第10話 逆さ銀杏

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 善福寺や真福寺に向かう参道沿いにはひしめき合うように小屋が建ち並んでいた。参拝客に土産物や食べ物を売るべく目聡い商人によって建てられた小屋である。


 日中の参道には参拝客が途切れなく行き交い自分の小屋へ一人でも多くの客を呼び込むために醤油を焦がしたような香ばしい匂いが、いくつもの小屋からこれでもかとばかりに参道へ流されていた。


 その参道を真福寺を通り過ぎて、さらに真っすぐに進んだ突き当たりが善福寺だ。


 焼失したため、すでに建物はない。ただ焼け焦げた地面だけになってしまった善福寺の境内には入口付近に巨大な銀杏の木が立っていた。


 樹齢六百年余りとも言われる銀杏の巨木には伝説があり親鸞聖人が自ら植えた物とも、そうではなく親鸞聖人がついていた杖が根付いた物であるとも言われていた。


 四方に長く伸びた枝の先が自らの重さのため下に垂れ下がっている。


 その上、根がり上がっていることから遠目には地面に対して木が逆さに突き刺さっているようにも見受けられた。


 そのために、この銀杏の巨木は参拝客からは『逆さ銀杏』の名前で親しまれていた。


 藤田小四郎は数人の朋輩と共に、その『逆さ銀杏』の葉が作る傘の下に立っていた。


 青々とした銀杏の葉が小四郎らの頭上を厚く覆って木陰を作っている。


 小四郎は真福寺方面に伸びた参道を半ば待ちくたびれて苛々としながら見つめていた。


 行き交う参拝客の中に他の参拝客とぶつからないよう人混みの間をすり抜けるようにして小走りで走ってくる男がいた。


「来たぞ」


 小四郎は鋭く声を発した。


 雑談をして思い思いに時間をつぶしていた小四郎の朋輩たちが小四郎同様に参道に目をやった。


 走ってくる男の衣服には泥の染みがつき汗の浮いた額や首筋では汗が泥水となって体を汚していた。ねばねばとした太い蜘蛛の巣が、いくつも全身にこびりついている。


 男は小四郎の前まで走ってくると立ち止まり何度か大きく息を吸ったり吐いたりして荒い息を整えた。


 男の呼吸が十分に整うのを待ってから小四郎は男に声を掛けた。


「何かわかったか?」


「奴め、ただの異人かぶれではありません。ホリー・クロウ・ペリー大尉。黒船のペリー提督の養子でアメリカ軍人です」


 男は顔面を紅潮させて憤然と言った。プリュインの執務室の床下に潜り込んで雑賀らの話を盗み聞きしていた志士である。


 水戸藩では国防上、外国の情報を収集し分析するため特に優れた家臣を選んで外国語を学ばせていた。


 この男もそんな選ばれた家臣の一人であり、その能力を買われて小四郎から真福寺に潜入するよう指令を受けたのだ。


「やはりアメリカの間者であったか」


「勝海舟とも親交があるようです。何やら手紙を受け取っています」


「中身は?」


「残念ながら。潜入がバレ、銃で追われたので慌てて逃げ帰りました」


「ご苦労だったな」


 小四郎は男の労をねぎらった。


 とは言ったものの肝心の情報が不足している事実も否めない。


 小四郎は胸の前で両腕を組み合わせると思案に入った。


「叩っ斬ろう」


 そんな小四郎の様子に気の短い朋輩の一人が腰の刀を、かちゃりと鳴らして進言した。


 そのとき別の朋輩が声を上げた。


「奴です」


 小四郎らは一斉に参道に目をやった。


 茶色い毛の馬に跨った雑賀が参道を小四郎らがいる場所へ向かって悠然と進んでくる。


 ジョナサンはいない。雑賀一人きりだ。


 雑賀には小四郎らに気づいている様子は見受けられなかった。


 小四郎らは雑賀に見つからぬよう素早く銀杏の巨木の陰に隠れた。


「向こうから斬られに来たぞ」


 さきほど小四郎に進言した朋輩が嬉しそうに舌なめずりをしながら言った。


 すでに雑賀を襲う気満々になっているようだった。興奮して鼻の穴が開いている。


 あとは小四郎の命令を待つばかりだ。


 だが小四郎は重々しく首を振った。


「気づかれぬように後を尾けろ」


 襲う気を削がれた朋輩の顔が不満気に曇った。


 そこで小四郎は自分の考えを説明した。


「殺すのなんか、いつでもできる。幕閣でありながら勝は幕府の転覆を企む反逆者だというからな。アメリカと組んで何をする気なのか、ひとまず泳がせて探るんだ」


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 雑賀は勝海舟の身分証明書を利用して金町松戸の関所を抜けると木下から利根川沿いに馬を歩かせて下流の鹿島まで行き、次いで鹿島灘の海岸線に沿って北上した。


 那珂湊の祝町へ入ったのは文久三年五月二十日の昼過ぎである。那珂川の河口、右岸側の集落だ。


 祝町には水戸光圀が開いたと言われる遊郭もあり時化しけで漁に出られない日などは近郊の漁師らにより早い時刻から賑わいを見せる時もあった。


 雑賀の目的地は水戸である。那珂湊から水戸までは那珂川に沿って進めば一息だ。急がずとも夕刻までには着ける距離だった。


 水戸藩の沖合には以前より英米の捕鯨船が姿を見せることが多く海岸線のところどころには大砲の台場が築造されている。


 那珂湊には那珂川の両岸に併せて三箇所の台場があった。


 鹿島から見て那珂川の手前にある祝町、次いで那珂川の対岸の和田岬と、その先の旭ケ丘の三箇所だった。


 ぴかぴかと金色に磨き上げられた銅製の大砲は前水戸藩主で烈公と称えられた徳川斉昭なりあきの時代に領内の梵鐘や銅製の仏像仏具を鋳つぶして製造された代物だ。攘夷派の藩士たちから、さながら烈公の化身のごとく崇められ信頼されているものであった。


 だが、雑賀に言わせれば、


「まるで玩具おもちゃだな。なんだって、あんなものが昔は頼もしく見えたんだろう」


 自嘲気味に呟きたくもなるような前近代的な代物だ。


 熔解温度が低いため加工こそしやすいが高価につく銅製の大砲は、すでに外国では時代遅れだった。


 銅よりも熔解温度が高いため製造に高度な技術が必要となる鉄製の大砲が一般的だ。


 安価な鉄を大量に使って砲身の強度を上げた外国製の大砲は日本製の大砲よりも射程距離が遙かに長かった。


 万が一、外国船と戦うことになった場合、藩士ご自慢の水戸藩の大砲では遠距離から砲撃をしてくる外国船まで砲弾を届かせることなど、とても不可能だ。


 一方的に砲撃を受けるだけの結果となるのは目に見えていた。


 雑賀の目には水戸藩の、いや日本国中の台場など貧弱な物としか映らなかった。


 とはいえ、烈公や幕府も手をこまねいていたわけではない。


 もともと国防意識が強く外国の情報収集にも余念がなかった烈公は外国では鉄製の大砲が主流であることを知るや鉄製の大砲を鋳造するための反射炉の建設を幕府に注進した。


 その甲斐あって幕府からの多大な資金援助を得ることとなり那珂湊の吾妻ケ丘に二基の反射炉を建設している。


 反射炉の建設着工は安政元年(一八五四年)のことであるから雑賀が遭難したペリーの二度目の来航と同じ年である。


 結局、反射炉は安政二年と安政四年にそれぞれ一基ずつが完成している。


 烈公に誤算があったとすれば外国から技術者を招いて指導を仰ぎながら反射炉を建設したわけではなく、ただオランダの文献のみを頼りとした建設であったことから建設も試行錯誤なら炉の運転も試行錯誤であったことであろう。


 完成した反射炉での本格運転は銅のみで鋳鉄については未だに実験段階にあるというのが実際であった。


 同様の反射炉は佐賀藩や薩摩藩、幕府が管理する伊豆韮山にもあったが佐賀藩が少し先行しているとはいえ鋳鉄の製造状況としては、どこも似たり寄ったりだ。


 そのため、国内には外国船とまともに戦える能力を持つ砲台は皆無であり雑賀が『玩具』とあざけりたくもなる貧弱な台場しかないのだった。


 ただ、その事実を多くの攘夷志士たちは認識していない。

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