新居と傷

「ねぇねぇイグニ、引っ越し作業って楽しいわね! イグニはどんな部屋にしたい? どんな色が好き? どんな色が好きなイグニでも私は好きだけどね!」


「お腹すいた……」


「談話室の隣、大きいキッチンと冷蔵庫があったよ」


「……行く」


【 急に引っ越しとか担任共は説明が遅すぎない? 荷造りとか何もしてないっての 】


「まぁ、パンデモニウムは何でも急だからな」


【 君は凄く強そうでムカつくね、人外 】


「ノアだ」


「え、イグ二の荷物それだけなの? 凄い! 少ない物を大切に使う子なのね、そんなところも好きだわ!!」


 ストレス。


 ストレス。


 ストレス、ストレス、ストレス胃痛頭痛吐き気眩暈倦怠感。


 あらゆる不調に体内から殴られ、周りをふわふわしているフィオネに息が乱れ、着替えや日用品を詰め込んできた箱を壊しそうになる今現在。


 守護者ゲネシス集会終了後。本日は授業が休みと言われ、我ら守護者ゲネシスは空に浮かぶ寮への引っ越し作業を行なっていた。


 私はフィオネを振り切って三階へ上がり、「ライラ」のプレートがかかった部屋に入る。


 そこは確かに元の部屋よりも広く豪華だが、私の気が休まる気はしなかった。


 一つの教室分はありそうな広さで、床には暗めの紫色の絨毯が敷かれている。私はなんとなくブーツで入ることを渋ってしまい、室内用スリッパをポワゾンの購買へ買いに行くと決めた。


 私の着替えなんて寝巻きとジャージと制服の予備くらいしかない。授業が休みの日は何をしてもいいと言われているので、朝から晩まで部屋にこもって耳栓をつけて寝るだけだ。そうでもしないとおかしくなる。


 ベッドは天蓋付きにレベルアップし、ちょっと触っただけで手が沈んだ。部屋には窓が四つあり、明らかに広すぎる。一人で住むには逆に寂しくなるサイズではないか。


 だが、先導者パラス守護者ゲネシスとはこれだけの箔がつくということ。慣れなければいけないのかな。


 私はウォークインクローゼットにのろのろと服をしまったが、あまりにも余白が多くて溜息が出た。寝巻きとか羽織ものとか、増やそうかな。快適な睡眠環境を整えたい。


 備え付けの机にノートや筆記具をしまい、出入り口から一番遠い場所にある扉を確認する。そこは脱衣所になっており、奥にはまた広い浴室があった。元の部屋にもあったが、それ以上に広い。高級ホテルかな。


 嬉しいのは備え付けのキッチンがあったことだ。浴室がある壁側、脱衣所に繋がる扉とは反対側にも扉があり、一人には十分な冷蔵庫と流し台があったのだ。素晴らしい。談話室の隣にキッチンがあると小耳に挟んだ時は軽く気分が地に落ちたけど、これは救いだ。


 ベッドはちょうど脱衣所の扉とキッチンの扉の間に置かれており、壁側に枕が置かれていた。小さなダイニングテーブルでも買おうか。なら椅子もいるだろうか。カーテンの柄や机の配置は変えてもいいだろう。


 気持ちを落ち着かせるためにも引っ越しに集中する。発狂しそうになったらこの部屋に逃げ込めるよう、安心できる場所にしよう。頭痛ばかり起こす生活なんて健康に悪すぎる。


 買い物メモを作った私は、廊下に誰もいないことを確認してから階段を下りた。


 二階を素通りして一階に辿り着く。よかった、フィオネやユニに会わなくて。


 大きな障害を乗り越えた気分になった所で、私は鉢合わせる。軽蔑のエーラの守護者ゲネシス――湊と。


 全身包帯だらけの彼は、片腕で荷物を抱え、片足を引きずっている。


 ……。


 私は両手を差し出して、彼の目を見た。緑色の澄んだ瞳は私を確認し、ゆっくり伏せられる。


「手伝いはいいよ。ありがとう。それよりも、イグニ、君はどこか怪我してる?」


 荷物を置いた湊に問われる。私は別にイグニというあだ名を了承したわけではないのだが、彼の中で私は「イグニ」になっているのだろう。


 私は自分の体を確認し、一瞬だけ背中を撫でる。


 瞬間、湊に手首を掴まれた。


「怪我、してる?」


 食い入るように鋭くなった視線。爛々と輝く緑眼。湊は手に力を込め、私の腕に微かな痛みが走った。


「君の噂は聞いてる。喋る生徒を片っ端から殴ってるって。憤怒の暴君だって。どうして殴るの? 怪我をした相手は放置してるんだよね。君にもペリドットの力があるわけじゃないんだろう?」


 ギリギリと、湊の手に力がこもる。全身を包帯で巻いた少年とは思えない握力だ。


 私は微かに後退し、反射的にマスクに触れた。


「……喋るから殴るの? それが君のやり方で、正義だから?」


 頭痛がする。吐き気もする。今日はあまりにも、声を聞きすぎているから。


 私はモーニングスターを袋から出し、湊に向かって振りかぶった。


 質問なら、手紙に書いて出直してくれ。


 湊は私と視線を交差させ、微かに緑の瞳が見開かれる。


「君は、そんな顔をして殴るんだね」


 モーニングスターが湊の側頭部を殴打する。既に重傷に見えるため加減はしたが、少年は数歩よろめいた。


 側頭部を押さえ、赤い血が黒い髪を濡らす。


 湊は上着のポケットから大きなハンカチを出すと、すぐに傷へ当てていた。


「ありがとう、イグニ。俺を殴ってくれて」


 ――お礼。


 人を罰したことは何度もある。その度に周囲から賞賛されたが、罰を与えた相手から感謝されることなんてなかった。


 湊の顔が上がる。


 目元を朱に染めた少年は、恍惚の視線で私に言葉を吐いたのだ。


「傷を増やしてくれてありがとう。お陰で俺は、もっと優しい人になれる」


『怪我をしている者が優しいとされる世界、「自己献身社会シャグネス」出身の子さね』


 私の脳内でモズ先生の言葉が再生され、血の気が引いた。


「優しい人でいたいんだ。俺はペリドットの力を持っているから、恵まれてるから。沢山の人の傷を吸って、貰って、痛みを知って……優しい人でいなきゃ、駄目だから」


 湊の袖からするりと出てきた、抜き身のナイフ。刃渡り二十cmはありそうな代物は、最上湊という存在に不釣り合いな気がした。


「君に痛みを教えて、君の傷を貰うよ、暴君のイグニ」


 瞳孔を絞った緑眼が私目掛けてナイフを突き出す。咄嗟にモーニングスターで受け止めたが、湊は怪我人とは思えない速度で反応した。


 金属音が建物に響く。湊のナイフを折っても即座に次のナイフが出てきてしまう。


 湊の思考が全く分からないし、私は戦うことに慣れているわけでもない。


 罰する相手に抵抗されることもあった。だけどその場合は私以外の誰かが手を貸してくれた。


 初日の憤怒のクラス。あそこに立った時は私しかいなかった。自分だけで黙らせなければいけないと腹の底が燃えた。私しかいないのだから、私がやれと。


 だから今も、頭を切り替えろ。


 湊は私を傷つける。言葉ではなく、目に見える形で傷をつけようとする。


 それは何故、どうして、意味はなに。


 そう考えるのは、私が傷つけられないと判断できた時でいい。


 右手で叩きつけたモーニングスターが床を抉る。最小の動きで横に躱した湊は、私の背中が見える位置。ナイフの持ち方を変えた。刺すのではなく振り下ろす持ち方だ。


 私は、モーニングスターを離す。


 右手のまま裏拳の勢いで振るには力の向きが合わない。だからこれは、正常な方向から振り上げた方が効率的。


 モーニングスターを左手で掴み、腰を回してフルスイング。


 湊の手首ごとナイフを叩けば、弾けた皮膚から血が舞った。


 しまった、思った以上に力が入った。


 私は破れた湊の手首を掴み、足を払って床に倒す。掌が感じる流血を力を込めて押さえれば、湊は目元を染めて肩を揺らした。


「おかしな人だな、君は。俺に傷をくれたのは君なのに」


 血の勢いが落ち着いていく。血とは違う仄かな温かさに違和感を覚える。


「ありがとう、痛みをくれて。俺が俺であるべき理由を刻んでくれて」


 手を離してみる。湊の手首の出血は明らかに弱まっており、破れた皮膚が淡く緑色に輝いていた。


 側頭部を見る。殴ったはずのそこは既に血が止まり、薄皮が張っていた。


「俺は選ばれたペリドット。普通の人より傷の治りが早いんだ。あらゆる人の傷を貰う為に」


 上体を起こした湊は手首を撫で、ウエストポーチから包帯とテープを出した。


「怪我をしている人は、痛みを知る人。痛いが分かる人は、優しい人。それが俺の世界の常識で、みんな優しい人を目指してる」


 慣れた手つきで包帯を巻き終えた湊。私は彼の言葉を聞いているにも関わらず、モーニングスターを動かす気にはならなかった。


「イグニは喋る人を罰するんだよね。だったら俺とは相容れない。怪我をせず、痛みを知らず、刑を執行するだけの君を優しいとは思えないから」


 緑の瞳が私を射抜く。その目は数秒で柔らかくなり、血の付いたモーニングスターを撫でられた。


「って、思ってたんだけど」


 包帯だらけの手が私の肩に触れ、背中に伸びる。反射的に肩を跳ねさせた私は、体中から冷や汗が滲んだ。


「……違うね、イグニ。君も痛くて、怪我をしているね」


 その言葉は、まるで傷病者を守る天蓋のように、私の耳を覆ってしまう。


「その傷、俺なら貰えるよ」


 鈍器の音が遠くなる。


 痛みが、湊の温もりに上書きされていく気がする。


 そこで全身に鳥肌が立ち、私は包帯だらけの手を振り払った。


 立ち上がって、後ずさって――目の前に、深紅のラインが入り込む。


「何してる?」


 私と湊の間に立ったのは、ノアだ。


 見上げるほど背丈のある彼の顔は私の側からは伺えない。湊はゆっくり立ち上がり、完全にノアの影に隠されてしまった。


「イグニが俺に傷を与えてくれたから、お礼にイグニの傷を貰おうとしたんだ」


「……何言ってる」


「俺はペリドットだから、色んな人の傷を貰えるんだ。だから傷ついている人から沢山傷を貰って、俺に移す。そうすれば傷だらけの俺は優しい人になって、崇拝されるから」


 湊の声に喜色が混じった気がする。私は微かに後ずさったが、右足に狼の尾が巻きついた。


 柔かな尾は私の足に絡まり、逃げなくていいと、示してくれている気がする。


「それは、お前の世界でも限られた奴しか持っていない能力、だったか」


「そうだよ。だから俺は教会にいた。沢山傷ついた人がやって来て、その人の優しさを認める為に傷を吸う。そうすれば彼らはペリドットに認められた善人になって、俺は頑張った人を救う優しい存在でいられたから」


 飲み込めない。


 湊の言葉が、飲み込めない。


「でもパンデモニウムは駄目だ。みんな怪我をしたがらない。優しい人になろうとしない。だから俺は痛みを知ってもらう為に傷つけて、その傷を吸うんだ。誰も傷ついたままではいたくないみたいだから。贅沢だよね。俺に傷を吸ってもらえるなんて。でも、優しい人を増やすのも俺の役割だから頑張るよ。痛みを知ったね、優しい人に近づいたね。明日もまた痛みを教えてあげるから、もっと優しい人になろうねって」


 矛盾がある。


 大きな矛盾を感じて、拾うのに、指の隙間から抜けていく。


 理解できない、しきれない。なんだこの、最上湊という少年は。


 この少年の思考は、どうなってる。


「そうしてクラスメイトに毎日痛みを教えて、傷を吸っていたら、いつの間にか守護者ゲネシスになってたんだ」


 緑の目がノアを避けて私を見る。食い入るように見つめて、少しだけ口元の包帯を緩めていた。


「ねぇイグニ。疼く傷痕だって俺は吸えるよ」


 私は反射的に首を横に振る。湊は「そっか」と残念そうに肩を落とした後、置いたままだった荷物を持ち上げた。


「ユニにも断られたんだ。あの火傷痕、俺なら貰えるのに。でも提案した瞬間殴られたから良かった。新しい傷が増えたから」


 湊が階段に足をかける。ノアの尾は私を引き寄せ、鼻に馴染んだ腐葉土の香りがした。


「ノアでも、イグニでも。怪我したら言ってね、貰ってあげるから。俺、優しい人のままでいたいからさ」


 そうして湊が二階へ姿を消すまで、私もノアも動かなかった。


 包帯が見えなくなったところでそれぞれ息を吐き、見慣れた砂の文字が目の前に浮く。


 〈平気か?〉


 あ、いつもの感じだ。


 それに私は体中から力が抜け、喋りかけてくれない同級生に安堵した。


 いつものノアだ。霧深い林で筆談をしてくれる、友人だ。


 私は何度も頷いてモーニングスターを軽く拭く。袋にしまってホワイトボードを出そうとすれば、それより早くノアの腕が膝裏に回った。


 鱗のある片腕が私を持ち上げる。私は咄嗟にノアの肩に触れ、体を寄せる姿勢で安定させられた。


 倒れた日のように、立て抱き。言い換えるなら子ども抱き。


 私は目を白黒させている自覚があり、理解する前にノアが歩き出してしまった。


 〈購買に行きたいんだ。付き合ってくれるか?〉


 砂の文字が問いかけるから、頷くしかない。これはもう同行は決定している動きだと思うんだけど。


 ノアが目を細めた時、背後から可愛らしい声がぶち当たった。


「イグニ! ノアも! どこへ行くの? 私はこれからメルと一緒に購買へ行くの! もしかして二人も一緒? だったら四人で行きましょうよ! その方が絶対楽しいし、お互いのことをもっと好きになれると思うから!」


 ふわりと現れたのはフィオネ。彼女は私と同じ目線まで浮き、こちらの体勢は特に気にしていないようだった。


 彼女に手を繋がれているのは、悪食のグルンを担当するメルだ。


 ノアは暫く間を取ってから頷き、私も渋々了承する。ノアとなら静かな時間を享受できると思ったんだけどな……。


 少し俯いたところで、ぬめりを帯びた視線を感じる。


 咄嗟に顔を動かすと、眼鏡の奥から私を見上げるメルがいた。


「抱っこされちゃうくらい……軽いんだねぇ……」


 尖った歯を見せて悪食が笑う。


 身震いした私の背中を、ノアは数回叩いてくれた。

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