鍛錬と不安定


 魔術だとか魔法だとか、不思議な力は絵物語で読んだことがある。絵だけで構成された本を捲って物語を想像し、自分なりに解釈するのが好きだった。


 かつてはあらゆる言葉を綴った本が数多く出回っていたと授業で習ったが、思想の偏りなどを理由に先代達が封じたとも教わった。なので私は選定された教科書か絵物語の本しか捲ったことがないし、それが普通だと思っている。おそらくこの感覚をガイン先生に話しても哀れんだ視線を向けられるだけなのだろうけど。


 閑話休題。


 私が読んだ絵物語では、掌から火が出たり、水が浮き上がったりと、それはそれはキラキラと楽しそうな絵が描かれていた。実際には不可能だけど、幼心に夢と希望を膨らませたものだ。


 そう、私は魔術に夢と希望を持っていた。少なからず。忘れていた保育園時代の記憶を掘り起こして。


 輝くような夢と、希望を。


「は~い、まだまだ火と友達になれてないよ~、集中して集中!」


 広いグラウンドにガイン先生の声が響く。私の全身から汗が流れる。


 黒い半袖Tシャツとグレーの指定ジャージに着替え、髪をお団子に結い、膝下まであるゴツい耐火靴を履かされた現在。


 足元から半径三mは火の海となり、私はそこに立たされていた。


 魔術の授業として最初に始まったのは、体づくり。


 なんでも、


『火の熱さを感じているうちは火の魔術を使うなんて危ないからね! まずは火の海で汗かかないくらいになろうね~』


 らしい。


 元から魔術を理解している異界の生徒ならばともかく、私はしていない異界の者なので、体づくりは力を入れて行っていくそうだ。


 何を始めるにしても、それに適した体というのがある。火を扱う者が火を恐れたり火傷していては世話ないという話だ。


 同じように、水を扱う者は激流の中でも流されないようにする。

 木を扱う者は付随する樹枝から花粉まで抱き締められなくてはいけない。

 土を扱う者が泥だらけになるなんてみっともない。

 風を扱う者が竜巻に吹き飛ばされるなんて論外。

 空に関しては時空という概念的要素を理解し掌握するべし。


 頭では理解できる。理屈は分かる。


 だがしかし、私は別に魔術を使えるようになりたいとか、立派な守護者ゲネシスになりたいとか、大きなことを成し遂げたいという大望を持ってパンデモニウムに在籍している訳ではないのだ。


 なんなら誘拐されてきた。説明も転校手続きも何もないまま、雑音と嫌悪の学園に放り込まれたのだ。


 そこで、こんな仕打ちに耐える意味が、どこにあるのか。


 肩で息をしながらガイン先生を睨む。全身から汗が噴き出して止まらないし、前髪はぐしゃぐしゃのべとべとで額に張り付いてるし、肌が焦げてる気がして眩暈もする。


「お、」


 ガイン先生が満面の笑みを浮かべたが、その姿は歪み、膝から力が抜けた。


 気づけば体は前に傾き、目の前に火が迫る。


 顔全体に激痛を感じて唇を噛み切った瞬間、私の意識はブラックアウトした。


 ***


「全身火傷したのに叫ばないって、名無しちゃんも胆力あるよね~」


 火の化け物に追いかけられる悪夢から覚めると、そこは純白のベッドの上だった。


 布をたっぷり使った天蓋に守られ、体が沈むマットレスは雲のよう。さらりとした掛布団の手触りに一瞬だけ天国を想像したが、視界の端にいた紫の髪で覚めない悪夢だと突き付けられた。


 傍の椅子に腰かけていたガイン先生は私を覗き込み、綺麗な髪が肩を滑る。私は自然と瞬きを繰り返し、違和感のある口元に触れた。


 マスクがない。


 マスク、してない。


 ……え。


 脊髄反射で飛び起きた瞬間、ガイン先生が何か言ったが耳には入ってこなかった。


 マスク、マスク、マスクどこ。口、隠さなきゃ。隠す、隠さないと駄目、マスク、マスク、マスクマスクマスクマスクッ


 上質なベッドを飛びおりて枕元にあったチェストからベッドの下まで探す。周囲を覆った天蓋もひるがし、マットレスも持ち上げ、枕も床に放り投げた。なんなら枕の中にないかどうかも殴って確かめた。


 しかし、無い。


 マスクが無い。どこにも無い。


 食事の時間でもないのに、一人の時間でもないのに、私はマスクをしていない。


 その事実に、奥歯が鳴った。かちかちと、がちがちと。


 自分ではどうすることもできない震えによって固い音が起こり、耳の奥で響いている。なんとか止めようと両手で口を覆い、目は一心にマスクを探し続けた。


 無い、無い、どこにも無い。どうして、なんで、無い、無い、無いと困るのに。駄目なのに。マスク、私のマスク、口を、口を、隠していないとッ


 脳裏に浮かんだのは、体育の授業中にマスクを外した男の子の姿。


 ハードル走を終えて、天気もいい日で、みんな汗をかいていた。


 その中で一人木陰でマスクを外した人がいた。クラスは違った。中学校も違って、高校から一緒になったから、彼がどんな人かなんて知らなかった。


 外したマスクの下の汗を拭った男の子は、私と目が合うと、悪戯っぽく笑って――


 殴られる音がした。


 肩が反射で大きく震えた。


 クラスメイトに殴られて、体育の先生に連れていかれた彼は、額から血を流していたから。


 私は自分の口を塞いだままうずくまり、背中を丸め、解けていた毛先が床に落ちた。


「名無しちゃん、聞こえるかい?」


 ふわりと温かい手が背中に添えられて顔を上げる。そこには眉を下げたガイン先生が膝を着いており、彼の背後からは長い耳が四つ覗いた。


「火傷は治したけど精神がまだ不安定なのだね」


「困った困ったなのだね」


 ガイン先生と私の間に入ったのは、空色のウサギ。一羽のウサギは立ち耳で、一羽のウサギは垂れ耳。二足歩行をしているもふもふ。大きな白衣を着て、額には薄緑色の宝石が埋め込まれている。


 跳ねるように歩く二羽は私の周りをうろちょろすると、毛深い手で背中を撫でた。


「ガイン、この子の探し物が欲しいのだね」


「ガイン、優しく優しくなのだね」


 立ち耳の方が声が低く、垂れ耳の方が声が高い。しゃがんでいるせいで小柄な二羽とは口も近く、私は両サイドから言葉を浴びる羽目になった。


 頭が痛くなってくる。聞きたくない。こんな近くで、喋り声なんて聞きたくないのに。


 私はベッドのシーツを引きずり落とし、頭から被って口を隠す。それでもマスクをしていない事実は変わらず、狭くした視界では眉を下げたガイン先生が笑っていた。


「いやぁ、それがさぁ……名無しちゃんが探してるマスク、耐火性じゃなかったから……」


「あぁ、アレは顔から剥がすのが大変だったのだね」


「痛い痛いだったのだね」


 頷くウサギ達と、頬を掻くガイン先生。


 差し出されたのは、ふちが歪んだ灰色のマスク。


 私の喉は潰された如く締まり、ガイン先生の声が鼓膜を揺らした。


「マスク、溶けちゃった」


 嘘だ。


 嘘だ。


 あぁぁ嘘だッ


 柔らかな空色の手を振り払い、ガイン先生からマスクを奪い取る。それは完全に形を変え、マスクの原型を留めていなかった。


 これでは使えない、これでは口を隠せない。こんな、こんなの、あんまりだ!


 隠さないと、マスクをつけないと。殴られる。怒られる。罰せられる。悪い人になってしまう。


 背中に痛みと疼きが広がって、体中から冷や汗が噴き出す。内臓が震えて、痛んで、呼吸の仕方が分からなくなった。


 駄目だ、駄目だ。このままじゃ、駄目だ。


 私はサイドテーブルに置かれていたウェストポーチを持ち、シーツで体と口を隠したまま駆け出した。


 ガイン先生達の声を聞き取らない。何も聞こえないし聞きたくない。早く購買に行って早く新しいマスクを買って早く口元を、早く、早く、もっと早くッ


 初めて見る廊下。初めて見る景色。パンデモニウムは広いから、私はまだ校舎を全て回れていない。だから長い廊下を直感で曲がり続け、走って、ぐるぐるして、眩暈がして、両目から涙が溢れてしまった。


 嫌だ、嫌だ、違う、違うんだ。私は自分の意思で外したわけじゃない。不可抗力だ。ごめんなさい。食事と一人以外の時に外してごめんなさい。ごめんなさい。違うんです。私は喋ろうとしたわけじゃない。悪い人になろうとしたわけじゃない。違う、ごめんなさい、違うんです。怒らないで、殴らないで、違う、違う、私はちゃんといい子だから。


『  』


 あの時とは違う。もう違う。違う、違う、違うからッ


 焦った私はポワゾンを思い出し、ウェストポーチから金の鈴を取り出した。


 大きく振って、膝が揺れる。鈴の音は涼やかに木霊し、私の足から力が抜けた。しゃがみこんで、震えて、片手で必死に口を押さえつけて。


 震える手の中では金の鈴が心許なく揺れている。両目からは大粒の涙がうだり、どうしてこんなに不安な目に合わなければいけないのかと、喉の奥が痛みを覚えた。


「まさか店外から呼ばれることがあるとは、何事かな?」


 私の前には白い煙溜まりができ、形作られたのは猫だぬき。白い尾をしなやかに揺らしたポワゾンは、私の様子を見て目を丸くしていた。


「おやおや憤怒のレディ、どうしたんだい。どこか痛むのかい? ガインはどうしたんだい? 君の担任だろう」


 ポワゾンは私の肩に乗って目元を舐める。柔らかく太い尻尾は何度も額を撫で、私は力いっぱい唇を噛み締めた。そうすることで、ポワゾンも私がマスクをしていないことに気づいたらしい。


「マスクがないね。壊れてしまったのかな?」


 察しのいいポワゾンに何度も頷き、その度に涙が床に染みる。私は震える手で鈴をしまい、固く握ったシーツで口元を覆い続けた。


 マスクをしていない私をポワゾンは叱ることなく、殴ることなく、穏やかに尻尾で撫で続ける。その行為に私の涙は溢れてしまい、呼吸が浅く早くなった。


「レディ、レディ、憤怒のレディ。呼吸が早いよ、聞いているかい? うぅむこれは……」


 ポワゾンの声が遠くなる。私は壁に体を預け、小刻みに震える奥歯を噛み締めた。声が漏れないように、罪を犯さないように。


 そんな私の前に――ブーツの爪先が見えた。


 黒いスラックスに、揺れたのは銀色の尻尾。きっちりと留められた上着の袖は大きく、鱗のついた鋭い両手が覗いている。


 ゆっくり顔を上げると、布製のマスクで鼻から首まで隠した、巨体の生徒がいた。


 深くフードを被った頭部は、人間の頭にはない形で盛り上がっている。その腰から生えた尻尾や両手を見るだけでも異形だと分かり、私の前にポワゾンが降り立った。


 腐葉土に似た香りがする。ポワゾンの尻尾が動き、私の顔が下がっていく。


 私はそのまま床に崩れ、整わない呼吸のせいで、本日二度目のブラックアウトを経験した。

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