鬱憤と地図
『君が半殺しにしたクラスメイト達は
などと担任教師――ガイン先生は喋り、私は寮の部屋に戻された。赤紫色の卵と共に。
静けさが満ちた室内で、立ち尽くしたまま頭痛に耐える。眉に力を入れ、マスクの中で唇を噛みながら。
腕の中の卵からはじわりと滲む熱を感じた。あまりの状況に置いてけぼりの私は、卵――ライラに意識を向け、滑らかな表面を撫でてみる。そうしていれば段々と胸につっかえを感じ、目尻が熱を帯びてきた。
ライラをベッドに置いて、部屋を出る時に開けたカーテンを再び閉める。
外部から完全に切り離した室内で、私は灰色のマスクを外した。
一気に呼吸がしやすくなり、何度も肩を上下させる。勢いよくベッドに座ればライラが傾き、倒れ、私の方へ転がってきた。
卵に目はない。ここには私と卵だけ。だからマスクを外していたって、食事をしていなくたって、誰も怒りはしないから。
私の視界が一気に歪み、鼻の奥が詰まってしまう。唇を噛み締めてライラに触れれば、つるりとした表面に水滴が落ちた。
必死に奥歯を合わせて両目から落ちる涙を見つめる。ライラを濡らす水滴は外殻を滑ってベッドまで落ち、私の呼吸は荒くなった。
息苦しさで開いた口で指を噛み、声を出さないよう顎に力を入れる。ベッドに上半身を崩し、深い呼吸をすればするほど、涙が止まらなくなってしまった。
なんで、なんで喋るのさ。なんで喋ってるのさ。異界ってなんなの。なんで私が選ばれたの。
ふざけてる、ふざけてる。ならこの場では、喋る奴を罰する私の方が悪いのか。喋ってる奴が正しくなるのか。どうして、なんで、なんで、なんでッ
私は、ちゃんと、喋らず、今日までやってきたのにッ!!
肺に溜まった感情すら吐き出せない。吐き出しては駄目だと教えられてきたから。我慢するのが正しくて、泣く時だって嗚咽を噛み締めなければ殴られる。
何よりも、どんなことよりも、声を発することが大罪だ。歓喜も悲劇も飲み込まなくては罰を受ける。殴られても仕方ないって示される。
背中が痛い。背中が痛い。
背中が、焼けるように、痛いから。
〈酷い有様だこと〉
ふと、視界に薄紫の文字が入り込む。反射的に顔を上げると、卵のライラから煙のような粒子が舞っていた。
――今日見せられてきた事象は、手品ではないと教えられた。
魔術と呼ぶべき力であり、この世界では普通の現象なのだと。魔術を使うための魔力が高いほど高位な存在となり、六体の
そんなライラの
私は瞬きを繰り返し、顔の前に滑り込んだ薄紫の文字が歪む。文字は直ぐに別の文字列となった。
〈貴方の怒りを感じて少し起きられたの ありがとう 新しい
文章を目で追いかけ、首を横に振る。下ろした毛先は背中を滑り、簪の飾りが小さく鳴った。
〈私が起きていられるのもまだ少しだけ ねぇ
憤怒の印象が全くない文章に肩から力が抜ける。もしも今、酷く強い言葉をかけられたならば、私はこの卵を叩き割っていたことだろう。
私は文字に従ってライラを抱く。温かな殻に息を吐くと、瞼に残っていた水滴がライラに落ちた。
〈熱い涙ね 私好みだわ
名前なんて、私にはない。私の世界で名前を持っている人間なんて存在しない。だって呼ぶ場面がないのだから。
あるのは生まれた時につけられる番号だけ。その番号を使うのだってテストの時か、書類を出す時くらいだよ。
人名というものがかつて存在したとは教わった。今だって食べ物や道具にはもちろん名前がある。私達が頭の中で思考する為に。
だが人間相手には必要ない。顔や体型を見て目を合わせれば「用事がある」と伝わるのだから。後はサインとジェスチャー、視線で事足りる。
私はライラに向かって再び首を横に振る。文字は〈名前がないのね〉と歪み、浮かび、私の鼻先をかすめていった。暗い部屋の中で、卵と文字だけは柔らかく輝いている。
〈ならば私の
それは、なんの予兆もなく。
ライラの文字が急に綻び、煙の如く消えてしまった。
私は何度か卵を撫でてみたが、どうやら眠ってしまったようだ。さっきも少し起きられたと書いていたので、普段は眠っていることが多いのだろう。卵だし。
私はショートブーツを脱いでベッドに横になり、ライラを抱えて目を閉じた。
さっきのライラは、私に名前でもつけようとしていたのかな。そんなことされても困るのに。
名前なんていらない。そんなものを与えられたところで、私は私を呼ぶ者を許せないから。呼んで欲しくないんだから。
長ったらしい数字が私を表す記号。それも、もうこの世界では使われない。
だから私は名無しでいい。名前の無い女でいい。
誰も私を呼ばないで。喋っても許される世界だとしても、誰も私に喋りかけないで。私がいる場所で口を開かないで。
私は喋る誰かを許せないから。許してはいけないと教わって育ってしまったから。
喋ることは駄目なこと。怖いこと。痛いこと。
喋ってはいけない。口を開いてはいけない。声をかけてはいけない。
そんなことをしてしまえば、罰せられる理由を与えてしまう。
喋った誰かを見つければ、必ず罰を与えなくてはいけない。
その義務を放棄したら、今度は私が痛い目にあうから。
喋る人を許してはいけない、見逃してはいけない。罰しなさい、罰しなさい。痛い思いをしたくなければ、正しい人でありたいならば、迷わず鈍器を振り下ろしなさい。
それが、この世界では……パンデモニウムでは、許されない……?
私は背中の疼きを見ないふりして、固く固く、瞼を閉じた。
***
「はーい、それではオリエンテーションを始めるよ!」
翌日も私の夢は覚めなかった。
おかしな世界のおかしな部屋で目覚めて、おかしな卵を運び、知らない教室で着席している。朝食は部屋に放り込まれた栄養バーのような物だった。警戒よりも空腹に負けて食べたので体調が悪くならないことを祈っている。
昨日は十二席あった教室だが、今日は一組の机と椅子しか残されていなかった。床は綺麗に掃除され、様々な色が混ざって黒くなった痕跡もない。
そんな教室の中で、私は今日もガイン先生を殴れないでいた。
この教師、私が教室に入るなりライラの卵を回収した。そこは別にいいのだが、その後だ。
私の両手首が長い紐に拘束されたかと思えば、職人も驚く早さで肘までぐるぐる巻きにされてしまった。両腕をギプスで一緒くたに固定されたのと同じである。これはもう守護者というより囚人ではなかろうか。
私がガイン先生を睨めば、彼はあっけらかんと笑うのだ。
「まず名無しちゃんは俺を殴ろうとするのをやめましょ〜。そのポテンシャルは素晴らしいけど、俺だって殴られるのは嫌だからね!」
拘束されて授業を受けるなんて最悪でしかない。板書も何もできないではないか。まず私は授業に必要な備品を一つとして所持していないんですけど。
ガイン先生はやはりマスクをつけていないし、普通に喋っている。悪夢は覚めることなく継続している。滑らかに動く唇に鳥肌が立ち、こめかみが痛んだ。
そんな私を気にすることなく、ガイン先生はライラを教卓に置き、ホワイトボードのような壁をノックした。
炎と共に現れたのは昨日と少しだけ違う地図。私は視線を移動させ、ハチの巣を外から見たような図に瞬きした。頭に響くガイン先生の声には寒気がする。
「それじゃ、パンデモニウムの紹介を始めるよ。本当は昨日やろうと思ってたんだけどね、名無しちゃんが暴れるからさー。ま! このクラスはもう
その口閉じてくれないか。地図さえ出してもらえば後は理解するから。
私は視線で訴えたが、ガイン先生はへらへら笑っているだけだ。紫の毛先を揺らし、愉快な顔で口頭説明を始める。
ハンドサインで十分だと思うんです。鳥肌が立つので即刻やめてください。なんて訴えても伝わらない……。
「パンデモニウムは学園の名前であり、俺達の国の名でもある。我が国はいくつかの層で出来た造りをしていてね。各階層を説明していくよ!」
ガイン先生の指が動き、地図が変形する。ハチの巣を思わせる図は横に輪切りにされ、一番下の部分だけが取り出された。動く地図も魔術ですか、そうですか。
「一番下から第一階層、一般居住区エリア。ここには俺達「魔族」と呼ばれる奴らが住んでるよ。名無しちゃんの世界にはいなかった姿ばかりだけど怖がらないでね。みんな気はいい連中さ」
ウインクしたガイン先生に目を
地図に目を戻せば、ほぼ同じ形をした家々が密集した巨大な都市が紹介された。「ここら辺が暗いとこ好きな奴で、こっちら辺は体の大きい奴が住んでるね~」とガイン先生は指をさすが、そんなの書き込めば十分だと思うわけである。
「次は第二階層、娯楽エリア。買い物したり遊んだり、まぁ色々な娯楽が揃ったエリアだよ。名無しちゃん達もここへ買い物に行けるし、校外学習とかもあるし、楽しい場所だって覚えておいてよ!」
抜き出されたのは下から二段目。娯楽エリアとされた場所にはあらゆる建物が乱立しているが、サインや看板は少なかった。
ここが喋ることを禁止していない世界ならば、かつての私の世界のように、言葉が飛び交っているのだろう。
想像するだけで体が震え、拘束された掌に汗をかいた。
「第三階層はここ、校舎エリア。
第三階層が、今の場所。ならば上にも階がある訳だが、どうしてだか空は見える。今日は晴天だ。
私が窓の外に視線を向ければ、その意図をガイン先生は汲み取った。初めての意思疎通である。
「各階層の天気はランダムに変わる魔術がかかっているのさ。
口角を上げている先生は「凄いよねぇ」とこぼす。彼の目は、本当に尊敬の念を抱いていた。
伝えるなら目で語ればいい。体を動かして表現したらいい。どうしても伝わらなければ文字に書いてしまえばいい。
そうして手段は山程あるのに、この世界に生きる人達……いや、魔族達は、「喋る」ことを捨てなかったのだ。
私の世界とは違う。一度壊れた歴史がある私の世界は、喋ることの危険性を、悪意を、継承してきたのだから。
また、背中が痛い。
私は微かに顎を引き、ガイン先生の隣で地図が動いた。
「第四階層は歴史のエリア。
笑うガイン先生は顎に手を添えると、「これより上の階は追々にしよう」と話を終了した。
私は肩から力を抜き、疲れた耳に嫌気がさす。どうかこのまま一生喋らないで、と思うのに、そう願う私の方がこの世界では間違っているのか、と目を伏せた。
なんでさ。なんで私の方が悪くなるのさ。
殴れって言われて育ったのに。
罰しろって、誰もが指さしてきた行為をしているだけなのに。
どうして私が、悪いんだ。
教卓に置かれたライラが揺れる。その様子にガイン先生は瞬きし、弓なりに唇を歪めた。気持ち悪い。
「どうやら君は、ライラと相性がいいらしいね」
そんなの知ったこっちゃないが、筆談に分類できる何かで語りかけてくるライラが、この世界では唯一マシに思えているから。
私はライラに視線を向け、揺れた卵に眉を寄せた。
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