甘言と質問

 疲れた。


 食欲も湧かないほどに疲れた。


 もう寝てやる。誰が何と言おうと寝てやる。寝る。ベッドに倒れて朝まで起きないんだ、もう。


 寮の部屋に戻ってお風呂に浸かり、そのまま眠りそうになっていた自分に慌てる。危うく溺死するところだった。元を辿れば今日の校外学習が疲労困憊を招いたからに他ならないんだけど。


 無事に課題を終えた私は早々に部屋に引っ込んだ。何か忘れている気もしたが、いつか思い出すだろうの精神でシャワーを浴びて、湯船で舟を漕いで現在に至る。溺れる前にベッドへ行くのが吉と見る。


 部屋着を着こんでドライヤーで髪を乾かす間、頭の中を巡っていたのは今日聞いた声ばかりだ。


 溢れる声に溺れそうになって、これが普通なんだと言い聞かせて、罰しないように耳栓を押し込んだ。モーニングスターを振らないように意識して、奥歯を噛んで、ここの普通に浸っていた。


 魔力を持つ者が触れば使えるドライヤーを動かす。私の今までの普通なんてどこにもない。私の普通は、ここでの異常だ。


 分かってる。分からなくてはいけない。でも、そう簡単にいくわけない。


 喋るなって教わってきた。喋ることは悪だって教え込まれてきた。だからそれに従って、守って、喋る人がいれば罰してきたのに。


 どうして、どうして……どうして私が、異常になるのか。


 きちんと規律を守っていた私が、どうして、おかしな存在になるのか。


 ドライヤーを止めて洗面台の鏡を見る。物を食べる為にある口は固く結ばれ、目の下には少しだけ隈が浮いていた。疲労だろうか。


 頬や肩を流れた黒髪が、あたたかい。眉間を撫でれば顔から力が抜けた。


 私はおかしくないのに。


 私は、守りたいだけなのに。


 暴君なんて名前、何も嬉しくないのに。


 それが今の、パンデモニウムでの私なのか。


 洗面台に置いていたウェストポーチからライラを取り出す。赤紫色の卵は微かに揺れると、煌めく火の粉を吐き出した。


 〈素敵よ 貴方の感情 私にとってはとても魅力的〉


 前よりも明瞭に浮かぶ文字に目を通し、温かな卵の表面を撫でる。火の粉の文字は、私を囲うように流れでた。


 〈貴方は憤怒のライラ 私を守る選ばれた存在 名無しの貴方の中を流れる感情が 私を育てる糧になるの〉


 火の粉が宙に消えていく。私は抵抗なくライラの文字を追い、卵は小刻みに笑っていると感じた。


 〈もう少し もう少し 貴方の怒りを頂戴 鬱憤を 理不尽を 我慢を 不平等を嫌った心を頂戴 それが私を育ててくれる〉


 私は人差し指をライラの殻につける。文字を綴ろうと考えれば、それより早く回答がやってきた。


 〈殻を破るのはまだ少し先 貴方はまだ魔術が苦手でしょう? だからまだなの でも早く貴方に会いたいわ 私のゲネシス 真面目で可愛い子 この殻から溢れたその時 貴方の怒りに触れたいの 貴方の棘を愛したいの〉


 解けた火の粉が私に降り注ぐ。熱くない、ただただ温かな光として。


 私は両手でライラを抱きしめ、胸の中で笑う先導者パラスに目を伏せた。


 いつか貴方に会えるでしょう。街を歩く魔物達に羨望され、渇望され、崇高な存在として讃えられる貴方に。


 魔術が使えるようになれば、私はライラに相応しくなるだろうか。


 〈貴方は今でも相応しいわ〉


 火の粉が顔の前で踊る。開けた瞳を照らしてくれる。


 〈貴方の怒りは正しい 我慢する貴方は強い そう だから 私が殻を破って出られた時 初めて会った日にあげられなかった名をあげる〉


 優しい炎は私の頬を撫で、溶けるように消え失せた。


 〈だから そ れまで ななし で いて ね……〉


 あぁ、そうか。


 私の名前は、暴君でも、イグニでもなくて、いつかライラがつけてくれるのか。


 疲れた私に染みる言葉をくれる、この、先導者パラスが。


 魔力の操作を頑張ろう。魔術を早く使えるようになろう。強い守護者ゲネシスに、なろう。


 そうすれば、ライラが生まれてくれるから。私はそのための守護者ゲネシスだから。


 卵をウェストポーチにしまった私は、マスクをつけて鏡を見た。


 喋らない私がいる。いつも通りの私がいる。


 深呼吸を数度すれば、髪を乾かしていた時のザラつきは肺からなくなっていた。


 これなら、悪い夢は見ないかもしれない。


 微かにリラックスした体で洗面所から出ると、


【 やぁ 】


 ベッドにユニが座っていた。


 崩れかけた足を踏み出してなんとか耐え切る。一気に緊張感を取り戻した肩は上下し、ユニは容赦なく二の腕を掴んできた。


【 途中だった話が色々あるじゃん? はい、談話室行くよー 】


 なんて、問答無用で引きずられ。


 私の休息はまだ遠い。


 ***


「イグニの部屋着って初めて見たわ! ワンピースタイプなのね! 可愛い! 好きよ! メルとは時々お泊り会をしてるから是非イグニも参加して欲しいわ!」


 ユニに引きずられて談話室に来ると、豪快な料理が机に並んでいた。肉に魚に野菜も少々。何人前だろう。


 肉の色が黄色だとか緑だとか、魚の目玉が四つあるとか、そんなことはパンデモニウムでは当たり前だ。どうしてあの野菜はお皿から這い出ているんだろう。メルに捕まって口に入れられたので脱走は失敗である。永眠。


「メルが作ってくれる料理っていつも美味しい! 好き! この食材は全部ポワポワのお店で買ったの? すごい! 美味しい料理が作れるって周りも笑顔にしてしまう力よね、好きだわ!」


「ありがとう……フィー……」


 満足そうに顔をふやけさせたメル。その手は甲斐甲斐しくフィオネの口へ肉を運び、水を持たせ、次々と食事をさせていた。フィオネは口が空になった瞬間に喋り始めるのでそのままずっと食べさせてあげてほしい。


「……メル、この量さ」


「湊も、細い……私より、背も低い……いいね、かわいい、いっぱい食べていいよ……」


 どうやら湊もメルの給仕対象に含まれたらしい。


 三人は談話室のソファに並んで座っている。左から順に湊、メル、フィオネの並びだ。湊の前のお皿は底が見え始めたと同時にメルに追加を盛られている。優しさを極めたいんだろ、残さないようにね。


「あ、メル全然食べてないわ! 私達を優先してくれる気持ち、好きよ、嬉しくなる! でも私、料理を作ってくれるメルも好きだけど、いっぱい食べてるメルの姿も好きなの。だから一緒に食べましょう?」


「そっか……分かった」


 フィオネの心配により、メルも本格的に食べる姿勢に入った。しかし両サイドの二人への給仕も欠かさない。食べさせたがりの少女は骨と皮だけの体に肉を詰め込み、好意少女と献身少年も肥えさせようとしているようだ。


 して、何故このような場に私は連れてこられたのか。答えを求めてユニに視線を向けると、青みがかった白い瞳はメルに向いていた。


【 俺が質問してもメルは能力について教えてくれないんだよねぇ。でもイグニなら聞けるでしょ? 】


 そんなの知らないし勝手にやれよ。


 抗議の気持ちを込めて私を掴むユニの手を外そうとする。が、微塵も動かせやしない。何だこの指、握力どうなってやがる。


 ユニの指を持って、手の甲を握り、手首を掴んで悪戦苦闘。結果は惨敗。私には魔力操作の知識だけでなく腕力もないのか? 今日は虚しい現実を突きつけられてばかりな気がする。


【 ……イグニってさぁ 】


 気持ち悪い声に合わせて顔を上げる。そこには何となく口角を上げただけのユニがいて、火傷の痕が歪んでいた。白い瞳はやはり何を考えているのか分からない。


 私が首を傾げると、不意に頭上から影がさした。


 腹部には狼の尾が回り、ユニの手は名残もなく離れていく。


 少し後退した足がぶつかった。腐葉土の香りに包まれる。顎を上げると黒い髪の先が私の額に当たった。


 目が合ったのはこちらを覗き込む赤眼。爬虫類の瞳孔は私を見下ろし、鱗の手が私の首を覆うように掴んだ。


 ノアだ。


 猫を被っているらしい、親切なはずの人外さん。とても強いらしく、ユニの声にも耐えられて、魔術も得意な優等生。


【 珍しい。ノアが談話室に自主的に来るなんて 】


 ユニの声でノアの手が離れる。私はゆっくりと喉を擦り、白銀の火傷少年は寒気がする笑みを張り付けた。


 ノアは鱗の手で私の耳を撫でている。ちょっとくすぐったいです。


「ユニの声と変な足音が聞こえたから。またイグニを振り回してるんだろうと思って来てみたら、当たった」


【 へぇ、よく聞こえるね 】


「耳がいいんだ」


【 抱えた要素が多すぎだと思うな。あとどれくらい隠してるわけ? 】


「さぁな」


 二人の間から退けようとしたが、ノアの尻尾が腹部にあるままなので直立しておくしかない。


 私はユニの火傷に目を向け、その頬が動く様子を観察した。降ってくるノアの声は抑揚というものが無い気がする。


「ユニはまた、どうしてイグニを?」


【 メルの能力を聞き出して欲しいが一つ。湊と面白そうな話してたから、その続きを俺も知りたいが一つだよ 】


「知ってどうする」


【 さぁね 】


 人の頭上で交わされる会話に気力が奪われていく。


 どうしてだ。私はもう眠るだけのはずだったのに。こうなればさっさとメルの力を質問して終わればいいのか。湊とのやり取りに関しては今思い出した。やっぱり世界の普通ってそれぞれ違うんだな、学んだよ。


 若干うんざりしている私の額を鱗の指が撫でる。柔らかい指の腹に目を開ければ、腐葉土の香りと細かな砂が顔を撫でた。


 〈ごめん 喋りすぎた〉


 砂が綴った文字は、優しい。


 マスクをしている人外は微かに眉を下げた表情をしており、私は首を横に振った。


 この気遣いを、被った猫がさせていても構わない。私から見たノアは優しい人外なのだから。それ以外をノアが見せたくないのであれば見ないでおくのがいいだろう。


 私が一人結論を出した時、風に乗った金の紙が飛んできた。


 腕に刺さった金色は甘い声を浸透させる。


 〈イグニもこっちに来て、一緒に楽しんで欲しいわ!〉


 澄んだ声が頭に響き、風が紙を攫う。視線で追えばフィオネが満面の笑みで手を振っており、メルは湊の口に肉を押し込んでいた。


 ……。


 私はノアの元から離れ、何やらやる気に満ちたフィオネの言い分を受け取った。


「紙ならイグニも辛くないんじゃないかしらって思ったの! どうだったかしら!」


 〈紙でも口でも 喋り声に変わりないので〉


「えぇ!!」


 しおしおと眉も目尻も下げたフィオネ。耳で聞くか頭に流れ込むかしか違いがないんだよ。


 悪気ゼロの彼女の頭を撫でながら、私はメルを確認した。


 ホワイトボードを出して文字を綴る。それをメルに向ければ、赤茶の瞳が煌めいた。


 〈メルの能力についても聞いていいですか?〉


「勿論……いいよ」


 微笑むメルがいそいそとお皿を準備し始めたので、私はやんわり断るジェスチャーを入れる。そのままメルの向かいへ座り、背凭れ越しにユニとノアが立つ音を聞いた。


 ……後ろの空気が、なんか怖くて嫌だ。


 そんな気持ちを無視すると決め、私はメルで視線を固定した。


――――――――――――――――――――

次話は三人称でいきます。


また、次回より更新を月・水・土の週三回に変更します。

よろしくお願いします。


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