第12話 貧血

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 水戸藩は徳川御三家の中では一番江戸に近く江戸定府として参覲交代の制度を免除されている藩であった。


 一定期間毎に藩主が江戸と国元を往復して生活することを定めた制度が参覲交代だが水戸藩は特例扱いであったのである。


 ただ、特例の内容は藩主がずっと国元に住み続けて良いというものではなく、反対に始終江戸に住み近いのだから、わざわざ国元に帰らなくても良いというものだ。


 実際に烈公の先代である哀公こと水戸藩第八代藩主の徳川成脩なりのぶは生涯一度も水戸の土を踏まず終いだった。


 したがって、実質的な藩の運営を行っているのは国家老を筆頭とする藩の重臣たちである。


 重臣たちの住む屋敷は水戸にある千波ちば湖のほとりに建つ水戸城のほど近くだ。


 雑賀聖人が那珂川沿いの堤防で藤田小四郎らの襲撃を受けた、およそ一刻後。


 雑賀は水戸藩小姓頭取を勤め六百石を賜る重臣、鈴木重孚しげざねの屋敷の前で馬を止めた。


 一万坪は優に有ろうかという重孚の屋敷の周囲は一丈程(約三メートル)の高さの白壁の塀に囲まれている。塀の上には瓦葺きの屋根がついていた。


 塀の一画、屋敷の正面側では屋根が一部高くなっており、騎乗したままでも軒に頭をぶつけずに通過できる高さの大きな木製の門が据え付けられていた。


 門は固く閉ざされており腰に刀を帯び長い樫の棒を持った門番の男が門の前に立っている。男は雑賀より若そうだった。


 雑賀は馬を降り左手で馬の手綱を引きながら門番に歩み寄った。


 走ってきたために雑賀も馬も、まだ息遣いが荒い。


 挨拶のつもりで雑賀は門番に軽く右手をあげ、「ハァイ」と気さくに声を掛けた。


 門番は雑賀を明らかに不審人物と見なしたらしい。今にも打ち懸からんばかりに棒を構えて雑賀に突きつけると鋭い口調で詰問した。


「当屋敷に何用だ?」


 眉毛の濃い実直そうな門番の顔立ちが得体の知れない身なりの雑賀の出現に引きつっていた。


 雑賀は、まったく悪びれずに言葉を続けた。


「殿様はいるかい? 重孚殿だ」


 門番は雑賀の一言に、ますます仰天した。


 不審人物を安易に主人に取り次ぐようでは門番失格だ。


 門番は文字通り雑賀を門前払いにしようとした。


「ご不在である。早々に立ち去られよ」


 雑賀は門番の顔をしげしげと眺めた。


「俺より若いな。新人さんかい?」


「もう八年もここにいるが貴殿に新人呼ばわりされる謂われはないな」


 門番は雑賀の足元に視線を落とした。


 雑賀の右足のブーツには、まだ新しい刀傷があり雑賀が歩いた地面には右側のみ赤い血の足跡ができている。


 ここまで来る途中、雑賀は応急処置として右脛の傷口に布を巻き、きつく締めつけて止血をしていた。


 にもかかわらず、ブーツの中に溜まった血が染み出して足跡が地面に刻印されるのだ。


 雑賀は、もちろん雑賀の素性を訝しく思う門番の様子にも追い返そうとしたくなる門番の気持ちにも気づいていた。


 しかし、ここは一向に気づかぬ風を装い、あくまで軽口で言葉を続けた。


「そうか。たったの八年じゃ俺を知らなくても無理はないな」


 だが、残念ながら門番に取り付く島はないようだ。


「立ち去らぬとあれば力づくで追い払うぞ」


 門番は棒を振り上げ雑賀を威嚇した。


 脅されているのは雑賀のほうだが脅えているのは、むしろ雑賀の意図が分からぬ門番の側である。雑賀を睨みつける門番の視線は、おどおどと泳いでいた。


 門番の瞳には雑賀のにやけた、からかいの表情が映っている。


 だが、すぐ雑賀の表情は真剣になった。


「悪いが、そうはいかねぇんだ」


 雑賀は懐から勝海舟の身分証明書を取り出すと門番の鼻先に突き出した。


「軍艦奉行並の勝海舟殿の身分証明だ。どうせいるんだろ? 重孚殿に取り次いでくれ」


 門番は呆気にとられた様子で唖然と口を開けた。不審人物めが、よりにもよって、幕閣が自分の身分を保証しているなどと抜かしたのだ。


 雑賀と門番は向き合ったまま、しばしお互いの顔を見つめ合った。


 だが、結局、引き下がるしかないのは門番のほうだった。門番は振り上げた棒を降ろし雑賀から書面を受け取った。


「ここで待たれよ」


 門本体ではなく脇にある木戸を開け身を屈めて木戸を潜り抜けると門番は屋敷の中に消えた。


 内側から、かちゃりと木戸に閂が掛けられた音が聞こえる。


「待てだとよ」


 雑賀は、おどけた口調で馬に話しかけると左手に握っていた手綱を離した。


「早くしてくれ」


 雑賀は捨てぜりふのように門に向かって声を掛けた。門の前に敷き詰められた平石の上にどさりと座り込む。


 雑賀は右足のブーツから足を引き抜いた。包帯代わりに傷口に巻き付けていた布が鮮血で赤黒く染まっている。


 雑賀はブーツを逆さまにした。ブーツの中に溜まっていた血が平石の上にこぼれて幾何学的な模様を描きだす。


「ありゃありゃ、貧血になっちまいそうだぜ」


 冗談とも本気ともつかぬ口調で雑賀は呟いた。


 逃げもせず雑賀の近くに立っていた馬が耳をぴくりとさせて聞き耳を立てた。


 馬は、ここまで自分が走ってきた方角を振り返った。馬には誰かが近づいてくる足音なり物音なりが聞こえているのだろう。追っ手かもしれない。


「待ってもいられんか」


 馬の様子に雑賀は慌ててブーツを履いて立ち上がった。


 雑賀は馬を門の脇の塀の近くに誘導した。


 馬の背に紐で括り付けていた旅支度の荷物の包みをはずして自分の肩に掛ける。


 雑賀は馬のあぶみに足を掛けると馬に跨るのではなく鞍の上に足を乗せて馬上に立ち上がった。


 雑賀の頭が塀の屋根より上に出る。雑賀は門の裏を見下ろしたが門番はまだ戻ってはいなかった。


 雑賀は肩に掛けていた荷物を塀の上に置いた。


 塀の屋根に手を掛け鞍を蹴って塀の上に飛び移る。


 雑賀が乗った拍子に足の下で割れた瓦が、一枚、外に落っこちた。


 瓦は馬の尻にぶつかり地面に落ちてさらに割れた。


 驚いた馬が屋敷の塀に沿って駆け出した。


 だが、むしろ、そのほうが雑賀にとっては都合よい。雑賀がここで馬を降りたことを追っ手に気づかれにくくなるからだ。


 雑賀は身を屈め荷物を手にとって塀の内側に飛び下りた。

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