第7話 手紙
10
「お怪我は、ございませんでしたか?」
にこにこと、満面に人の良さそうな笑みを浮かべながら、店の主人が雑賀に近づいた。
とはいえ、目までは笑っていなかった。客向けの愛想笑いの類であるのは明らかだ。
主人に銃を向けようとするジョナサン・デビットを雑賀は右手を挙げて制した。
「この店の主人だ」
ジョナサンは銃を下げた。
「なんだい、あの怖い連中は?」
雑賀は主人に尋ねた。
「水戸藩の方々でしょう。『攘夷』のためなら街ごと灰にしかねない過激な者たちです」
「水戸藩か」
雑賀は水戸藩の志士たちが立っていた廊下を、しばし見つめた。
「間に入っていただき助かった。迷惑を掛けてしまったな」
「連中の機嫌を損ねて店に火を点けられたのでは、たまりませんから」
主人は満面の笑顔のまま頭を垂れた。
「お代は要りません。速やかにお引き取りください」
雑賀は憮然とした。
「俺たちは被害者だぜ」
主人は、にこにこと笑っているだけで何も言わなかった。
雑賀は立ち上がりベルトと銃を身につけた。
「おまえは、おあずけだ」
雑賀はジョナサンに声を掛けた。
ジョナサンは雑賀を恨めしそうに見上げてから膳の上の丼に目をやった。
一拍後、ようやく諦めがついたのかジョナサンは立ち上がってベルトをつけた。
雑賀はジョナサンを追い立てるようにして廊下に出した。
ジョナサンに続き自分も部屋を出ようとしたところで雑賀は思い出し足をとめて主人を振り返った。主人に歩み寄る。
「そうだった。迷惑ついでに頼みがあるんだが、これを代わりに出してもらいたい」
雑賀は懐から手紙を取り出すと拒もうとする主人の手の中に無理矢理ぐいっと押しつけた。日本に着いてから出すために航海中に
主人は手紙を雑賀に突き返そうとしたが雑賀は素早く身を翻して廊下に出た。
「江戸城の勝海舟宛だ」
雑賀は捨て台詞のように主人に言った。
雑賀の言葉に雑賀を追おうとする主人が動きを止めた。
恐る恐るといった口調で確認する。
「軍艦奉行並の勝様ですか?」
「おー、よく知ってるじゃないか」
雑賀は意地悪く大げさに微笑んだ。
「届かなかったら幕府からきついお叱りがあるだろうな。焼き打ちどころか、もう、この店を開けてなどいられなくなるはずだ」
初めて主人の笑みが崩れた。主人は必死で手紙を江戸城に届けるに違いない。
「頼んだぜ」
雑賀とジョナサンは店を後にした。
11
アメリカ合衆国の二代目駐日領事、ロバート・ヒューソン・プリュインは痩せている上に背がひょろりと高い針金のような体格の男であった。
額の生え際は後退しているが、もじゃもじゃとした髯が顎と口の周りを覆っている。
プリュインは初代領事タウンゼント・ハリスの後任として文久二年三月二十七日(一八六二年四月二十五日)に来日していた。
着任以来の公使館は江戸麻布の
攘夷派浪士による襲撃を恐れた他国が一様に公使館を江戸から横浜へ移しても一貫して善福寺に公使館を置き続けた前任者ハリスの意志を継いだのだ。
善福寺は浄土真宗本願寺派の
関東一円に真言宗を広めるべく天長元年(八二四年)に弘法大師が開山したのがもともとだが、鎌倉時代に寺を訪れた親鸞聖人の高徳に傾倒し一山を挙げて浄土真宗へ改宗したという歴史を持っている。
とはいえ、つい一月ほど前の文久三年四月七日(一八六三年五月二十四日)に善福寺は原因不明の出火により焼失していた。浪士による放火とも自身の火の不始末とも思われたが、結局、原因はわからずじまいだ。
プリュインは善福寺に向かう参道沿いにある同じ浄土真宗本願寺派の
プリュインの執務室は真福寺の本堂に併設して建つ居住用の棟の一画にある。
もともと畳敷きであった部屋を急拵えで板敷きに改装した執務室は、執務用の小さなテーブルと椅子の他に来客用のテーブルと椅子、それから棚がいくつかあるだけの殺風景な部屋であった。
文久三年五月十七日。応対に出た中国人の召使いに連れられ、近頃、来日したという、アメリカ軍艦の船長と通詞がプリュインのもとを訪れた。
プリュインは自身の椅子に腰を掛けて本を読んでいるところであった。中国人召使いはプリュインに来客を案内した旨を告げて席を外した。
プリュインは召使いの言葉に鷹揚に頷いたが本から目を離そうとはしなかった。
マシュー・カルブレイス・ペリーが記した『日本遠征記』だ。
言わずとしれた日本開国の立て役者ペリー提督の著書である。事務引継ぎの資料の一つとしてハリスがプリュインに残していった本であった。
プリュインは着任以来すでに何度か、この本を読み返していた。日本人相手の駆け引きの参考書として役に立つ。
ハリスからは日本人を相手にする際の注意事項として、さも自分には絶大な権限があるかのごとく尊大に振る舞い、些細な問題でもすこぶる難題であるかのように取り扱うよう助言を受けていた。
その後、難題の解決のため如何に自分が尽力したかを力説して相手に恩を着せるのだという。
プリュインは、もともとオランダの名家の出身で米国ラトガース大学の理事を務めたこともある経歴の持ち主だ。
しがない陶器商あがりにすぎないハリスの助言を受けるまでもなく高学歴な学識経験者にありがちな錯覚で他人が自分に従うことは当然のことだと信じていた。少なくとも軍人風情に振り撒く愛想など持ち合わせてはいない。
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