第3話 赤かんざし
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横浜村は全体が人の背丈の倍もある高い板塀によって囲まれていた。
居留地と居留地の間にもまた高い板塀が設置されている。
それぞれの居留地内では、さらに通りと通りが交差して作られる区画の単位毎で板塀に囲まれ細かく区分けされていた。
区画から区画へ移動をするためには通りごとに設置されている木製の門を通る必要がある。日中は開放されているが夜間は完全に閉鎖されて安易な往来はできなかった。
外国人と日本人の間の無用な揉め事を防ぐためであると同時に、ひとたび事件が起こった場合には犯人を現場区画内に閉じこめて捕えやすくする。板塀の設置目的は、これである。
実際に、そのとおりに門が管理されているのであれば有効な仕組みだろう。だが、時として門番は所定の場所にいなかった。
いたとしても小金を渡せば見返りに何も目撃しなかったことにできるという、もっぱらの噂だ。
先に殺されたイギリス領事の通詞殺害の犯人も、まだ捕まってはいなかった。
雑賀は板を打ち付けて作られた観音開きの大きな扉が開け放たれた門を抜け日本人居留地の中に入った。
取り調べのような行為は何もない。
門番らしき小太りとのっぽという組み合わせの二人の男が通り過ぎる雑賀をちらりと見ただけだ。
雑賀は簪売りから美味い飯を食わせる店の場所を聞きだしていた。
日本人相手の美味い店は、やはり日本人居留地の中である。
日本人居留地には雑賀のよく知る日本風の家屋が建ち並んでいた。
道の左右や家と家の境界部分には、よく手入れをされた人の背丈ほどの高さの生け垣があり濃い緑色の葉を茂らせていた。
雑賀は道に沿って進んだ。
行き交う日本人たちは雑賀を好奇の視線で眺めながらも道を譲った。
雑賀を好奇の目で見るような日本人連中は、雑賀とすれ違った後には振り返ってまでも雑賀の様子を目で追ってくる。
だが、時折ちらほら好奇とは違う種類の視線が自分に向けられているのを、雑賀は感じていた。
何らかの目的があって雑賀を見ている者がいるのやも知れぬ。
何らかの目的とは具体的には攘夷だ。
『確かめてみるか』
雑賀は、わざと人混みを外れ道を折れた。人通りの多い大通りではなく、通常はその路地に面した家に住む人が自分の家へ行くためだけに使うような細い路地だ。
両脇を生け垣に挟まれた路地の幅は、かろうじて人がすれ違える程度の広さしかなかった。
前方に人通りはまったくない。
その途端、背後から駆け寄る複数の足音が聞こえてきた。
音にすら殺気が籠もっている。
チャンスと見るや即座に襲いかかってきたのだ。
雑賀は苦笑した。
『目的が露骨にわかりやすくて実にいい』
雑賀が振り向くと三尺手拭いで作った頭巾で顔を隠した数人の男が抜刀し、雑賀を目がけて駆け寄ってくるところだった。
先頭に立つ男が声高に叫びを上げた。
「待てぃ!」
「嫌だね」
雑賀は逃げだした。追われるままに細い路地を疾駆する。
全身に金属製の薬莢を身につけているにもかかわらず、雑賀のほうが刺客よりも足が速かった。追いつかれずに距離を開けていく。
道は前方で、まっすぐと右への曲がり角に分かれていた。
まっすぐ先からは刀を抜いた別の志士が数人、駆けてくる。
むろん、狙いは雑賀である。
雑賀は生け垣に身を擦らんばかりにして右へ曲がった。直後に立ち止まる。
雑賀の目の前に抜刀した志士が立ち、抜いた刀を振りかぶっていた。
全速力から急停止するため、雑賀は両腕を左右の生け垣に突っ込んで、その枝を握りしめた。
雑賀の手の中で葉がちぎれ、擦れた枝で、擦り傷ができた。
振り下ろされた志士の白刃が雑賀の眼前で空を斬った。
立ち止まらなければ一歩後には雑賀がいたはずの場所である。
頭巾を被っているため志士の顔はわからない。目だけが見えていた。若い男だ。
男は腰に朱色の鞘を帯びている。
藤田小四郎だ。
振り下ろされた小四郎の刃が動きを止めた。突きへと変化して雑賀を襲う。
雑賀は右へ跳び、生け垣を突き破った。
跳躍の勢いのまま、そう広くもない民家の庭で前転をする。
片膝をついて起きた時には雑賀は両手で拳銃を抜き放っていた。同時に銃声。
小四郎の刀が半ばから折れて吹き飛んだ。
雑賀の右手に握られた拳銃の銃口から紫煙が上がっている。
雑賀により、へし折られた生け垣の裂け目から、路地に立ちつくす小四郎の姿が見えていた。
その他の志士たちも合流したようだ。
生け垣の向こう側に複数の人の気配があった。
雑賀の銃口は志士たちの気配に向けられている。
「俺に用かい?」
雑賀は、ごく何気ない口調で生け垣の隙間から見える顔に問い掛けた。
小四郎は答えない。
雑賀も答を期待して問うたわけではなかった。
「銃声で役人がやってくるぞ。それとも、このまま続けようか?」
気配に向かって撃ち込めば弾丸は生け垣を貫通して志士たちに当たることだろう。
生け垣越しでは体のどこに弾を当てられるかはわからない。
それでも志士たちがこれ以上しつこく雑賀を斬ろうとしたところで刀が届く範囲内まで相手を近づけるつもりは、雑賀には一切なかった。
ごり押ししてきたら言わずもがなだ。
頭巾から唯一見えている小四郎の目玉が
「退けっ!」
小四郎は同輩に短く指示を出した。
生け垣の裂け目から小四郎の姿が消えた。
その他の志士たちも後を追っていく。
足音が去り、完全に志士たちの気配はなくなった。
雑賀は立ち上がり両腰のホルスターに銃を納めた。
雑賀は民家を振り返った。
すぐ目の前に縁側がある。
戸が全開に開け放たれているため民家は中の様子が丸見えだった。
縁側からつながる畳敷きの部屋に丸い金属製の鏡がついた鏡台が置かれていた。
人並み以上の暮らしであれば、どこの家にも一台はある嫁入りの際の持ち込み家具だ。
この家の奥方と思われる婦人が豊満な胸元を大きくはだけて白粉で肌が真っ白に見えるよう化粧をしているところだった。
雑賀より明らかに若い婦人は、突然、湧き起こった乱闘騒ぎに化粧の体勢のまま凍りついていた。手に化粧用の布を握ったままである。
「失礼」
雑賀は素知らぬ風を装うと胸ポケットから赤いガラス玉の簪を抜いて縁側に置いた。
次の瞬間、雑賀は素早くきびすを返すと生け垣の裂け目を抜けて路地に出た。
足元に折れた小四郎の刃が落ちていた。
雑賀は腰を屈めて刃を拾った。
きらりと陽光を反射した刃に雑賀の顔が映り込む。
無表情を装ったつもりだったが心なしか鼻の下が伸びていた。
後にした民家から今頃になって婦人の悲鳴が高く上がった。
脱兎のごとく、雑賀はその場から逃げだした。
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