56 皇帝はホリーの存在を知る
皇帝アイザック・ヴィクトリアスは今日も執務を終え、趣味の絵を描くために私的な部屋に入ると、そこには彼の息女セルマが待ち構えていた。皇帝は第一皇女セルマに特に皇帝家に関わることの補佐を任せている。第一皇女も報告がある時は基本的に皇帝の執務室に
皇帝は部屋にある椅子に腰掛け、セルマにも座るように
「セルマよ。何かあったのか?」
「はい。アルバート王子が聖女らしき少女を保護しているようだと、フィリップ兄上から報告がありました」
「……それは
「アルバート王子とフィリップ兄上はその少女が聖女である可能性が高いと考えているようです。そしてアルバート王子を監視させている密偵からも、しばらく前からアルバート王子とヘンリー・エイデンが、ホリーという名の少女を
聖女の出現。それは魔王軍との大決戦が近づいていることを示すものだとされている。セルマが内密に報告しに来たのも当然だ。それ以前にアルバート王子のことも
なお皇帝はアルバート王子を冒険者から引退させて帝都に呼び寄せることを考えていたのだが、王子に与える役職の候補を考えてから呼び寄せるつもりだった。当面は名誉職を与え、王子の能力を見極めてそれにふさわしい役職を与えようと考えていたのだが。
皇帝はセルマを介してフィリップからの報告を聞く。そして報告を聞く限り、その少女は聖女の可能性が高いと判断せざるをえなかった。
「フィリップ兄上は、その少女はしばらくアルバート王子に同行させ、冒険者として鍛えさせるのが良いのではないかと提案しています。少女が生き残れるように」
「ふむ……よかろう。だが、アルバート王子に遠距離通話用のアイテムを持たせるべきだ。いざという時はすぐに聖女を呼び寄せられるように。王子を監視している密偵に接触させても良いが、より確実を期したい」
「承知しました。二重の方策を用意するべきと私も考えます。フィリップ兄上はアルバート王子と少女を自分の所に来させて会ってみたいと言っています。その時に渡すように伝えますか?」
「それでよかろう。今のところ緊急に聖女の力を必要とする状況にはなっておらぬ。すぐにその少女を呼び寄せる必要はない。まずはその少女が生き残れるようにするべきであろう。戦場でも、そして人間同士の愚かな争いに巻き込まれてもな」
「承知しました。フィリップ兄上は少女をアルバート王子と共に冒険をさせながら、父上に
「それでよかろう」
皇帝もフィリップの言い分に理があると認めた。皇帝も聖女の伝説は悲劇で終わることは知っている。よりによって善神に聖女として選ばれた少女が不幸な
皇帝には個人としての善意だけではなく冷徹な計算もある。人類の希望たる聖女が討ち取られては困るのだ。聖女なくとも魔王軍の侵攻をはねのけた例は帝国の建国にまつわることとして前例はある。だが今回も大丈夫と考えるのは楽観的に過ぎる。聖女には戦い抜いてもらわねばならぬのだ。無論騎士団には聖女を守らせるが、それで聖女を完璧に守れる保証などなく、聖女にも自分自身の身を守る力があるに越したことはない。
「戦いの後、その少女が穏やかに暮らせるよう、手立ても考えねばな」
「はい」
そして戦いが終われば聖女には穏やかに暮らしてもらいたい。生活の支援は十分にするし、栄達を望むならばそれもかなえよう。善なる者たる聖女が
それが皇帝の人としての善意である。皇帝にも聖女を利用しようという考えはあるが、それは民を守らねばならないという統治者としての善意である。その上で皇帝は聖女に選ばれてしまった少女が不幸になることは望まない。
「フィリップ兄上からは
「うむ」
フィリップが情報収集を指示し、それが皇帝にも報告されていたのである。酷い被害が発生していることに皇帝は心を痛めているのであるが。彼はもっと早く旧チェスター王国の貴族たちを排除しておくべきだったと後悔している。後悔するだけではなく、残っている旧王国の貴族たちのうち無能な者共、つまり大部分をすげ替えるように準備も始めさせているのだが。
帝国が任命する後任の者たちが高潔で有能であるとは限らないのは、残念な事実ではある。帝国にも高潔で有能な人材がいくらでもいるわけではないのだ。不正を行わないだけで
「フィリップ兄上は旧王国領北西部にさらに増援を送ろうとしていますが、南西部に派遣した騎士団から騎兵隊を分離させて向かわせることも考えているそうです。そこにアルバート王子と聖女らしき少女を同行させたいと。それをもってその少女が聖女であるのか
「許可する。フィリップにアルバート王子と少女にその
「承知しました」
「ただ、その少女はまだ大人にもなっていないのであろう? それほどの規模の戦いにはまだ巻き込まれたくはないと申すなら、依頼を拒否することを許可するとも伝えよ。アルバート王子の意見も聞くようにな」
「承知しました」
旧王国領北西部の状況はまさに壊滅的としか言いようがない状況のようだ。そちらから妖魔共の大軍勢が別の地域に進出して来る恐れもある。そうなる前に妖魔共とそれを指揮しているであろう魔族を討伐しなければならない。
旧王国領南西部でも妖魔共は魔族が指揮していたのであり、北西部にも妖魔共を指揮している魔族がいると考えるのが自然だ。そもそも妖魔共は
魔族たちの目的は妖魔共の
用件はこのくらいであろうが、皇帝は
「セルマよ。何か言いたいことがあるのか?」
「は、はい。父上。父上は先日、私とアルバート王子を婚姻させることも考えると
「言ったな」
「アルバート王子がフィリップ兄上の元を訪れた時、それをアルバート王子に私の口から言ってもよろしいでしょうか? できうることなら私が転移でカムデンまで
皇帝には
「セルマよ。何を焦っている?」
「……聖女らしき少女は、アルバート王子とずっと一緒にいたいと申しているそうです」
その皇女の言葉に皇帝は納得する。この娘は聖女にアルバート王子を取られるのではないかと焦っているのだ。皇帝にも
そしてセルマをアルバート王子と婚姻させることには政略的なメリットも大きい。アルバート王子をセルマの
「余がアルバート王子をそなたの
「承知しました」
セルマは普段のいつも冷静な様子からは信じられないほど、どこにでもいる小娘のように喜びを隠していない。それだけこの娘はアルバート王子に
パトリックもフィリップも己らが帝位に就く器ではないと自覚し、セルマを次の皇帝にするべきだと言っていたから、あの二人もセルマの補佐をすることに異を唱えないであろう。その周りの者共はそうとは限らないが、それを押さえ込む程度の器量はあの二人にもある。
そして皇帝家の者が側室を持つことは珍しくはない。特に皇帝ともなれば
「セルマよ。その少女に皇帝家の一員になる覚悟はあるかも聞いておくがよい。皇帝家に入ればいささか
「承知しました」
聖女をアルバート王子の側室として認めることには問題はあるまい。その少女がアルバート王子を愛していて、王子もそれを受け入れるならばだが。王子の側室としてその少女を認めるのも、たとえ村娘出身であっても聖女ならば格は十分だ。
「そしてその少女とアルバート王子の間に子が生まれるならば、その子にチェスター王国を復興させて王位につけるという手札も手に入れられるかもしれぬ」
「はい。帝国も大きくなりすぎれば、統治が行き届かなくなる恐れもあります。旧チェスター王国領では帝国に
「うむ」
その少女とアルバート王子の間に子が生まれようと、その子に帝位継承権を与えることはできない。だがチェスター王国を復興させて王位をその子に与える選択肢を獲得できる可能性はある。それならば旧チェスター王国の民も納得するであろう。セルマとアルバート王子の子に王国を与えることは、実質的に帝国傘下に入ると考えられて民は納得しないかもしれない。旧チェスター王国の民は帝国に不満を
なお皇帝はアルバート王子に、旧王国の亡きロドニー・エイデン将軍の娘で
「セルマよ。皇帝家の者たれば、民を思わねばならぬ。民を思わず暗君、暴君に至った皇帝は、いずれ転落するのみよ」
「はい。承知しております」
「お前たちも幸せになり、民も幸せにせねばならぬ」
「はい」
くどいと思われるかもしれないが、皇帝はことあることごとに家族たちにこのように語りかける。そして彼の家族たちはそんな皇帝を尊敬しているのだ。
皇帝の本音は、家族たちにも民にも幸せになってもらいたいというものだ。彼は不幸になる者がいるのは嫌なのだ。せめて手の届く範囲の人々には幸せになってもらいたいのだ。それはヴィクトリアス帝国という大国の皇帝としてはあまりに
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