている。


 ユニとメルの会話を聞いていた湊は、胃の上を摩りながらノアに視線を投げた。献身の少年に「ごめんなさい」を教えたのはイグニだが、その些細な引っ掛かりを拾ったのはノアなのだ。


 緑眼が赤い瞳と合う。ノアもすぐに思い出したらしく、細かな砂がイグニの前で踊った。


 〈湊が言ってた ごめんなさいって言う その表現が不思議だったんだ 教えてもらってもいいかな〉


 イグニは砂文字を読んで一度瞬きをする。マーカーをマスクに当てた少女は暫し文字を考えているようであり、その仕草にノアは尻尾を自らの足に巻き付けた。少女は人外の行動を知らないまま文字を書く。


 〈道徳的表現であり 最終通告ですよ〉


 〈?〉


 砂が疑問符を形作り、湊にメル、フィオネも同じ方向へ首を傾ける。イグニは一瞬だけユニに視線を向けたが、火傷痕がある顔は先を促す表情をしていた。


 イグニは自分の眉間を撫でさすり、淡々と文字を綴る。


 〈私だってごめんなさいを口に出して言ったことなんてありません 謝る時は謝罪を書いた紙を渡すか ジェスチャーで謝罪の意を示すことが普通です〉


 少女はホワイトボードを綺麗に消す。そして新しい文字を書く動作はコミュニケーションを取る上では無駄な余白であるが、魔術が使えない少女にはその手段しかなかった。


 ノアはイグニの隣に座り、メルは口に肉を押し込む。


 〈それでも道徳の教科書には書かれていたんです 悪いことをした自覚があるなら ごめんなさいと言いましょうって だから私もその表現を使ったまでのこと〉


 残念ながら、イグニの文章は湊達が理解できるだけの説明をしていない。それを察したらしい少女は数秒だけ斜め上で視線を固定し、補足説明を始めた。


 〈私の世界では喋った者は死刑になります 死刑囚の動画は学校で定期的に見ます 喋ればどうなるか教える為に〉


 ユニの口角が目一杯上がり、フィオネの笑顔は崩れない。


 〈そこで死刑囚はマスクをしていません 本来許されない姿ですが 最終通告の場なので仕方ありません〉


 黒い瞳は真っ直ぐだ。何もブレていない。何も迷っていない。確固たる芯を持ち、己が書く文字を正しいと信じ、普通であると述べている。


 イグニの脳裏では、最後に見た死刑囚の動画が流れていた。


 〈私達は教えられています ごめんなさいと言いましょうと〉


 少女の文字は読みやすい。しかし内容は、読みにくい。


 〈喋る行為をした自分は悪であると 自分がしでかした行為を償う為に 自分が悪かったのだと認めるんです〉


 彼女の文字は迷わない。そう教えられてきた。そう学んできた。それが当たり前であると染み込んでしまった。


 〈最後の最後 刑が執行されるその前に 喋ることは悪いことだったと 喋った口で認めるんです そうすれば無期懲役で許されます〉


 数多の世界で許されている発語行為に対し、イグニの世界は一辺の慈悲もない。


 それが少女にとっての普通であるからこそ、彼女は殴らなければいけないのだ。


 殴ることを少女自身が望んでいなくとも、しなければ今度は少女が悪の加担者になってしまうから。殴りなさい、罰しなさい、喋らない良い子でいなさい。


 それはイグニと呼ばれる少女に根付いた規律であり、縛り上げる鎖でもある。


 モーニングスターで殴ることは確かに暴力だ。しかし、世界を守る為の正義の執行でもある。だから暴力であって、暴力ではない。罪悪感なんて抱く必要は、どこにもない。


 正当化された暴力の下で育った少女は、黒い瞳で何を見ているのか。


 〈喋ることは悪いことでした もう二度と喋りません ごめんなさい そう言いさえすれば 死という極刑は免れます 喋るという大罪を犯した者であっても〉


 だから、ごめんなさいと言いましょう。


 湊は口の奥で呟き、日中にホワイトボードを見せたイグニを思い出す。


 自己献身社会シャグネスから来た少年は怒られたこともなければ謝った記憶もない。だが、それでも分かる。これは多用してはいけない言葉だと。少なくともイグニという少女からすれば、これは命と覚悟を天秤にかけた時に口にするものなのだと。


 包帯だらけの手が口を覆う。イグニはその様子を確認し、フィオネにも黒目を向けた。


 桃色の瞳は今日も大きく、口角は完璧に上がっている。それが彼女だ。好意で周囲を懐柔し、血を一滴も流さないまま守護者ゲネシスとなった存在。


 少女は金色のページを一枚千切ると細かく破り、風に乗せて文字をかたどった。


 〈イグニ 私 貴方に嫌な思いをさせていたかしら ごめんなさいって沢山言ってしまったわ〉


 フィオネは笑う。綺麗な姿勢で、美しい顔で。イグニはゆっくりと瞬きをした後に首を横に振った。


 〈パンデモニウムで私の常識や道徳が通じたことなんて無いので 口をついて出てしまう程の言葉なんでしょう?〉


 少女の黒い瞳に諦めの色がチラついた。フィオネはその色を確かに見つけ、金の紙切れを風で遊ばせる。


 〈好きよ イグニ 優しい貴方が〉


 桃色の瞳はどんなことでも許すが如く蕩けていた。イグニはそんな目を直視できず、どこでもない方向へ視線を捨てる。


 フィオネはいつも受け取って貰えない好きを投げていた。しかし少女にとってはそれでいいのだ。一方的に投げるのみ。口から溢れた好意をただ流し、地面に落として天使のように笑う。軽薄に、軽々しく。


 それがフィオネ・ゲルデに染み込んだ習慣である。この行為を少女は間違っていると思わない。全ては彼女に植え付けられた思考と目標の為に。心配する余地など彼女の世界にはなく、フィオネも感じていないのだから。


 ここには自分の当たり前を理解してもらえず、他者の当たり前を理解できない者ばかりが揃っている。根底から違うのだ。思想も倫理も判断基準も。


 湊はイグニで視線を固定する。彼女にとって馴染んだ表現は、あまりにも重たい。しかしそう表現するしか知らない少女は、ただそのままを少年に教えたのだ。


 悪いことをしたら、ごめんなさいと言いましょう。


 湊は軽く口元を撫で、肉の油で汚れた包帯を変えなければいけないと頭の片隅に浮かべていた。

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