未履修と動揺


 休憩の後、私と湊は再び娯楽エリアを歩き始めた。一つ隣は雨の道、二つ隣は夜の道。意味が分からない。


 私達は比較的天気のいいエリアを選び、石畳の道を進んだ。相変わらず喧騒は耳栓越しに侵入し、私は絶不調である。


 口内の頬肉を甘噛みしながら気を紛らわせていると、湊のナイフが宙を抉った。


 〈イグニは授業用の備品決めた?〉


 私は首を横に振り、湊を軽く指さした。そういう君は決まったのか。


 緑の瞳はナイフを見下ろし、器用に回す。


 〈俺は属性が空だから、弓矢とかの飛び道具かなって思ってるよ。空間を上手く繋いで飛ばせたら面白そうだよね。そうすれば遠くからでも優しさの教育ができるし〉


 空間を上手く繋いで飛ばすってなに。


 ペリドットの力を有している湊からすれば、意外と魔術を身近に感じているのかと感想が浮かぶ。フィオネやメルも普通に宙に文字を綴っていたし、ノアは言わずもがな。ユニだってあの声は魔術に似た何かだろう。


 え、待って。もしかして魔術に慣れてない守護者ゲネシスって私だけか?


 突然の事実に頭痛がしてくる。ついでに胃も痛くなる。私だけ物理で動いてるのって滑稽ではないか?


 そもそも教師陣がこんな課題を出したのかが理解できなかった。癖が強すぎる守護者ゲネシス達に武器だの魔具だの選ばせた日には、良いことになんてならないだろ。鬼に金棒。問題児に遊び道具。いるか? 私はいらないと思う。


 〈ナイフだと上半身への教育ばかりになっちゃうんだけど、飛び道具があれば足を狙えるよね。そしたら痛みと一緒に、歩けない立場の人の状況も疑似体験させられる。教育の幅が広がると思うんだ〉


 くるくるとナイフを回す湊があまりにも平然としているので、私は背筋に寒気を感じた。優しさへの過程が血み泥過ぎる。


 私はホワイトボードを出しかけたが、魔物の多い通りなので手間取った。書く文字も歪んで見せられるものではない。


 周りが多ければそれだけ溢れる声量も大きくなり、耳栓越しに声も入ってきた。店への呼び込み、談笑、雑談エトセトラ。人ではない姿の者達が人と同じように生活を営んで、喋っている。


 頭痛は酷くなるばかりだし、眉間には力が入りっぱなしだし。


 静寂が恋しい。今すぐ喋る者達全員を罰したいが、そんなこと私の力量では無理だ。


 一人の人間が握り締めた、一本のモーニングスター。


 それだけで罰せられる範囲なんて知れている。だからパンデモニウムでは、棘だと私が判断した会話を取捨選択して殴りつけた。


 先生でも大人でもない私が、勝手に判断して、勝手に悪の種を選ぶのだ。その言葉は駄目。そのお喋りは見逃そうって。


 私は一体何様なのか。こんな中途半端なこと、今までしたことなかったのに。


 喋る奴は殴る。問答無用で罰して、後は大人が連れて行く。


 こんなにも、毎日毎日モーニングスターを振ったことなんて、なかったのに。


 自分の掌を見た私は、人差し指の先に意識を集中した。


 湊は隣で私の様子を観察する。私は指先に穴を開け、魔力を出すイメージをした。


 流れ出るのではなく、指先に固定するように。水のように流動的では駄目だ。ペン先に染み込んだインクのように、魔力を滲ませろ。


 紫の火種が微かにこぼれる。指先に定着しない。だから宙に、文字は書けない。


 集中しろ。集中しろ。集中、集中、この指先に。


 私には、火の魔力が備わっているのだから。


 意識が糸のように指先へ集中した瞬間、紫の火種が爆発する。あまりの勢いに片方の耳栓も緩んでしまう。


 反射的に魔力が出るのを止めた私は、人差し指の先からじくじくと広がる痛みに汗を浮かべた。いや、汗は集中している時からかいていたのだろうか。分からないけど、取り敢えず熱くて痛い。


「はい」


 震える右手を下げようとすれば、包帯だらけの手がかざされた。淡く緑に輝いた掌の温もりと同時に、私の指先は緩やかに痛みを忘れ、湊の右手へ視線が向いた。


 彼の人差し指の皮膚が赤くなり、血を滲ませて揺れる。私の体からは温度が失せ、指の痛みもなくなった。


「終わったよ」


 胃の奥が痙攣する。普通の顔をしている湊に、後頭部から熱が上がる。


「イグニは魔術を使うのが苦手なんだね。何しようとした、」


 彼が最後まで喋る前にモーニングスターを振り下ろす。


 荒ぶる右手は制御が効かず、理性の左手がなんとか右前腕を押さえつけた。


 湊の黒い毛先をモーニングスターの風圧が揺らす。ギリギリのところで止めた鈍器は、少年の肩口で止まった。


 私達の足も止まり、向き合う形で見下ろされる。


「どうしたの」


 奥歯が、鳴った。


 噛み締めて、痛むほど力を込めた、私の口内で。


 モーニングスターを雑に袋に入れ、震える右手にはペンを。汗の滲む左手にはホワイトボードを持った。書き殴る文字は私の感情を発散させない。


 〈勝手に傷を取らないで下さい 今の傷は私の失敗 それを貴方に背負わせる理由はない〉


 斜めになって、止めも雑になって、納得できない私の気持ちだけが書かせた文字。


 〈宙に火で文字を書けた方が意思疎通が楽だと思いました でも成功なんて今までしたことない だから今の失敗だって想定内で できたらいいなの感覚で それなのに湊が怪我をするなんて なんなんですか ふざけるな〉


 支離滅裂とした文章で埋まったホワイトボード。湊は緑の瞳で文字を追い、右の人差し指が淡く発光した。軽く上げられた右手の指からは火傷が消え、感情の読めない瞳と視線が交差する。


「力を使って怒られたのは初めてだよ。それはイグニに必要な傷だった?」


 〈必要不必要の問題ではありません 私の傷で湊が傷つくことが理解できないんです〉


「ペリドットはそういうものだけど。苦手な魔術で怪我したイグ二を許しただけだよ」


 〈貴方に許しを求めた覚えはありません〉


「判断するのは俺だから」


 湊の治った右人差し指が私に向かう。それは明確に、私の背中を狙っていた。


「その背中も、俺なら許せるよ」


 体中から冷や汗が噴き出して、眩暈がする。


 許す……許す? この傷を?


 許され方を知らなかった私が負った、この傷を?


 そんなの私は求めてない。


 今更許されたって、記憶までは消せないだろ。


『  』


 間違った過去が木霊する。間違えてしまった私が、背中に残ってる。


 〈結構です〉


 書き殴った私を見下ろして、湊は「そっか」と前を向く。ここで話は終わりなのだろう。平行線のまま、分かり合えないまま。


 ペアを決めた時だってそうだ。湊の優しさが私には分からなかった。即座に理解して利用しようとしたユニには怖気がした。


 私のショートブーツは石畳を強く踏み、視線は遠距離用の武器屋を探す。さっさと課題を終わらせて、さっさと部屋に戻りたいから。


 ウェストポーチの中で、ライラが笑っている気がした。


 ***


 目的を果たせそうな店が見つからないまま歩くこと数分。深呼吸を繰り返した私の肩からは力が抜け、頭を熱くしていた血も下がった。自主的に額を揉めば眉間も緩み、一つ息を吐ける。


 そうして私が平静を整えていると、急に耳栓を取られた。咄嗟に片耳を押さえて隣を見れば、包帯少年もこちらに顔を向けていた。


「イグニ……怒ってる?」


 聞こえたのは、萎んだ少年の声。


 明らかに眉を下げている湊。


 彼は右に首を傾け、左に傾け、顔や手の包帯を何度も触っていた。


「いや、俺、誰かを怒らせたことってなくて。昨日も多分ノアを怒らせたんだけど、ノアは俺よりユニに怒ってるみたいだったっていうか、不機嫌だったから。よく分からなくて。でも今のイグ二は明らかに俺に怒ってるって分かるし、こういう時どうしたらいいのかなって」


 語尾の小さくなる湊に対し、私は目を瞬かせてしまう。


 怒っているか否かで問われたら怒っているが、正しく表現するなら怒っていたという過去形なんだが。苛立ちは腹の底で胃液に溶かされ始めているところである。


 〈別にもう怒ってませんよ 元は私が無謀な挑戦をしたのが間違いだったんですから〉


 先程よりも落ち着いた文字を見せるが、湊の眉は下がったままだ。急に幼く見えた少年は何度も首を傾け続け、こちらの様子を伺っている。


 〈なにがそんなに不安なんですか?〉


「……分からないから、不安なんだと思う」


 湊は指先の包帯を解いて、巻き直す。無意味な動作を視界に入れれば、少年はたどたどしく語り出した。


「昨日、ユニが俺とペアを変わってって言った時、ユニとメルが嬉しくなってイグニが我慢することになるなら、また別の機会にイグニが嬉しくなることをすればいいと思ったんだ」


 いじいじと包帯を触る湊はずっと教会にいたとした。生まれた時から必要とされ、感謝され続けてきた聖人だ。


「でもノアには理想だって言われて、よくわかんなくて。さっきも、魔術に挑戦して失敗したイグニを許すのがいいなって思っただけなんだ。パンデモニウムでは誰も怪我をしたがらないから、その中で挑戦して怪我したイグニは優しいに近づいたって思って、それで負った傷なら俺が貰えるし、そしたらイグ二はまた挑戦できるよねって……」


 文を組み立てずに喋る湊は正直、要領を得ていないと思う。


 はじめて話しかけられた時もそうだったが、この少年の喋り方は主語や思いがあやふやで、一貫性が見えない。私が言うのもなんだが喋り慣れていない人間とは湊のことを指すのではないかと思う程だ。


 さらさらとこぼれる砂のように形を得ないまま、湊はなんとか喋っている。


 私が途中で分かり易く肩を落とすと、彼はすぐに黙ってしまった。


 つまり、こういうことか?


 〈怒られ慣れていないから 対処の仕方が分からないってことで合ってます?〉


「あ……うん、そう。そんな感じ」


 ……やりづらい。


 とてもやりづらい。


 この最上湊という少年は、どこまでも優しくあろうとして、どこまでも喋るのが下手で、どこまでも真っすぐだから。


 私は脳裏にフィオネを思い浮かべる。天真爛漫、淀みなき全方位好意少女。桃色爆弾ガール。


 彼女もそうだった。私が弾丸の如き語りが心底苦痛なのだと分かれば見るからに元気をなくし、喋らないよう努力してくれたのだから。思わず喋ってしまう、でもそれが私にとっては駄目なことだと分かって改善しようとする。しかし自分に癖づいている見つけた好意を言葉にする習慣を止められない。


 そんな彼女も優しくあろうとして、一方的で、会話というものは下手そうで、真っすぐなのだ。


 無垢な子ども。ただ自分の育ちと役割に染まった少年少女。


 ただそれだけ。他者を怒らせる体験に慣れていないのは湊のせいではない。ペリドットを崇拝させた社会自体が彼を叱ってこなかったのだ。


 私はなんと書くべきか迷い、結局は自分の思っている文字を書いたのだ。


 〈悪いな 傷つけたな と思ったら ごめんなさいって言えばいいんです〉


「……ごめんなさい」


 〈私もさっきは強く当たりました ごめんなさい〉


 お互い頭を下げ合い〈これでこの話は終わりです〉と見せる。湊は暫く黙ってから頷き、私は肩の力を抜いた。


 ウエストポーチの中でライラが揺れている気がする。笑っているのだろうか、私と湊のやりとりを。


 湊もウエストポーチを気にする仕草を見せたので〈揺れてます?〉と問いかけた。


「うん。時々あるんだよね、エーラが笑ってるんだろうなって時が」


 包帯だらけの手がポーチのチャックに触れ、少しだけ開ける。


 その――瞬間。


 街中の視線が一気に私と湊に向き、喧騒がやんだ。


 明らかな空気の変化。視線の集中。固唾をのんで見守る、魔族達。


 咄嗟のことに湊の手も止まる。彼は顔を動かさないまま緑の瞳だけ動かし、私も足を動かすことはできなかった。


 刺さる視線は全て湊の腰、軽蔑のエーラがいるポーチに向かっている。


 ひりひりと肌を刺激し、今か今かと待ちわびるような視線。


 ここに敵意は存在しない。


 あるのは、先導者パラスを待ちわびる好奇の目。


 期待の眼光。


 羨望と、崇拝。


 私の額から汗が流れ、湊はゆっくりポーチを閉めた。


 その動作を見届けたと同時に街に喧騒が戻る。注がれていた視線は一気に四方八方へ散り、何事もなかったように空気が動き始めた。


 私と湊は同時に息を吐き、手は自然とポーチを押さえていた。


「……感じた? イグニ」


 呟く湊に頷きを返す。彼はポーチを何度か撫で、私の腰ではライラが声を上げて笑っている気がした。


「教会みたいだった」


 それは、もしかしたら独り言というやつかもしれない。


 判別ができなかった私は視線を上げ、湊は街の遠くに視線を向けていた。


「ペリドットの所に来る人はみんな、期待して、崇拝して、俺達を見る。その視線に似てた気がしたんだけど……」


 言葉を止めた湊は少しだけ顎を引き、ポーチを隠すように上着の合わせ目を引いた。


「さっきの視線はそれ以上に、獰猛だった」


 彼の言葉に、私も上着を引いてしまう。隠しておかなければ、いけない気がしたから。


 私達が預けられたのはこの世界の先導者パラス。パンデモニウムの絶対君主。その卵。


 民は孵化を待っている。再び生まれる先導者パラスを待っている。その姿が卵であっても、その姿を見ようと、身構えた……?


 私がマスクを撫でた時、栓をしていない耳がお喋りを拾った。


「向こうに悪食の守護者ゲネシスがいるそうだ」

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