第11話 ごろり二分

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 海岸沿いに那珂湊へ向かって馬を歩かせてきた雑賀だったが、台場を守る藩兵からの無用の詮索を避けるため祝町の台場の手前で馬首を西に転じた。


 那珂川に注ぎ込む涸沼川を渡り涸沼川に沿って下って那珂川との合流地点へ向かう。


 那珂川は涸沼川と合流した後、大きく左に蛇行して那珂湊の市街、和田岬の前を通り旭ケ丘の手前で太平洋に注いでいた。


 反対に那珂川を上流へ向かえば三里(約十二キロメートル)程で水戸城下だ。雑賀が向かうのは上流である。


 雑賀がいる川のこちら側には青々と稲が伸びた水田が広がるばかりだが対岸には林といくつもの密集した家が見受けられる。


 対岸までは二町余り(約二百メートル)の川幅であった。


 那珂川の流れは雑賀が立つ堤防の内側に大量の土砂を堆積させている。堆積した土砂を苗床として葦が生え広大な葦原を形成していた。


 川風が葦の頭を揺らしていた。


 人の背丈以上に伸びた葦は川岸ばかりか堤防の斜面にも根を伸ばし雑賀がいる堤防の上部まで覆い始めていた。


 雑賀は対岸の林の上にもくもくと煙が上がっていることに気がついた。


 距離もあり樹木に隠れてもいるためよくは見えなかったが林の陰に二本の四角い煙突が突き出ている。


 水戸藩自慢の反射炉である。


 煙が出ているとなると炉に火が入っていることを意味する。


 熔かされているのが銅なのか鉄なのかは全然わからなかったが、やはり水戸藩では軍備の増強に余念はないようだ。


 製造された大砲は那珂川の水運を利用して各地の台場へと運ばれていく。そのためにこそ反射炉は那珂川の近くに建設されたのだ。


 雑賀は手綱を操って馬の鼻先を那珂川の上流方面へ向けると馬の腹を軽く蹴って馬に歩くよう指示を出した。


 馬がのんびりと歩き出す。


 雑賀の右手には視界を遮るほどの葦原が広がり左手となる堤防の下には水田が広がっていた。


 しばらく進むと馬がしきりに鼻をひくひくとさせて立ち止まり背中に座る雑賀の顔を振り返った。


「わかってるよ」


 雑賀は馬を安心させるように優しく声を掛けた。


 馬は前を向き、ぶしゅんと大きなくしゃみをした。


 微かだが空気に火薬の匂いが混ざっている。火縄の焼ける匂いだ。


『どこかに狙撃手が潜んでいる!』


 そう思った雑賀は葦原に向かってカマを掛けた。


「いるんだろ」


 雑賀が声を掛けると右手前方の葦原が揺れ雑賀の行く手を遮るべく刀を腰に差した十数人の男たちが葦原の中から現れた。


 振り向くと背後でも同様に、今、横を通り過ぎたばかりの葦原から男たちが飛び出し雑賀の退路を塞いで立っていた。


 雑賀の前後で現れた男たちのうち何人かが堤防の水田側の斜面に降りて回り込み雑賀の逃げ道をなくすように取り囲んだ。


 男たちは刀こそまだ抜いてはいなかったが、いずれも皆、雑賀への殺気に満ちていた。


 最後にゆっくりと藤田小四郎が前方の茂みから雑賀の前に姿を現した。


「江戸からこっち、ちょろちょろ後を尾けてくれていたみたいだが、ようやくお出ましかい」


 雑賀は小四郎に向かってうそぶいた。取り囲まれても雑賀は少しも動じてはいなかった。


 雑賀と取り囲む男たちの距離は五間余り(約九メートル)だ。


 小四郎はそんな雑賀の余裕に満ちた態度を虚勢と思ったのか、はたまた自分たちの圧倒的な優勢に確信を持っているのか、横浜で最後に見た際とは打って変わった自信に満ちた表情を浮かべていた。


 地の利のある地元であるという点も小四郎の自信の根拠の一つに違いない。


「よりにもよって貴様の目的地が水戸藩とはな。我が水戸藩が誇る反射炉と砲台は異人どもには、よほどの脅威と見える」


「はっ! あんな『ごろり二分にぶ』がか!」


 雑賀は大きな声を上げた。


『ごろり二分』とは水戸藩の領民が藩士御自慢の大砲を指して言う陰口だった。


 あまりにも重いので、ただごろりと大砲の向きを変えるだけでも二分の金を掛けて力仕事をする人夫を雇わなければならないためというのが陰口の由来だ。


 それは極端だが要するに水戸藩の大砲は単なる見かけ倒しで実戦的ではないという揶揄だった。


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「あんな砲台がいくつあってもモビーディック一隻だけで壊滅できるよ」


 雑賀は吐き捨てるように豪語した。


 さすがにカチンと頭に来たと見え、雑賀を囲む小四郎の朋輩たちが一斉に刀を抜き放った。


 小四郎の朋輩たちから吹き付ける殺気の凄さに馬がおののき、数歩後ずさった。


「怖くない、怖くない」


 雑賀は馬の首に抱きつくような前傾姿勢となり自然な動作で右手を手綱から離すと馬の胴をポンポンと叩いた。


 銃を抜く手をフリーにしておくのは射撃の基礎である。


 同時に雑賀は小四郎らには悟られぬよう素早く左手首に手綱を巻き付けた。


 もちろん、突然の馬の動きに振り落とされないための措置であったが、逆を言えば突然かつ不測の動きを馬にさせる、という腹づもりからだ。


 朋輩と同様、小四郎もまた怒り心頭の様子だった。おかめ・・・に似た顔を真っ赤にして小四郎は雑賀を睨みつけていた。


 だが、無理矢理どうにか怒りを腹の内に押さえ込んだのか、やや引きつった声音で小四郎は雑賀に要求した。


「勝海舟の密書を貰おう」


 折れた刀身の修理は済んだのかまだなのか朱鞘の大小を腰に差してこそいたが、小四郎は刀を抜いてはいなかった。


「密書? 何のことだ?」


「とぼけても無駄だよ、堀居九郎。反逆者、勝海舟の命令で我が藩の軍備を探りに来たのだろう」


 雑賀は小四郎にウインクをした。


「床下にいた鼠がそう報告したのかい? 残念だが、ちょっと墓参りに寄っただけさ」


「あくまでもとぼけるか」


 どこまでも、軽薄な雑賀の態度に小四郎はそれ以上の会話を打ち切りにした。


「他人の墓より自分の墓の心配をするんだな。銃があるのは貴様だけだと思うなよ」


 小四郎が言った『銃がある』という言葉を受けて雑賀を囲む男たちのうち幾人かの視線が葦原の一点と雑賀の間で行ったり来たりした。


 雑賀は男たちの視線の先を追った。


『狙撃手は、視線の先にいるはずだ!』


 はたして雑賀は葦の茂みから長銃の筒先が突き出ているのを発見した。


 狙撃手本人までは見えなかったが恐らくは片膝を突いて雑賀に狙いをつけているに違いない。銃は当然、旧式の火縄銃だ。


「撃て」という小四郎の声よりも早く雑賀は行動を起こした。


 右手で拳銃を抜き放つと筒先が突き出た茂みに向かって弾丸を撃ち込む。弾丸は狙撃手の左肩に当たった。


 撃たれた狙撃主は、もんどりを打った。引き金を引いたが、もちろん明後日の方角だ。


「銃ってのは、こう使うんだよ」


 笑うや雑賀は馬の背に身を伏せて馬の腹を蹴った。馬は小四郎らに向かって突進した。


 雑賀は手綱を左手で操りつつ拳銃を握った右手を前方に突き出した。


 弾倉に残っている弾丸は、あと五発。殺してしまわぬよう、雑賀は小四郎の右太股を撃ち抜いた。


 小四郎は無様に転がった。続けて手近な四人の男たちの足も撃つ。


 撃たれた男たちは、皆、転がり、前方の人垣に切れ目ができた。


 男らは血溜まりに足を抱えてのたうっている。


 だが、足だ。


 誰一人として雑賀は致命傷を負わせてはいなかった。


 肩を撃った狙撃手が一番の重傷だが、まさか死にはすまい。


 雑賀はできた人垣の切れ目へ馬を突っ込んだ。


「あばよっ」


 と、捨てぜりふを吐き小四郎の左脇を雑賀は駆け抜けた。


 転がったまま、そのとき小四郎が抜刀した。


 小四郎は斜め上へ刀を斬り上げた。刃の先には駆け抜ける雑賀の右足があった。


 切っ先がブーツを横に捉える。雑賀の右脛に痛みが走った。


 雑賀は足を見た。幸い右足はくっついていた。


 ブーツは裂けたが足自体は肉を軽く斬られただけであった。縫えば済む程度の浅傷だ。


 雑賀は身を起こし右手の拳銃をホルスターに突っ込んだ。両手でしっかりと手綱を握る。


 雑賀は馬を走らせ続けた。

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