視線と対面

 視線を感じる。


 自意識過剰だと思いたいけど、そうでもない。今まで感じたことがない感覚を探って見当をつけた結果「視線を感じる」に至ったのだ。


 しかも視線が二つある。しかしどちらも心当たりがない。だから怖い。一体なんなの。


 一つの視線は食堂で。


 私は日が昇っていない時間に起床して食堂へ行くようにしている。そこでは薄暗さが好きなのであろう生徒がちらほらと座っているが、彼らは基本的に喋らない。喋っても小声なので、私が意識を向けなければやり過ごせた。


 夕食は食堂が閉まるギリギリを狙って行く。そうすれば人はまばらであり、厨房近くの席に座っていれば他人の会話も料理の音がかき消してくれた。だからまだ、耐えられる。


 地獄は昼休みだ。


 事前に予約をしておけばテイクアウトできるとシュシュさんが教えてくれたので、昼食は一人になれる所で食べるようにしている。それでもまずはテイクアウト商品を取る為に食堂に入らないといけないのだ。


 昼の食堂は午前の授業が終わった生徒でごった返す。少しでも時間がずれたら声に飲み込まれて発狂しそうになるのだから、最悪でしかない。


 どうしてみんなそんなに喋るんだよ、とマスクを掻き毟りそうになるが、モーニングスターを入れた袋を握り締めて耐えるのが日課だ。


 会話を雑音にしろ、音にしろ、声として認識するな。全員を罰するだけの力が、私にはまだない。


 食堂全体に視線を向ければ、初日に黙らせた元クラスメイト達も勿論いる。彼らも私のことは視認しており、睨まれるか怯まれるかが常だ。どちらも私の行動の結果なので甘んじて受けとめよう。


 話が逸れた。集中するべきは視線の方だ。


 私がテイクアウトのご飯を入手して食堂を出る時、背中を舐められるような感覚がする。それは元クラスメイト達とは違い、敵意も悪意も乗っていない。ぬるりと「見ている」視線だ。


 それが食堂の外まで追ってくることはないが、如何せん気になるものだ。


 そしてもう一つ、日常生活の中で感じる視線がある。


 それは場所が限定されていない。廊下を歩いている時や、グラウンドから教室へ帰る時と様々だ。だが、こちらの視線は明らかに食堂と別物である。


 人を値踏みする嫌な視線。観察しつくすような気持ち悪いもの。


 私は視線やジェスチャーがコミュニケーションの手段として成り立った世界で育ったのだ。そういった類には敏感にできている。だから視線の主がいる方向も見当をつけられるのだが、探す素振りを見せればすぐに消えるので質も悪い。


 体づくりの授業に向けて、着替えを終えてグラウンドに向かう途中。今日も視線を感じる私は肩を落とし、目の前に現れた人影に眉を潜めた。


「よぉ」


 声はかけずに会釈だけしてほしい。


 眉に力を入れたまま顔を上げると、元クラスメイト達がいた。十一人ちゃんと揃って。ロサは白くなった顔を逸らし、獅子や茶髪の女の子は鋭い視線をこちらに向けていた。


 私に喋りかけたのは人間に見える男子生徒。黒髪短髪の彼はこちらを真っすぐ見つめ、一歩を踏み出した。


「挨拶ぐらい返したらどうなんだよ」


 あぁ、嫌な声だ。


 ひしひしと怒気を感じて、鼓膜が確かな痛みを覚える。


 私は静かに腰を折ってお辞儀したが、相手はそれを挨拶と認めなかった。


「なんなんだよお前。初日に俺達全員倒して守護者ゲネシスになるなんて、不意打ちした自覚ねぇのかよ。あんなズルしやがって」


 嫌な言葉だ。嫌な口調だ。


 もしも昔の世界にこういった物言いが溢れていたなら、人々が喧嘩をし、争ったのも納得だ。


「お前なんかが守護者ゲネシスに相応しいわけねぇのに、なんでガイン先生は何も言わねぇんだ」


 むしろガイン先生には評価された方なんだが、痛み始めた頭で考えたって仕方がない。


 ズルという言葉も、お前なんかという言葉も。強い語気も、十一対一という状況も、私の頭を痛くする。


「俺達は、お前を憤怒の守護者ゲネシスなんて、認めてない」


 目尻のつり上がった少年は吐き捨てる。


 その言葉を皮きりに、他の生徒も口々に私を貶し、罵り、否定し始めた。


「最初はお互いを知る所から始めるべきだったと思う」「正々堂々としていない決め方だった」「みんな守護者ゲネシスを目指してたのに」「ズルいよ」「酷いな」「今も変わらず生徒を殴ってる意味がわかんねぇ」「心が無いんだろ」「最低」「強欲」「なんか喋れよ」


「口無しの化け物が」


 ……。


 なんでかなぁ、なんでかな。


 なんでコイツら、喋るのかな。


 私は確かに彼らを罰した。殴って血だらけにした。でもその傷は治るし、君達十一人の結束は強くなったように見えるんだけど。


 どうして、言葉で私を傷つける君達より、鈍器で君達を罰した私の方が悪いんだろう。


 たしかに初日、何も知らず、君達の様式に合わせなかったのはマナー違反かもしれない。


 でも、そちらの方が多勢だった。私が教室に入る前にコミュニケーションも取っていたなら、協力すればよかっただけの話ではないか。


 私の動きを抑え込む力も覚悟もなかったのは、そちらではないのか。


 殴られたから私のことも傷つけていいのか。そういうものなのか。


 私は人を罰するが、処刑する権利は与えられていない。だからいつもモーニングスターを振り下ろす時はしている。


 罰とは私刑ではない。罰とは抑制であり、正当かつ必要な暴力。暴力であり、しかし暴力ではない、許された制裁。命を奪うのは大人の役目。私ではない。


 私は君達の背景を知らないよ。


 同時に君達だって、私の背景を知らないよね。


 背中が疼く。痛みを思い出す。


 ウェストポーチの中で、ライラが揺れた。


「ッ、なんか言えって!」


 黒髪の人間に肩を掴まれる。私より背が高いが、それだけの人。初日の君は私の行動に怯えて、他人の影から叫んでいたな。


 思い出して、頭の痛みが強くなる。これから体力を使うのに。これから体を酷使するのに。


 喋らない私は目で伝えた。「そこを退け」と。しかし彼は汲み取らないし、汲み取る意思もその目には見えなかった。


 私の考えを伝えたところで、この世界に理解してくれる人はいないんだろうな。


【” 弱者が吠えるな鬱陶しい ”】


 ぉ れ る

 

 初めて喋る人と出会った時よりも。


 初めて罪人が殴られる映像を見た時よりも。


 圧倒的不快感。類を見ない敗北感。体の上に大きな手が乗り、今にも押し潰されそうな緊張感。


 あまりにも暴力的で、精神を折りにきている、その声は。


 強烈な寒気を振り払って顔を上げると、私の前にいた十一人が過呼吸になりながら倒れていた。


 私を掴んでいた男子は床に崩れ落ち、涙目になって呼吸している。既に何人かは気絶しているようで、私は背後の足音を聞いた。


 振り向いた先にいたのは、一人の男子生徒。


 透けるような銀髪に薄青がかった白い瞳。垂れた目元は柔和に微笑み、向かって左側の頬から額にかけては引きつった火傷痕がある。


 スラックスから覗く靴はピンヒール。制服には青いライン。


 腰には私と同じウェストポーチをつけており、脳裏ではライラの文字が思い出された。


 野心のフィロルド。その守護者ゲネシス


 私は彼に向き直り、頭痛も吹き飛ぶ圧迫感にマスクを撫でた。


【” こんにちは、憤怒の守護者ゲネシス ”】


 また、折れそうになる。


 胸の中に直接腕を突っ込まれ、内臓を掴まれたような寒気。


 背中に乗る大きな掌はいつでも私を押し潰しそうだと、錯覚が肥大する。


【” 俺は野心のフィロルドを任された、ユニ・ベドムっていう者さ ”】


 野心の守護者ゲネシス――ユニの声が耳の奥で乱反射する。思わず左耳を塞いだが、既に入った言葉を追い出せるはずがなかった。


 足の裏から床へ体温が流れ出る感覚に陥る。自然と震えた奥歯を噛み締めたのは、ただの反射だった。


 ユニの白い瞳は微かに細まり、左の首筋を撫でている。


【 本当に喋らないんだ。驚いた 】


 ふと、先程よりも圧迫感が弱くなる。


 私は額に浮いた汗を拭い、モーニングスターを袋から出した。


 気持ちを切り替えろ。前を見ろ。言葉を発した、奴を見ろ。


 ユニの言葉は人を傷つけるという次元のものではない。


 彼の言葉も、声も、人を屈服させ、壊す害だ。


 私がモーニングスターを軽く振ると、ユニは再び首筋を撫でる。手が離れた首を見ると、歪んだ渦のような絵が刻まれていた。


【” 俺のこと壊したい? ”】


 また圧が増す。


【” でも今日はやめようよ。俺はそこら辺に転がってる弱虫達を叩き潰したかっただけだから。ぎゃあぎゃあ騒いでる姿が惨めでムカついたんだよね ”】


 背骨が曲がりそうになる。


【” そいつらは俺の言葉に耐えるだけの気概が無かった。その時点で守護者ゲネシスに選ばれるわけないんだから、君はもっと自信を持つといいよ ”】


 いっそ負けて、心を折りたくなってしまう。


【” ねぇ、喋らない守護者ゲネシス。言葉の力を知ってる世界から来た人間 ”】


 痛むこめかみを押さえて顔を上げると、白い瞳は恍惚と笑っていた。


【” 言葉こそ絶対的暴力だと知っている君が、同じ守護者ゲネシスになってくれて、俺はとても嬉しいよ ”】


 っ――……


 重圧が私を潰しかけた瞬間、足が動き、無意識のうちにモーニングスターを振り上げていた。


 殴れ。罰しろ。言葉を許すな。最悪を見逃がすな。奴の口を塞がなければ、諸悪の種が蔓延する。


 笑ったユニは踊るように身を翻し、黒い上着が広がった。


【” じゃあね、。また近いうちに ”】


 私の前で水球が弾け、気を取られた隙にユニはいなくなる。


 罰せなかった。黙らせられなかった。止められなかった。


 でも、でも、私の前からは消えてくれた。


 解けた緊張感に負けた体はその場にしゃがみ込み、次の授業を示す鐘が鳴った。


 ……駄目だ、動けない。


 私は壁に凭れ掛かって息を吐き、投げ出した足の間でモーニングスターを離す。目は倒れてしまった元クラスメイト達に向かい、近くで火花の弾ける音を聞いた。


「珍しく名無しちゃんが待機してないと思ったら、なんかトラブった感じ?」


 顔を上げれば、薄く笑ったガイン先生が紫の毛先を払っている。「うわ、顔色酷いよ~」と指をさされたが、筆談する気力も残っていなかった。


 ガイン先生に呼ばれた二羽の保険医――立ち耳のウルと垂れ耳のエルがやってくる。空色のウサギ達は風魔術と空魔術の専門医とのことで、よく分からない魔術を使い、保健室に繋がる穴を空中に開けていた。ほんとになにそれ。


 私は投げるように運ばれる生徒の中で、ロサを見る。彼女が運ばれる前に立ち上がり、ポーチからメモ帳を取り出した私は、微かに意識が戻った彼女に紙を握らせた。


 綺麗な瞳が恐怖を混ぜて私を見上げる。


 ……罰を受けるのは怖いよね。


 その意味が分からなかったら、余計にね。


 私は完治した彼女の側頭部を撫で、目を丸くしたロサはメモを読んだらしい。


「ぁ……」


「行くよ行くよなのだよ」


「ま、ぁの、」


 垂れ耳のエルはロサを保健室に運び、空間が閉じられる。


 私は深呼吸と共に体中の筋を伸ばし、ガイン先生には背中を叩かれた。


「察するに、元クラスメイト達にいちゃもんつけられたかな?」


 ……別に。


 私は適当にモーニングスターを振る。ガイン先生は何度も私の背中を叩き「気にするんじゃないよ」と笑った。


「彼らは暴れる君一人を鎮圧できなかった負け犬なんだ。そいつらがいくら吠えたところで、こっちにとっては雑音にしかならないよ。君が傷つく必要はない! 以上!」


 満面の笑みで言い切ったガイン先生。


 私は彼の発言に鼓膜を震わせ、再び頭痛を発症した。


 ある意味さっぱりしている。冷めている。実力主義だと思ってもいいものなのか、どうなのか……。


 ロサにあんなメモを渡すようでは、私はまだまだ、パンデモニウムに染まっていないってことかな。


 グラウンドへ向かうガイン先生を追いかけて、私はモーニングスターをしまった。


 〈傷痕が残らなくて良かったです〉


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