表面と死角


 私を閉じ込めていたメルの植物が枯れ落ちる。


 繭の檻が崩壊する。


 暗闇に慣れ始めていた目は光に瞬きを繰り返し、足が床を踏んだ。


 目の前には人外の掌があり、視線は勝手に上へ向かう。そこには柔和に目元を細めたノアが立っていた。


 ……欲していた無音を、いつも静寂をくれる相手が壊してしまうのは、なんだか複雑な心境である。


 赤い目はゆるりと開き、宙を砂粒が踊った。


 〈変更はなし それが一番ややこしくならないからな〉


 文字を確認して頷く。ノアは少しだけ私の鼻を砂で撫でると次の文字を書いてくれた。


 〈きっと声が沢山ある 気を付けて〉


 第二階層は娯楽エリア、だったか。


 私はもう一度首を縦に振り、満足そうなノアに頭を撫でられる。もしも彼の機嫌を損ねたら首をもがれたりするのだろうか。ノアはそんなことしないか。


【” 仕切るなよ、人外 ”】


「しつこいぞ、人間」


 響いたユニの声が内臓を震わせる。対するノアの声も地を這ったから、私は反射的に委縮した。外も内も緊張感で殴るのやめてほしい。


 眉間に皺を寄せまくっていると、私の顔程の大きさがあるノアの掌が頬に下りてきた。片耳と視界が塞がれる。私からはユニも、湊も、メルも見えなくなる。


「イグニが嫌なら変わらないのがいいのだろ。湊も、決まったことを簡単に変わってもいいっていうのは優しさとは違うんじゃないのか」


「そうかな。俺が変わって誰かが嬉しいならいいことだと思うけど」


「それで誰かが困ったら意味ないと俺は思うね」


「優しくするっていうのはその繰り返しだよ。ある人は嬉しくなって、ある人はちょっと我慢する。だから次は我慢した人が嬉しくなるように配慮して、みんなに平等の優しいが回るように気を配るものさ」


「抽象的な希望論だな」


「思いやりのある献身だよ」


 ノアの掌が私の頬を微かに押す。片耳は完全に塞がれた状態となり、狼の尾が足に巻きついてきた。ふわふわだ。いやいや、絆されるな。


 どうして校外学習のペア決めだけで揉めなくてはいけないのか。元はと言えばユニが変わろうと提案したことが発端か。いや、ノアが言うように湊がそれを了承したことが問題になるのかな。……私が我儘な態度を見せず、ユニとペアになれば丸く収まるのだろうか。


 繭の中でも浮かんだ考えが整理されて、少しだけ反省する気持ちになる。私が首を縦に振るだけでいいなら、それに越したことはなかったのかもしれない。そうすればノアも動かなくて良かった訳だし。


 ……なんか申し訳なくなってきた。私が申し訳なくなるのは合っているのだろうか。いつも周りのお喋りを我慢してるのに? まだ我慢する? それとこれとは話が別なのか。


 肩を下げて視線を上げると、こちらを向いたノアが落ち着かせるような笑みを浮かべた。


 変わっていいよ、ノア。ユニと私がペアになれば話し合いは終了だと思う。


 そう視線に乗せたがノアには届かない。ただ分厚い掌が私の顔に押し付けられ、狼の尻尾が一瞬だけ足を締めてきただけだ。それはどういう反応なのか。


 ホワイトボードを出そうと動けば、それより早くノアが喋る。


「イグニはメルと部屋に行くといい。フィオネ、明日の校外学習よろしく」


「よろしくねノア! ありがとう!」


 浮かんだフィオネが私とメルの手を取って、着地をしてから歩き出す。私は思わず振り向きかけたが、フィオネに強く手を引かれて意識が逸れた。


「イグニはとっても人気者ね! きっとみんな貴方の良さに惹かれているんだわ! もちろん私も大好きよ!」


「……でも、気を付けた方がいい」


 足早に階段を上る中、メルは爪を噛む。赤茶の瞳は苛立ったように細められ、眼鏡が光を反射した。


 片手を繋がれている私はホワイトボードを出せず、メルの言葉を問えない。どういう意味かと。


 首を傾げて意思表示したが、メルは爪を深く噛むだけだ。階下からは微かにユニの声が聞こえた気もする。あの声は距離を取っても耳に入ってこようとするから悪趣味だな。


 なんて、思っていたら。


 建物が揺れるほどの衝撃が走る。


 私とメルが思わず飛び上がる程の。


 なに、何事。どういうこと。


 この寮が落ちるのかと錯覚したが、フィオネは私達の手を離さないまま三階へ到着する。ふわふわと、キラキラと、髪を揺らして。


 私とメルは顔を見合わせて何度か床を確認した。変化はない。落ちるような空気も感じない。


 脳裏に浮かんだのは、温厚な灰色の人外だ。


「メルは何に気を付けた方がいいと思うの?」


 甘い声が問いかける。私の思考がどろりと溶ける。


 反射的に桃色の瞳を確認すれば、煌めく双眼は笑みを浮かべていた。


 だがいつものフィオネの笑顔ではない。口は笑っている、目も笑っている。


 でも、目の奥は笑ってない。


 一番背が高いメルはフィオネと私を交互に確認し、こちら側で視線を止めた。細い指は壊れ物を扱うように触れてくる。


「欲深い目をしてた……底が見えないほど欲深く、譲らない目……」


 私の目元をメルの手が滑る。そこは先程まで、鱗の手が触れていた場所だ。


「仲良しなのは知ってるけど……ノアには気を付けた方がいいよ、イグニ……」


 瞬きをしてしまう。


 触れた鱗の固さや、尻尾の柔らかさを思い出す。


 曖昧に首を傾げるしかできない私に対し、ふわりと浮かんだのはフィオネだ。


「仲良しって素敵。仲良しになれる相手がいるってとっても貴重で、かけがえが無いことだと思うわ。そういう関係とっても好き。大事にして欲しいと思うの」


 桃色の瞳が私の目を覗き込む。天使のように浮かび、妖精のように笑いながら。


「でもイグニ、貴方を他から切り離す行為だけには頷かないでね」


 フィオネが着地する。私より視線が低くなり、柔らかな笑みを浮かべたまま。


「好き。強くて暴君と呼ばれる貴方が、モーニングスターを振り被る姿が、私は好きよ」


 鼻先を軽く叩かれ、フィオネの空気が晴れやかになる。「明日の準備をしなくっちゃ!」と踵を返した少女に合わせ、私とメルも自室へと向かった。


 ドアノブに触れて、停止していた思考を働かせる。


 これ以上、この話題を掘り下げても私が置いていかれるだけ。フィオネの笑顔がいつもと違った。あの子は何を考えてる。メルの言葉の意味はどこにある。階下のことはあの三人でどうにかしているんだろうか。それにしてもさっきの揺れは。ユニは声、湊はナイフ。どちらも揺れを起こすだけの衝撃を与えられるとは思えない。


 だったらやはり、ノア。


『他の奴なんて気にしなくていいさ 苦手な奴とは距離を取って 一緒にいたい相手とだけいればいい』


 ……私が繭に入っていた数分の間で、何かあったんだろうか。


 ふと、思い出した私はメルの部屋をノックする。彼女はすぐに出てくれたので細い手を取るのは容易だった。


 〈さっきの蔦の繭 静かで安心した ありがとう〉


 掌に言葉を綴り、微かに震えたメルを見上げる。


 彼女は緩んだ表情を我慢するようなぐちゃぐちゃな表情をしており、思い切り抱き上げられた。目が回るほど振り回され、ぬるついた言葉が耳に侵入してくる。


「かわいい……かわいいね、イグニ……守ってあげる。いつでも、またあの繭で、守ってあげるからね……」


 ……変なスイッチを踏んだかもしれない。


 ***


 翌朝、談話室を覗いたが特に変わった様子はなかった。ソファも長机も床も無事。ならばあの揺れはなんだったのかと疑問なのだが、ノアに朝から〈おはよう〉と微笑まれたら問えなかった。ホワイトボードを持ちかけた手は止まり、鱗の手に耳を撫でられる。今日も変わらない、私が知るノアがそこにいた。


 だから昨日のことを掘り起こすことはやめた。気持ちを切り替え、意識するべきは第二階層・娯楽エリアについてだ。


「はいそれでは名無しちゃん! 第二階層の娯楽エリアに行った時は、殴らない暴れない罰しない! いいかな?」


 早朝から寮の玄関に響くガイン先生の声に辟易する。彼は顔を逸らした私の両肩を持ち、「ねぇねぇ聞いて、これは本気でお願いだからさ」と揺さぶってきた。しつこい、鬱陶しい。ポニーテールが乱れる。


 私は渋々耳栓を見せ、つけるジェスチャーをする。ガイン先生は紫の瞳に安堵を浮かべ、人の頭をボールのように叩いてきた。この人にモーニングスターを振ったところで没収されるのがオチだ。我慢。


 口内の頬肉を甘噛みしながら耐え凌ぎ、他の守護者ゲネシス達も見る。


「いいかユニ、喋ってはいけない。喋らなくてはいけない場面でも出力も上げるな。目についたから殴るのも駄目だ、足も出さない。兎にも角にも声のレベルは最小で」


【” りょーかいでーす ”】


「何も分かっていないじゃないかッ」


 バルバノット先生がユニを追って歩き、同じ言葉を繰り返す。ユニ本人は適当に相槌を打っているだけなので、バルバノット先生の不安は払拭されていないようだ。そいつには体に文章を刻み込むくらいのことをしないと伝わらないと思います。


「お願いだよ、お願いだからメル、飲食店の物を全て制覇しないでくれ。これだけはお願いだ、本当に。片っ端から食べて空にしていくのは我慢しておくれ」


「……ちゃんと、お金は払うよ」


「やめておくれ」


 メルの前ではスライムのモニカ先生が永遠と跳ねている。少女の目線まで飛び上がり、着地しては再び跳ねる。爪を噛んでいるメルは「お腹すいた……」と虚空を見上げていた。さっき談話室で山盛り肉料理を食べていなかったっけ。併設キッチンの冷蔵庫はメル専用と表現してもいい。


「フィオネ、娯楽エリアでの注意点は?」


「あまり喋らないこと! 好きだと思ってもぐっと我慢して口にはしないの! だから頭の中でいっぱい好きって思うことにするのよね! 口で言えない分、いっぱい思って、いっぱい視線にも乗せて、いっぱい笑ってくるわ!」


「心配ですね」


「あら、心配してくれる先生も好き! でもどうして心配なのかしら?」


 ふわふわしているフィオネの前で、微笑むスー先生は息を吐いている。愛執のクラスの面々と会ったことはあるが、あの空気を浸透させてトップに立ったのがフィオネだ。校外に解き放てば新しい宗教でも作りかねない。フィオネ教かゲルデ教か、いやリベール教か? どれでも怖すぎる。


「ノア、フードはしっかりね」


「あぁ」


 フードを目深に被ったノアの様子に、何か言いたげなのはヨド先生だ。白い蛇の体をくねらせながら生徒の周りに円を作り、細い舌が出し入れされている。ノアは深紅の卵を片手に乗せた状態で先生のことは眼中になさそうだ。


「湊、無理はしないことさね。あと、今日は優しさの教育を控えるさね」


「俺には優しさを教える義務があるんだけど」


「控えるさね」


 私の隣に立って、モズ先生に頭を撫でられている湊。不安でしかない。この人のスイッチが急に入ってナイフを振り回し始めたらどうしよう。罰したらいいのか。そうだな、殴ろう。今日も包帯だらけだけど湊が強靭なことは身をもって知っている。


 それにしても、こう見ると各守護者ゲネシスに担任は手を焼いている気がした。ガイン先生は豊作だの順調だの喜んでいたけれど、本当に喜ぶべきことなのか疑問である。


 でも決まらないままだと先導者パラスが何にも守られてない状態に近いから、やはり早く決まったのはいいことなのかな。分からない。


「ねぇ名無しちゃん。なんか周りは大変そうだな、みたいな顔してるけど君も大変だからね? 俺はこれからパンデモニウムに猛獣ないし細菌兵器を投入するんだって気持ちでざわついてるんだけど。暴君はお忍びで城下町に下りてください、頼むから」


 なんでだよ。


 納得いかなくて眉間に力が集まる。「ほらほらも~」とガイン先生に撫でられたので無理やり皺は伸ばされたが、釈然としないままだった。


 銀髪火傷の声帯圧制者。

 赤茶の無限胃袋保持者。

 桃色の全方位好意少女。

 灰色の穏便過保護人外。

 緑眼の強制殺傷献身者。


 一番まともなのが人外のノアとして、その次にまともなのは私ではなかろうか。


 悶々としたままガイン先生を睨んでいれば、勝手に耳栓をつけられた。


 ……解せぬ。

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