制服と教室

 じわりと。


 瞼の裏に光を感じて意識が浮上する。震えた瞼を持ち上げる。


 一番に目についたのは黒い窓枠と、薄い雲のかかった空。


 何度か瞬きを繰り返して視線を動かすと、自分がベッドに寝かされていると理解できた。


 シングルサイズのベッドで体を起こし、ヘッドボードに置かれているランプが光の正体だと知る。手で持てる形状のランプは中に蝋燭などが入っておらず、赤々とした炎だけが浮いていた。


 どういう原理かとランプを持ち上げると、部屋全体に明かりがついた。ランプ以外に光源になりそうな物はないのに。不思議だ。私が知らない最先端の技術がこの部屋には搭載されているのだろうな。


 八畳ほどの部屋には深い紫の絨毯が敷かれ、黒い光沢の机と椅子が一組ある。机上にはモーニングスターが抜き身で置かれており、私は口元のマスクを撫でた。


 朧げな記憶に浮かんだのは、マスクをつけていない男。紫の毛先を遊ばせて、一部の長い髪を前に垂らして結った人。


 私は……彼に、誘拐されたのだろうか。だが拘束も何もされてないし、モーニングスターだって壊されていない。分からないことだらけだ。


 音を殺してベッドから足を下ろすと、ランプの炎が入れ物から。まるで煙のように、しなやかに燃えながら。


 突然の現象に体を固めていれば、細い紐状の炎がうねり、形を変え、空中で整ってみせる。


 なにこれ。手品? 仕掛けは? マジシャンはどこ。駄目だサッパリ分からない。


 半ば思考を放棄しながら空になったランプをヘッドボードに戻す。意識的に瞬きを繰り返しても炎は宙に浮いたままだ。まるで文章のようだが、何を書いているのかは分からない。


 そう、分からないはずだった。


 見たこともない文字列が一瞬ぼやけて、次の瞬きで鮮明になる。かと思えば、私は炎の文章がなっていた。


 文章の構成や文字自体は私が学んできたものとは全く違う。その点は変わらない。しかし。炎の文字が綴った意味が伝わってくる。頭は追いついていないのに、目は炎を言語として認識しているのだ。


 ……知らない部屋で目覚めて数分。理解できないことだらけのせいで軽く頭痛がしてきた。読めて理解できても、意図は全く読めないのだから。


 〈おはようございます、出席番号六番。クローゼットの中に制服を準備しています。着替えて次の鐘が鳴るまで待機してください〉


 私の出席番号、六番ではないのだが。


 浮いている文字の上下左右に手を差し込んだが、種も仕掛けも見つけられない。部屋中を歩き回ったが監視カメラのような物もないし、二つある扉は片方だけ開いた。そこは綺麗な洗面所、奥には広々としたバスルーム。もう一つの扉は外に繋がっている気がしたが、ドアノブは回らなかった。


 致し方なく黒いクローゼットを開けると、一組の服が入っている。床には革製のロングブーツとショートブーツが並び、モーニングスターの袋まで準備されていた。


 ……なにこれ。


 意味が分からなくて身震いする。


 これ、着替えないといけないの? 知らない場所で、知らない部屋で、知らない服に? ……怖すぎる。


 なんとなくカーテンを閉めてから準備された服を確認すると、どれも手触りのいい生地で仕立てられていた。


 濃いグレーのワイシャツに黒い革製のショートパンツ。靴下はくるぶし・ニーハイソックス・ストッキングで選べるらしい。どの色も黒だったのでニーハイを選択し、えらくピッタリのサイズに鳥肌が立った。


 肌触りのいいワイシャツを整え、膝丈のコートを羽織る。見かけによらず軽い着心地のコートには大きめのポケットがついており、袖と襟、ファスナーの合わせ目には濃い紫のラインが入っていた。


 私はポケットに両手を突っ込み、息を吐く。


 で、どうするのさ。


 モーニングスターを袋に入れて肩に担ぐ。ヘッド部分を保護する袋や整備用の布まで準備されていて本当に気味が悪い。なにここって、思うのは何回目だっけ。頭痛が酷くなっている気がする。薬、は、流石にないか。こんな部屋にある薬なんて怖くて飲めないし。


 ベッドに腰かけて深呼吸していると、前置きなく低く厳かな鐘が鳴り、浮いたままだった炎の文字が変形した。


 〈部屋を出て右へ直進し、左に見える渡り廊下を渡ってください。渡った建物の五階へ移動し、紫の扉の教室へ入室してください。席は廊下側から三列目。一番目の席です〉


 説明が足りなさ過ぎる。


 行動を示されても、そうしなければいけない意味が分からない。この文章を作った人は心遣いができないのだろうか。絶対教員免許なんて持ってない。先生ではない人間が言葉を操るのは重罪だと知っているだろうに。


 だが、そんな重罪を犯す相手だ。指示に従わなければ何をされるかも分からない。


 意を決した私は開かなかった扉に触れる。手元からは小さな開錠音がして、すんなりとドアノブが回った。……なんで。


 不安を押し潰しながら言われた通りの経路を移動する。今いるのはどうやら二階らしく、外は相変わらず薄く曇っていた。おかげで今が何時かも分からない。


 渡り廊下にさしかかると冷たい風がこめかみを撫でた。下ろしたままだった髪が靡き、簪を無くしたと思い出す。……あの男に刺したままだったっけ。


 強い頭痛がして、気分も下がったところで肩が叩かれる。


 見ると、耳の尖った少女が立っていた。


 ワイシャツの襟を開き、豊満な胸元や張りのある太腿がよく見える制服の着こなしをしている。頭についている羊みたいな角は飾りかな。よく出来ている。耳の尖りはそういう遺伝変異かな。それとも全部コスプレ? 肌が白いな。金髪だ。目も金色。なんだか甘い匂いがした気がする。


 などと、私が彼女の特徴を数秒で把握する間に、嫌悪が肌を刺激した。


 何故なら彼女は――マスクをつけていなかったから。


 口元を露わにしている少女に鳥肌を覚え、後頭部で警鐘が鳴る。


 染めたのか地毛なのか分からない金髪を耳にかけた彼女は、目元を染めて笑っていた。


「はじめましてぇ、貴方のその制服の色、多分一緒のクラスよね? 仲良くしましょ~」


 彼女の唇が動き、艶のある声が鼓膜を撫でる。


 言葉が私の耳を犯す。


 全身から脂汗が滲んだ私は、担いだ袋のチャックを開けた。


 ***


 こめかみが痛い。


 眉間から広がっていた頭痛が側頭部まで広がってしまった。揉んでも何をしても痛みが取れない。最悪。痛い。自然と目つきも悪くなる。


 それもこれも、マスクをしていないコスプレ少女のせいだ。


 なんだここ、ほんとに何。なんでマスクつけてない人が普通に歩いてるの。怖い。めちゃくちゃ怖い。意味が分からなくて怖い。コスプレしてる人がいるのはその人の自由だからいいけどさ、マスクしてないのは駄目だろ。


 血振りしたモーニングスターを握り締め、頭痛のせいで気分が下がり続ける。ショートブーツのヒールを鳴らして歩けば紫の扉に辿り着いてしまい、治まっていない動悸のせいで肩が震えた。


 この先には、どうか、現状を理解させてくれる何かがありますように……。


 胸の奥底で願い、大きいのに開けやすかった扉をスライドさせると――私の耳が一気に侵食された。


「まさかこんな場所に招待されるとはなぁ」「これって夢? 夢じゃないの? えぇぇ……」「うわ! その耳ホンモノ!? 触ってもいい!?」「やめろ触るな近づくな」「なんか薄暗くてやる気でなーい」「君って人族? うわ、うわ、初めて見た」「ぇ……っと……そういう、君は? その、肌の色……なに?」


 教室だと思われる場所に溢れている声、声、喋り声。


 獅子が二足歩行している。頭にねじれた角が生えた何かがいる。肌が青色の奴がいる。コスプレ大会にしても精度が高すぎる。私と見た目が似ている奴もいるけど、けど、けど、あぁぁそんなことは


 なんでコイツら喋ってるの。


 なんでマスクをつけてないの。


 そんなの罪だ、大罪だ。


 ここが何処で、何で誘拐されたとか、説明とか、理解とか、そんな思考が全て言葉に押し流される。私の肌を嫌悪が逆撫でし、奥歯が固く噛み合った。


 この場で、唯一、規律を守っている私の責務はなんだ。


 喋る者がいる。口を開く者がいる。声を発する存在がいる。


 そんな場面で、大人は誰もいなくて、私の手にモーニングスターがある場合。


 私がしなければならないこと。教えられてきたこと。そうすることが正しいと学んできたこと。


 それは、ただ一つ。


「お、残りの奴が来たか」


「わー女の子だ! あと一人はどんな子かな!」


 獅子がのそりと席を立ち、茶髪を二つに結った小柄な少女が近づいて来る。その場にいる者は全員私とほぼ同じ制服を着ており、状況は理解しているようだった。


 全員の視線がなんとなくこちらに向く。服を着た獅子が目の前に立つ。ズボンは布を一周させたスカートのようなタイプで、しなやかな尻尾が揺れていた。


 原理は知らない。意図も汲まない。


 獅子は大きな口を開け、鋭い歯列に焦点が合った。


「お前はどんな異界から呼ばれたんだ? 俺は――」


 喋った獅子をモーニングスターで殴打する。


 容赦はない。

 躊躇もない。


 正しい人でなければ、黙り続けなければ、社会に殺されるから。


 そうしなければ、私は許されないから。


 斜め下から打ち上げた獅子の顎は裂け、赤い飛沫が舞った。


「え……」


 近付いていた少女の側頭部も殴り倒す。


 二人の体は一撃で床に沈み、教室には静けさが満ちた。


 獅子から流れ出る赤い血液。少女から流れ出る血も赤いが、なんだか濃い。


 仮装だと思っていた耳や尻尾はたった一打では取れなかった。よく出来たものだ。コスプレだけなら、まだよかったのに。


 どうしてマスクをしてないの。


 どうして、そんなに普通に、喋っているの。


「お、ま……」


「いや、いやいや無いよ、それは無い」


はまだじゃん! 何やってんの!?」


 震えた声を聞き、上擦った否定を耳にし、競争という単語に疑問が湧く。


 意味は分からないが、私の優先事項は現状を知るよりも、悪い奴を黙らせることだ。


 だから、席から立ち上がりかけた奴らを殴った。


 モーニングスターを振り上げ、慌てる同世代の人間を殴り、こちらに手をかざしたコスプレの怪物も叩き潰した。


 黒塗りの机や椅子にカラフルな血が飛ぶ。肌が青い奴からは同じ青の血が飛び、頭を砕いたと同時に容姿が年老いる奴もいた。


 コスプレのクオリティが高すぎる、なんて思うことは途中でやめた。私が殴っているのは化け物で、怪物で、人ならざる何かばかりだと、流石に気づいてしまったから。


 しかし恐怖はない。これが夢であればいいと願いはするが、マスク越しに嗅いだ色々な匂いがあまりにも鮮明で、頭痛が増したから。


 夢のような教室の真ん中で、私は、夢を見ていないと理解した。


 ここは何処。ここは何。異界って何。私が殴っているコイツらは一体なに。


 でも、でも、聞く前に、問う前に、私の腕がモーニングスターを振り下ろしてしまう。


 叫ぶという大罪には罰がいるから。


 マスクをつけていない奴は罪を犯す予備軍だから。


 殴らないといけない。倒さないといけない。暴力で説き伏せなければならない。


 そう教えられてきた。そうするべきだと周りはずっと示してきた。


 脈に合わせて頭痛が響き、息が上がってしまった時。


 私の周りには、十人の罪人が倒れていた。


 床では奴らの血が混ざり、呻いた奴にはもう一撃入れた。


 教室に完全な沈黙が訪れる。私のヒールは、混ざって黒くなった血を踏んだ。


 肺の奥から息を吐き、自分の席を思い出す。廊下側から三列目、一番前の席。


 席は全部で四列と三行あり、全部で十二。渡り廊下で同じクラスだと言っていた少女を数えると、私でちょうど十二人だ。


 モーニングスターを素振りしたが血や皮膚が取り切れない。ここまでの人数を殴ったのは初めてだったが、全て必要な行為たっだのだ。


 私は悪くない。

 喋った奴らが、悪いから。


 私は机にモーニングスターを置き、指定された席に座った。


 耳に優しい静けさに目を伏せる。


 よかった……平和だ。


 犯されていた耳を洗うように、教室にあるのは罪人達の虫の息だけ。あまりにも唐突な非日常に脂汗も浮かんだけど、心臓も徐々に落ち着きを取り戻していった。


 ふと、教室の扉が開く音がする。


 そこには私を誘拐した紫の男が立っていて、教室の様子に目を配っていた。相変わらず彼もマスクをつけていない。


 私がモーニングスターに手を伸ばすと、男は微笑んで首を横に振った。


 肌に微かな痺れが走る。また、頭痛が激しくなる。痛くて、しんどくて、マスク越しの空気が薄い。


 足音もなく傍に来た男は、モーニングスターに触れていた私の手を取った。


 彼は端正な目元でウインクし、口角を上げた唇に人差し指を当てる。気持ち悪いから隠してよ。


 男は袖から簪を取り出した。私が男の頬に刺したはずの物だ。


 私の後ろに回り込んだ男は、髪の上部を集めてねじる。簪を刺された髪はしっかりとまとまり、両肩を軽く叩かれた。振り返ると、彼は満面の笑みで私のマスクをつつくのだ。鳥肌が立つ。


 私は彼に手を取られ、罪人だらけの教室から連れ出された。

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