第9話 堀居九郎

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『ようやく出番だ』


 雑賀は、大げさな動作で高く足を上げると、一歩、プリュインに向かって歩み寄った。


 両足のブーツの踵と踵を打ち合わせる。


 右掌をプリュインに見えるように上げて海軍式の敬礼をした。


「ホリー・クロウ・ペリー大尉です」


 雑賀はプリュインに向かって左目を瞑りウインクをした。


 プリュインは驚きのあまり、だらしなくあんぐりと口を開けた。ほうけたようによだれが垂れかけている。


「日本人ではないか」


 プリュインは、ようやく、それだけ口にすると手の甲で口を拭った。


 そこで雑賀は左手で小脇に抱えていた書類鞄を体の前に回すと鞄の口を開けた。鞄の中から紙でできた大判の封筒を取り出す。


「本国からの訓令です」


 雑賀はプリュインに封筒を差し出した。


 プリュインは雑賀から手荒く引ったくるようにして封筒を受け取った。


 糊付けではなく封筒の封は糸を巻き付けて閉じる方式の物だった。


 プリュインは、もどかしげな手つきで糸を解き中から二つに折り畳まれた文書を取り出した。


 文書を開く。


 訓令が書かれていた。


『日本に駐在するアメリカ合衆国公使は、ホリー・クロウ・ペリー大尉が、その任務を遂行するために必要とする、ありとあらゆる便宜を図ることを最優先事項とする』


 訓令の末尾にはアメリカ合衆国大統領アブラハム・リンカーンの署名と印綬が押されていた。


「馬鹿な」


 文書を持つプリュインの両手は今にも文書を破いてしまいそうなほどに、ぶるぶると激しく震えていた。


「いったいどんな任務だというのだ!」


「その質問にお答えをするわけにはまいりません」


 雑賀は冷たい口調で回答を拒絶した。


「日本政府からアメリカ本国に対して軍艦の引き渡しはいつになるのかと問い合わせがありました。領事の個人的な事業についてアメリカ合衆国は何ら関わりを持つものではありませんが大統領は、いたく失望しておられます」


 雑賀はプリュインの顔を見つめた。


 プリュインの顔からは一転して血の気が引いていた。


「あえて、あなたの任を解くことはいたしません。ですが、これ以降は日本政府とのいかなる些細なやりとりもすべて私に伝えてください」


 プリュインは窒息しかけた金魚のようにぱくぱくと口を開けたり閉じたりした。言葉が声として出てこないのだ。


「な、な、な」


 突然、プリュインの蒼白になっていた顔に血の気が戻り見る見るうちに通常を通り越して真っ赤に染まった。


 プリュインは訓令の文書を二つに引き裂き床に投げ捨てた。


「何を馬鹿なことを! 貴様にそんなことを言う何の権限があるというのだ!」


 雑賀は書類鞄に手を入れ別の文書を取り出すなり、ぐいっとプリュインの鼻先に突きだした。


 文書には本文らしき内容は何も書かれておらず、ただ末尾に大統領の署名と印綬が押されているだけであった。


「何も書かれておらんでは」


 文書を受け取ろうと手を伸ばしかけながら開いたプリュインの口と動きが、そのままの形で凍りついた。


「私の養父が日本に開国を迫った際にも大統領から同様の物が委ねられていました」


「まさか大統領の白紙委任状?」


 プリュインは弱々しく震えた声で呟いた。


 雑賀は意地悪く微笑んだ。


「大統領から私は日本での全権を任されました」


 雑賀は打って変わってぞんざいな言葉を口にした。


「俺の言葉は大統領命令だ」


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「さて。俺あてに手紙が来てるはずだ」


 雑賀は呆然と立ちつくしたまま何も言わなくなってしまったプリュインに対して追い討ちを懸けるように言葉を続けた。


「手紙が来てるはず?」


 プリュインは茫然と、ほとんど聞き取れない程度の大きさで雑賀の言葉を鸚鵡返しに繰り返した。


 だが、その言葉に全く思考が伴っていないことは傍目にも明らかだ。反射的に聞こえた言葉を口にしただけとしか見えなかった。


 プリュインは顔こそ雑賀の方向に向けていたが、その視線は雑賀に焦点を結んではいなかった。実際に目に映っている世界とはどこか別の世界を見てでもいるかのように惚けている。


「おい!」と雑賀は声を荒げた。


 プリュインは、ようやく雑賀に注目した。


「手紙だよ!」


 プリュインは弾かれたように自身の執務机に向かい抽斗ひきだしを開けた。


 抽斗の奥から封筒を取り出し雑賀に差し出す。


 封筒の表には『堀居ほりい九郎くろう殿』と宛名が書かれている。


「堀居九郎という男が立ち寄るはずだからと新任の外国奉行、確か川路かわじが昨日持ってきた。誰のことかもわからずに預かったが、この手紙か?」


 雑賀は机に大統領の白紙委任状を置きプリュインから手紙を受け取った。


 封筒を裏返すと『勝海舟』と差出人名が記されている。


「これこれ」


 雑賀は早速封筒を開けようとしたがそれよりも早くプリュインが恐る恐るといった感じで机の上の白紙委任状に手を伸ばしていた。


 検分するように自分の顔に近づけて白紙委任状を、よく観察する。できることなら本物ではない証拠を見つけたい、というのがプリュインの正直な気持ちなのだろう。


「そいつまで破くなよ」


 雑賀は勝からの手紙の封を開ける手を止めて動揺の極致にあるプリュインに対して、さらりと言った。


「大統領への反逆罪であんたを始末しなきゃならなくなる」


 プリュインは慌てて、さっと白紙委任状を机に戻した。


「さきほど養父が同じ物を大統領から委ねられていたと言われたが、あなたはマシュー・カルブレイス・ペリー提督の?」


「養子だよ。太平洋を漂流中に拾われて養子になってアメリカに渡ったんだ」


「ホリー・クロウ・ペリーと堀居九郎。なるほど。では、堀居九郎というのが本名か?」


 雑賀はプリュインをにらみつけた。


 封筒を持っているのとは反対側の左手で雑賀は銃を抜き銃口をプリュインの足元に向けて一発引き金を引いた。


「そこまでは知らなくていいことだ」


 ひゃっ、という情けない悲鳴を発してプリュインが飛び跳ねた。


「よせっ!」


 ジョナサンが叫び声を上げて雑賀の腕を掴もうとした。


 雑賀は身を躱して素早く離れるとジョナサンに微笑んだ。


「床下に鼠がいたんだよ」


 顎をしゃくって床板に弾丸が開けた小さな丸い穴を指し示す。穴の縁は黒く焦げていた。


 雑賀の左手は拳銃を握ったまま穴に銃口を向けている。銃口からは、まだ紫煙があがっていた。


 ジョナサンとプリュインも穴を見つめた。


 穴は床下まで貫通しているようだった。


「穴が開いて声が聞こえやすくなっただろ? 次は当てるぜ」


 雑賀は弾痕に向かって言った。


 がさごそと床下で何か大きな生物が動き急いで逃げていく気配がした。


「何者だ?」と、ジョナサン。


「どっかの志士だろ。ここの警備も、つくづくいい加減だな」


 雑賀はジョナサンに軽く応じてからプリュインに向き直り、


「驚かせたな」


 雑賀はプリュインにウインクをして銃を収めた。そのまま何事もなかったように封筒に視線を落とす。


 ジョナサンとプリュインは、あまりに軽い雑賀の態度にお互いに顔を見合わせた。


 唖然とするプリュインに向かってジョナサンは肩をすくめて『諦めろ』と、うながした。


『雑賀には、どうせ言っても無駄だ』


 自分が撃たれたとばかり思ったプリュインが、まだ青い顔をしたまま、それでも精一杯の虚勢を張って雑賀に尋ねた。


「なぜ、ここにあんた宛の手紙が来るんだ?」


「帰国してすぐ連絡先はここだと手紙を出したからな。これからもちょくちょく仲介場所に使わせてもらうよ」


 雑賀は封筒を開け中から折り畳まれた書面を取り出した。書面を開く。


 書面には次のように書かれていた。


『この者、堀居九郎は公用の任務中であるため、詮索無用。銃剣の所持も認める。

                           文久三年五月十三日

                           軍艦奉行並 勝海舟』


 雑賀の身元を保証するための勝海舟の証明書だ。署名と併せて花押もあった。


 封筒には証明書の他に勝から雑賀への手紙も入っている。


『無事帰国めでたし。異国を見た貴殿の目で日本の現状を広く見て回れるよう手配をした。サンフランシスコ以来の再会を心待ちにしている』


 勝海舟の特段の配慮に雑賀の口元に笑みが浮かんだ。


 雑賀と勝は日米通商条約の批准のための使節として咸臨丸で勝がサンフランシスコを訪れた際以来の縁だった。


 英語につたない日本使節のためアメリカ側が用意した通詞が、すでにペリーの養子となり海軍に勤務していた雑賀だったのだ。


「ありがたい」


 雑賀は心から勝への感謝を口にした。手紙を封筒に戻してから懐に収める。


 そこで改めて雑賀はプリュインに向き直った。


「早速だが馬を一頭用意してくれ。それから軍資金だ。どうせ悪どく貯め込んでいるんだろ」


 ブリュインに言葉はなかった。


 プリュインは力無くうなだれた。

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