第二階層と喧騒


 第二階層・娯楽エリア。


 パンデモニウムに住む者達の娯楽を叶える為にいくつもの店が乱立し、道が一つ違うだけで雰囲気も気温も天気も違う。あらゆる生態の魔物が楽しめるようにこの区域を整えたのも、歴史を辿れば先導者パラスの力だとか。ウェストポーチの中でコロコロしている卵達は侮れない。


 第一回目の校外学習として指示されたのは所謂「授業準備」だ。自分の属性に合った武器や魔具を購入して明日以降の授業で使えるようにすること。


 私としてはモーニングスター以外に何が必要なのか皆目見当がつかない。火の魔力に耐える何かがいるのだろうか。でも何がいるんだ。


 第二階層へ下りるゲートは地上校舎の色々な場所にあり、私と湊が指定されたのはポワゾンの購買だった。ノアとフィオネ、ユニとメルはまた違う通路を指示されていたので寮を出てからは会っていない。


 ポワゾンの購買のレジ奥に通されると、床に丸い円が書かれた部屋があり、私の足は進まなかった。高性能の耳栓を持っているとは言え、これから声の溢れる階層に行くのだ。この校舎以上に。地獄に自分から行く勇気なんて持ち合わせていない。


『行こう、きっと平気だよ』


 そう湊が手首を掴んでくれたことによって足が出た。踏んだ円はぬかるんだ地面を彷彿とさせ、微かに足が沈む。


『いってらっしゃーい』


 ポワゾンの声を皮きりに、泥に沈んだと思った足が地面に着いた。一瞬の光の後、私と湊が立っていたのは店と店の間の路地だ。


 日の光が絶妙に当たらない通路には人間ではないサイズの生き物が飛び、四方八方から声が聞こえてくる。鳥肌と嫌悪に苛まれた私はすぐに耳栓をつけ、湊に手首を掴まれたまま歩き出した。


 ……そんな、現在。


 斜め下前だけを見て歩く私は、湊の上着の裾しか視界になかった。強制的に作り上げた静寂にも足音や微かな声が侵入し、その度にこめかみに汗が浮かぶ。


 喋ってる。みんな普通に喋ってる。パンデモニウムの比ではなく、喋ってる。


 喋ることが普通の世界とは、こうなのか。


 活気が私の肌を撫で、喧騒が足元で騒いでる。飛び交う声が空気を揺らして頭をかすめ、世界に声があるのだと知らしめる。


 気持ち悪い。


 気持ち悪い。


 ……気持ち悪い。


 湊に引かれる手が一瞬引っ張られる形になる。私の足が遅れてしまう。


 〈休もうか〉


 するりと視界に入り込んできたのは空中に浮かぶ文字。景色を裂いた不可思議な文字。


 久しぶりに顔を上げると、今日も綺麗な緑の瞳が黒い前髪の向こうにあった。


 ***


 全身サイボーグみたいな魔物に湊が声をかけた後、公園っぽい所に引っ張られてやって来た。耳栓をしていたので判断はつかないが、湊が休める場所を聞いてくれたのかもしれない。


 この人、気遣いできたんだ。


 感動というよりも呆気にとられる気持ちが勝る中、木陰になる場所に二人並んで腰掛ける。


 目の前ではモニカ先生のようなスライム集団が遊んでいた。大きさ的には私達と同程度だ。棘のあるボールを一人が吸い込み、体の弾性を使って勢いよく吐き出す。かと思えばボールの先にいたスライムが体でボールを受け止め、沈め、また弾性で吐き出す。……新手のキャッチボールだろうか。


 青い芝が広がり、外周は整備された道が通った公園。植物はどこか見たことない要素を含んではいるが、特段恐ろしさのようなものはなかった。


 隣を見ると湊が公園にいる住人達を凝視している。その横顔は絆創膏やガーゼのせいで表情を読み取りにくいが、あまり心地よさそうなものではなかった。


 私は湊側の耳栓を外す。そうすれば一気に音が鼓膜を揺らし、脳内に殴りかかった。


 笑い声が、弾んだ声が、陽気な会話が溢れている。元の世界では有り得なかった光景が日常として私の前に広がっている。


 静かな公園なんてどこにもない。誰もが喋り、言語のようなものを介し、戯れている光景こそパンデモニウムの日常。


 なんで、どうして、そんなことが許される。喋ることがまかり通る。声を掛けて答えてもらえるなんて、そんな、世界は――ッ


「優しくない世界だな」


 両手でモーニングスターを握っていたと、気づく。


 握り締めた持ち手の形が掌に移るほど力がこもり、前傾に体重もかかっていた。


 湊の声が無ければ、私はまず誰から罰していたのだろう。


 沸騰して生まれた湯気が視界を覆っていた気分だ。不鮮明な視界のまま歩き出せば、私は本当の暴君になってしまったかもしれないのに。


 マスクの中で努めて深呼吸を行ない、隣へ視線を向ける。湊も横目に私を見下ろしており、彼の両手は一本のナイフを握り締めていた。


 ナイフの切っ先が空中に刺さる。かと思えばゆっくりと宙に亀裂が入り、裂け目の文字を綴っていくから、私の頭には「第一属性・空」と浮かんでいた。


 〈誰も怪我をしていない 傷を残していない 綺麗に完治させるなんて何を考えているんだろう ここにはペリドットもいないのに〉


 微かに歪んだ文字が湊の苛立ちを伝える。私はゆっくりとモーニングスターを離し、ホワイトボードを取り出した。


 〈湊の世界の善が分かりません 怪我をしていれば良い人なのですか?〉


 緑の瞳が私の文字をなぞる。マーカーを持った手はボロボロで、私の文字を二重線で訂正した。二重線が引かれたのは〈良い人〉の部分だ。


 〈優しい人〉


 良い人ではなく、優しい人。


 そこに固執する自己献身社会シャグネスの善とは、何なのだ。


 湊のナイフが浮遊する文字を刻んだ。


 〈昔々 俺の世界では酷い政治を行なう者達への暴動があった 高い納税 高い物価 安い賃金 休みなき労働 それでもみんな頑張って生きているのに 政治を行なう者達は市民が納めた税で贅沢をし 物価の高さに気づかず 自分達の賃金だけ上げ 怠慢な政治を行なった〉


 宙の裂け目の文字は、私が読み切ったところで順次霧散する。湊は私のペースを確認しつつ、ナイフを離しはしなかった。


 〈だから市民は暴動を起こした 苦しさを知らない者に苦しみを 飢餓を知らない者には飢餓を 痛みを知らない者には痛みを それが 俺達の歴史の始まりだとされてるよ〉


 棘のついたボールが足元に転がってくる。湊はすぐに立ち上がってボールに触れ、棘によってできた傷から血が滲んだ。


 スライムに向かってボールを投げれば、軌道を追うように血の玉が宙を舞う。体で受け止めたスライムは「え、怪我しちゃった!?」と素っ頓狂な声を上げたが、湊は軽く手を振るだけだった。


 彼は絆創膏を取り出したので、私の手が伸びる。緑の目はこちらを確認すると治療を任せてくれたので、宙には裂けた文字が続いた。


 私は湊の傷に絆創膏を貼る。元々治療器具だらけの場所に重ねて意味があるのかは知らないけど。


 〈優しい人になろうって暴徒のリーダーが言ったそうだ 痛みが分かる人になろう 人の辛さが分かる人になろう そうすれば 優しい世界が訪れるからって〉


 絆創膏を貼り終えて居住まいを正す。湊は〈ありがとう〉を綴ったので私は軽く首を振った。


 〈痛みが分かる人ってどんな人だと思う?〉


 〈感受性が高い人でしょうか〉


 私があげた漠然とした回答に対し、湊は二回ほど瞬きの間を挟む。それから少しだけ目元を和らげて、ナイフを持ち直した。


 〈それも良い答えだね でも 俺達の世界では別の答えが出たんだ 感覚だけでは人それぞれ違いが出る そこがまた差を生む だから基準は明確な方がいい〉


 緑の目に微かな光が差し込む。木漏れ日は、湊の目元に影と光のコントラストを作り上げた。


 〈物理的に みんなで痛みを学ぼうってことになった 痛い思いをした人は他人に痛いことをしないから 自分が痛みを知った分だけ 人にはこんな痛みを経験させないようにしようって 優しくなれるからって〉


 それは……飛躍だ。


 暴論だ。


 しかし私は否定できない。


 文字を刻む湊の目に、迷いはなかった。


 〈転んだ痛み 打った痛み 落ちた痛み 切った痛み 頭痛を発症させる薬に 嘔吐を誘発する薬だってできた そうしてみんなあらゆる痛みを経験し 大人になって 誰にも痛い思いをさせない優しい人でいましょうって約束をしたんだ〉


 〈そうすれば 平和になるから?〉


 頷く湊を、私は否定できない。


 彼の世界と私の世界は、似ていると感じてしまったから。


 〈そんな教育が根強く普通になった頃 俺達ペリドットの体質を持った人が生まれるようになった ペリドットは他人の傷を吸い取って 肩代わりできる能力の保有者だよ〉


 数多の痛みを経験して優しい人になろうとしている社会に現れた、ペリドット。


 それは吉と出たのか、凶と出たのか。


 〈ペリドットに吸収できない傷はない 小さな裂傷も瀕死の重傷も 俺達は肩代わりできる それでいて治癒力が高い だからペリドットは崇拝の対象になったんだ 多くの痛みを抱えた優しい人を認める救世主だってね〉


 それは、やっぱり。


 私の手がホワイトボードに書きかけた文字。しかしそれを目に見える形にしてしまうのは、湊に対する謂われなき暴力だと、分かっていた。


 〈いっぱい傷ついて いっぱい頑張って 誰よりも傷だらけになっている優しい人 その人達によく頑張ったねって伝えるのがペリドット 優しい人が壊れる前に 特別な力を持って生まれた俺達が認めて 癒やして 讃えてあげるんだ 貴方はペリドットに認められるほど痛みを経験してきた凄い人ですよって もうこれ以上傷つかなくても 貴方は十分優しい人ですよって〉


 まるでそこは、終着点。


 そんな存在が生まれてしまえば、ペリドットを祀り上げてしまえば、最初に考えていた優しさがすげ変わってしまうのではないか。


 雑になった湊の文字を見て、私は何も綴らなかった。


 〈信仰が始まって みんなペリドットに認めてもらえることを夢みて 傷つくようになったよ たくさん傷ついて たくさん頑張って ペリドットに認めてもらおう 救ってもらおう ペリドットはあらゆる痛みを知っている 至高の優しい人だから〉


 湊のナイフが宙に刺さる。歪んだ文字は私が読めば消えていき、最後は空を抉るナイフだけが残された。


 〈俺はペリドットの力が強くてね だからずっと教会にいた 何人もの優しい人達を認めてきた それが俺が生まれた意味で 役割だから 優しさを認めて 広げるのが 俺なんだ〉


 緑の瞳がこちらを向く。だから私はもう一度聞いた。真っ白いホワイトボードに、黒い線で文字を綴って。


 〈貴方の善はどこにありますか〉


 脆く儚い幻想郷。誰か一人が悲鳴を上げれば、崩れてしまう砂の城。誰もがその悲鳴を噛み締めて、自分達とは違う人間に押し付けた、優しい世界。


 湊のナイフは、迷うことなく宙を裂いた。


 〈痛みの中に〉

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