寡黙と目標


 揺れている。


 誰かに運ばれている。


 そう感じて目を開けると、私は頭から全身にかけてしっかりとシーツを被せられ、硬い両腕に抱かれていた。


 目の前には閉じた上着の合わせ目があり、腿裏と背中に鱗の凹凸を感じる。小さな子どもがされる縦抱きの状況で、それを成せるだけの体躯の相手に運ばれているのだと分かった。


 地面は遠く、歩幅は広い。強く感じた腐葉土の香りに何度か瞬きをすると、頭の上の方から声がした。


「やぁやぁ起きたね、憤怒のレディ。よかった。購買まではもうすぐだよ」


 顔を上げると、鼻から首までマスクで覆った生徒の肩に、ポワゾンが乗っていた。生徒はフードの奥から赤い目で私を一瞥し、黙ったまま歩いている。


 私は咄嗟に両手に力を入れて口を隠したが、彼は見てしまっただろうか。


 血の気が引いて俯いてしまう。名前も知らない生徒の胸に顔を埋め、体を小さく小さく丸めながら。


 生徒は何も言わずに私を抱え直すと、厚い掌が背中を一度撫でてくれた。


 大きな手だ。爪が鋭い。それでいて、質感も私のものとは違う。あの空色のウサギ達とも、ポワゾンとも違う感じ。


 鼻を啜って彼の制服を見るとラインは赤色をしていた。赤はまだ何のクラスか分からない。


 私は再び顔を上げる。そこで相手の肌が灰色だと知った。男子生徒……で、合ってるよね。スラックスだし。人間ではなさそうなので自信ないな。


 赤い目も気づいたようにこちらを向いたので、下ろしてくれて大丈夫だと目で伝えてみる。しかし、伝わることはなかった。


 彼は歩き続ける。私は仕方なくシーツを握り直し、少しでも運びやすいように彼の方へ体重を預けた。腐葉土の香りは彼自身からするが、香水のような部類とは違う気がした。なんとなくだけど。


 色んな生徒がいるんだな、本当に。


 そんな中で守護者ゲネシスになって、火の耐性をつけられないまま倒れた私は、やっていけるのだろうか。


 純粋な不安で頭が下がる。普通に顔を、というか全身を火傷して、今日は死にかけたのではなかろうか。空色のウサギ達がいたのは保健室というやつかな。ガイン先生もスパルタ過ぎる。


 目を閉じて、私を運ぶ体に額を押し付ける。すると鱗のある手が落ちないように固定してくれた。


「憤怒のレディ、彼は人外の部類に入る子だ。驚いたかい?」


 ポワゾンの声を聞いて、私は灰色の生徒を見上げる。彼は真っすぐ前だけ向いていた。


 私は首を横に振る。肌の色が違っても、腕の形が違っても。尻尾が生えていようと、体が大きかろうと。


 彼はマスクをつけている。


 パンデモニウムに来て、初めて見た疑似的同類。


 私はウェストポーチからホワイトボードを出そうとしたが、シーツがあるので上手く動けない。だから生徒の二の腕辺りを見て、人差し指を伸ばした。


 制服越しに、彼の腕に文字を書く。目では伝えられない、今はジェスチャーも上手くできない。それでもこれは、伝えておきたい。


 〈安心した〉


 頭上のマスクの中で息が揺らいだ音を聞く。顔を上げた私は、赤い爬虫類のような目と視線が合った。


 口元をシーツで隠したまま、縦長の瞳孔を見つめる。ポワゾンは「なんて書いたんだい?」と尻尾を揺らすので、浮いた猫だぬきの背中にも同じ言葉を書いておいた。


「ははは、安心するのか。それはいいね。良い子に見つけてもらえたレディは幸運だ」


 確かに。


 私は数秒考えてから頷き、購買に辿りつく。灰色の彼は私を抱いたまま購買に入り、入口のすぐ横にマスクのコーナーができていた。


 灰色の人外に下ろされた私は、自然と彼の傍に寄ってしまう。やっと見つけたマスク族なのだ。近くにいて安心したい気持ちと、マスクの無い心許なさが漏れてしまった結果だろう。


 彼は尻尾を自分の足に巻きつけるだけで、私を突き飛ばしたりはしなかった。確認すると、尾はどことなく狼の雰囲気がある。図鑑でしか見たことないんだけど。狼だと思っていよう。


 巨木のような彼には腐葉土の香りもよく合っていた。圧倒的安心感。これまで一切喋っていないのも大変嬉しい。


 きっとポワゾンが何か言ったのだろうが、それを律儀に守ってくれる同級生に警戒心はなかった。なんならあらゆる種類のマスクを取り揃えている購買の方がちょっと怖い。我ながらワガママな客だ。


「さてさて、繊細なレディ。どのマスクにしておく?」


 私はゆとりの生まれたシーツからホワイトボードを取り出し、片手にペンを持つ。もう片手は口元を隠し続けているのでボードは床に置き、必要な要素を書き出した。


 〈耐火性 息がしやすいやつ〉


「レディ、私が言うことではないと思うんだけどね、それでいいのかい? 一番適性があるのは防毒マスクとかになってしまいそうだけど」


 ポワゾンが尻尾から伸ばした煙で数個のマスクを下ろしてくれる。黒い革製のものだったり硬い素材のものだったり。口元にゆとりがあって、空気洗浄装置のついたゴツいマスクたちだ。まさしく防毒、もしくはガスマスク。


 別にこれでもいいと思ったけど「オススメしたくないなぁ」とポワゾンがごねるので、別の耐火性マスクも見せてもらった。やはり革製のものが多く、火属性の魔術と相性のいいものを使っているらしい。


 私はその中で、黒く伸縮性のあるマスクを選んだ。耐火性はもちろんあるが、軽量化もされており、顔につけた時の圧迫感がほぼない。伸縮性が最大限に生かされて、つけた者の顔に合うようになっているとか。


 口周りは余裕があって、息もしやすい。後頭部で金具留めできるところもポイントが高いね。


 私は代金を払い、マスクをつけて、やっと息を吐く。肩までずれたシーツを適当に畳んで腕にかけると、ずっと見ていてくれた灰色の彼と目が合った。


 なんとも良い人。良い人外。私が傍でマスクを選んだのが問題だったのだろうが、文句の視線を投げることもなく、凪いだ空気で立っていてくれるとは。


 私はホワイトボードを持ったが、それはウェストポーチにしまった。代わりに彼の手を指さし、意を汲んでくれた鱗の手が差し出される。


 左手で彼の手の甲を支え、肉厚な掌に右の人差し指を置く。安心した気持ちが、ちゃんと伝わりますように。


 〈ありがとうございました 貴方のおかげで とても助かりました〉


 書き終わって彼を見上げると、縦長の瞳孔が静かに伏せられた。


 頷いた彼は先に購買を出てしまい、後には腐葉土の香りだけが残る。


 新しいマスクの中で息をつき、ふわふわしていたポワゾンの背中にもお礼を書く。くすぐったそうに笑った猫だぬきは器用にウインクしてみせた。


「気にしなくていいさ。私も教職員の端くれだからね、生徒の役に立ってなんぼと言うやつだよ」


 ……。


 私はポワゾンを捕まえて、腕に抱いた。顎の下を撫でればゴロゴロと喉を鳴らし始めたので、なんとも易い教職員様だ。


 指の埋まる毛を整えながら顔から力を抜いていると、購買の扉が勢いよく開かれた。


「あ! 名無しちゃんいた! マスクしてる!! よかった!」


「うるさいぞ、ガイン。購買では静かにしておくれ」


 肩で息をするガイン先生。彼はその場にしゃがみ込み、乱れた毛先を撫でている。


「俺は捜索系の応用魔術が苦手だからさぁ……良かったよ、名無しちゃんに何事もなくて。投身自殺でもされたらどうしようかって心配してたから」


 緩み切ったガイン先生の顔からポワゾンへ視線を移す。やれやれと空気で示した猫だぬきは、ここまでの経緯を端的に口頭説明し、ガイン先生は冷や汗をかいていた。


「ごめん名無しちゃん、そんなにマスクが大事だとは正直思ってなかった」


「しっかりしておくれよ担任」


「助かったよポワゾン。それじゃあ、ここまで続いていたは、運んでくれた彼のものだね」


 続いていた道とは。


 私は首を傾げ、ガイン先生は購買の外を指す。


 そこは青い芝の茂った地面なのだが、一部の芝が枯れていた。真っすぐと、校舎に繋がる道筋で。


 脳裏に灰色の彼が浮かび、鼻の奥では、腐葉土の香りが残っていた。


 ***


 耐火性のマスクも靴も身につけて、容赦なく再開された体づくりの授業。


 私は滝の汗を流しながら火の海の中に立ち、頭痛と嘔吐感に苛まれていた。


「赤色のラインの子なら虚栄のクラス、アデルの守護者ゲネシス候補だろうね」


 ガイン先生は同じ火の海に立っても汗一つかかないし、靴もコートも燃えない。私は曲がっていた背中を伸ばして空を見上げ、創られた青天に眩暈がした。


「今年はどのクラスも特出してる子がいるって聞くから、守護者ゲネシスが決まるのは早いんじゃないかな」


 空の青さと雲の白さはどこの世界でも変わらないのか。歪み始めた視界では青と白が混ざってよく分からないことになり、ガイン先生の声も遠くなってきた。


「はい、耐久時間終了~」


 そんな声と共に火の海が消え去り、体が後ろへ傾く。ガイン先生は地面にぶつかる前に背中を支え、私を横向きに寝かせてくれた。


「今度は倒れず立ち続けたね。偉い偉い」


 なんて雑な褒め方だろう。


 ガイン先生は立てた指先に水球をつくり、私の顔に向かって滴らせる。簡易的な雨というかシャワーというかに目を瞑れば、マスクが水を吸って溺れるかと思った。散々である。


 飛び起きた私は俯いてマスクが吸った水を落とす。革製の素材を指先で絞っていると、隣にガイン先生が座った。


「外して絞ればいいのに」


 外さないよ。


 私はグラウンドの土を指で抉ってガイン先生に投げつける。ケラケラと笑う先生は小さな風で土を巻き上げてしまい、本人は微塵も汚れなかった。


 風が私のマスクを撫でて水を吸い取っていく。軽くなったマスクに息を吐くと、体全体が重たくなった。


「喋る奴は嫌いかい?」


 紫の瞳が弧を描く。宝石のような輝きを内包して。


 好き嫌いという問題ではない。喋ることが悪いことだから、私は罰を与えるのだ。


 私は近くの石を拾って考えを地面に綴る。ガイン先生は「そっかぁ」と笑い、後ろに手をついていた。


「ねぇ名無しちゃん、魔術が使えるようになったら何がしたい?」


 突拍子もない質問のせいで眉間に力が入る。ガイン先生は軽薄な態度で私の眉間を撫でた。やめて。


「俺の目標は君を立派な守護者ゲネシスにして、憤怒のライラを孵化させること。でも君にまで、今すぐ同じ志を持てなんて言えないだろう? 勿論いつかは持ってほしいけど」


 ガイン先生はウェストポーチを指先で叩く。私は肩を下げながら息を吐き、先生の考えを聞いていた。私と同じように地面にでも書いてくれたらいいのに。


「だからまずは、簡単で、実行可能な目標を立ててみるのが良いと思ってね。その方がやる気とか張りが出てくるだろう?」


 先生の言葉には、一理あった。


 どうせ私は志も目標も、大望もなくこの場にいる。罰としてクラスメイトを殴った結果、守護者ゲネシスに選ばれてしまったわけだし。


 ……あの中に、守護者ゲネシスになりたいと思っていた子はいたのだろうか。


 今では教室も分かれて、私とは違う流れで授業を受けていると聞く元候補者の子達。その子達がもしも守護者ゲネシスという夢を描いていても、私は初日に砕いたのだ。


 そんな私が何も思わず、何も考えず、やる気もなく授業を受けるのは……違うよね。


 私はウェストポーチからライラを出し、胡坐をかいた足に収める。汗をかいた両腕で抱けば、今日もライラは温かく拍動していた。


 ガイン先生に聞きたいことがある。もっと普通に意思疎通ができたらいいのにと思う。


 元クラスメイト達は元気ですか。怒っていますか。傷は治りましたか。


 ジェスチャーでは伝わらないし、視線でも汲み取ってもらえない。でも、いちいち地面やホワイトボードに書くのも手間なのだ。


 私はもっと、ちゃんとコミュニケーションが取れるようになりたい。喋らない方法で。


 だから、直近の目標はこれにしよう。


 〈火か 火の粉で 文字が書けるようになりたいです〉


 地面に書いて先生を見る。彼は私の文字を追い、屈託なく笑っていた。


「了解! 精密な操作とか火の具現化がいる高度魔術だけど、名無しちゃんなら大丈夫さ! 頑張ろうね!」


 ……はぁぁ。


 私は地面に書いた文字を踏み消したい気分になりながら、ライラの殻に頬を乗せた。


――――――――――――――――――――


名無しちゃんの目標が決まった所で、本年の更新は終了になります。

次話更新は1月3日(水)です。

皆様、良い年末年始をお過ごしくださいませ。

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