母親の夢魔

母親の夢魔

 ……夢の話をしよう、僕と母さんのこれからのためにね。


 その時僕は自分の部屋で、壁にかかった世界地図を眺めていた。足元は妙に曖昧で、『壁にかかった世界地図』だけが視界の中で唯一忠実に描かれている。そのふわついた気配が僕に、そこが夢であるということを気づかせた。印象派絵画のような情景の中に浮かぶその地図は、その相対的なリアルがそうさせるのかだんだんとそれ自体が前に前に膨張してきて、やがて怪物のように、僕に食らいつきそうな感じがしてきた。ふと感じたそれへの苛立ちは、僕の右手を不意に振り上げ、その振り上げられた右拳の中でダーツとなった。ぐうん、近づいてくるその地図に放った一発は、その中心に刺さった。

 その瞬間、地図は壁に貫通した四隅の画鋲を破壊し、大きく広がっていった。地図は僕を覆い囲んでいく。ダーツの刺さったところには何か国名が書かれていたが、よく見えなかった。

 国境線近くの緑色の丘に刺さった、ダーツのチップの穴が大きくなっている……いや、違う。地図自体が大きくなっているのだ。僕に向かって拡大していく地図、あるいは地図に向かって縮小する僕。丘は平地となって、僕の外に広がっていく。緑が少しずつ明らかになっていく。黄緑、緑、深緑、黄色、黄土色、茶色……大地の風味が、徐々に見受けられるようになると、思いつくのはただ一つ。それはつまり、自分が落下しているという事実についてだった。そういえば、髪は風に靡いて宙に浮かんで行こうとしている……僕は自分がもうすぐ体験する夢の展開に少しばかりの期待を寄せつつ、今自分が経験している爽やかな風に目を瞬かせた。

 


 激突した。地面に当たって全体が砕け、とてつもない痛みが体に走った。死を意識した。その瞬間は僕の心に、これが夢でないのではないか、あるいは夢の外で、僕の身に大変なことが起こっているのではないかという疑念を抱かせた。このまま意識が途絶えて、死んでしまうのではないかという突然の不安、衝撃、恐怖を感じて、冷や汗をかいている心臓が、密かに震えた。どこまでも続く目の前の地面が、僕の視界を青空と揃って、縦から右左にニ分していた。緑と青の綺麗な光景のはずなのに、そう感じることができない。痛みはいまだ、体の節々、そして胴の前後にうようよしている。草原が生柔らかい風に吹かれる。

 逆に言うと、ここが極楽浄土の可能性もあるが、それがこの痛み、体が心臓以外全ての機能を損失したような状態をもたらすなら、それは極楽と言えぬので、もしや地獄かとも思えば、それにしては穏やかすぎるとつき、どっちつかずの気分となり、それはやはり僕を苛立たせ、体の痛みを助長するのだった。一呼吸おき、そのタイミングで、僕は一つ感じた。体の一部が、妙に元気を増していく。……本能というのは、こういうことか。青空に体を向くことすらできない。目の前では、二分された右側の緑で、そこに引っ付いたバッタが二匹、艶かしい交尾をしていた。僕は一気分として、とても興奮した。

 バッタのそれは、いかにも過酷であった。というのも、気づけば、その頭上には一匹のタカが飛び回っているのだった。過酷なのは自分も同じだが、死にかけているのに交尾にありつけていないので、その点で僕の方に軍配は上がるだろう……不幸という点で。しかしながら、僕の硬直した特定の部位において、そして部品において、心外ながら、その脈動が僕の心に伝えるのは、果てしないそれへの欲望ただ一つである。バッタの目は虚ろで、僕の目は、涙で滑り輝いていた。タカが低空飛行を続ける。

 涙がきつくて、立て続けに瞬くと、タカがアニメーションのように、パパパとこちらに飛びかかってきた。……ここが死に際か? あるいは、夢から覚めるのか? ……しかしタカは俺の真横、つまり目の前の草を少し掠って大きく這い上がった。放物線の軌道には、バッタの亡き後に揺れる草むらの凹みがある。

 バッタが二匹、タカに食われた。しかも、交尾中に。食ったタカはいまだ、空の真ん中にとどまり続けている。僕の目をまっすぐと捉え、とどまり続けている。僕はやはりそれを眺めるままで、部品をどくどくとさせている。カオスでしかない。僕はひどく混乱した。しかしその中でもいまだそれがそうなっている関係上、腹の辺りの疼きも健在なわけで、それによって僕の感情は何か、僕なりのアマゾネスが、大きな獣との戦闘に感じる昂りに近いような立場にあった。緊迫感があったし、死の雰囲気も、……全身の痛みを除いても……相当に高い。緊迫……死ぬかもしれないスリル。僕はタカとの視線の交わし合いで、そのハラハラした感情に身を預けていた。

 しかし、拍子抜けだった。というのも、タカはタカではなかったのだ。これだから夢は夢なのだ、とそう思った。叱りつけたくなった。こんな素っ頓狂な展開は、犬も食わない。そりゃ、タカがバッタを食う世界にもなるよ……実際のところ、それは全く期待外れで、これが夢であることを僕に実感させる事物であった。

 ……出だしは好調だった。ピシャっと風に乗ってきたタカが僕のところに迫り来て、今にその爪で捉えようとしたのだ。その瞬間である。

 爪は平らな足の裏となり、腹は薄黄色に変色した。かと思えば、毛が抜け落ち、俺の突っ伏した体の上には、一人の人間しかいない。ずっしりとした体重。それも特に特徴があるわけでもない、よく言って無味無臭、悪く言って附子の女である。つまらない。夢にしてはあまりに不愉快で、凡庸である。裸の女……僕の体調にそぐわないわけではないが、僕はその時までただアマゾネスであって、その裸体に全くそそらないのもまた事実だ。

「は?」

 ついに声が出た。僕はこれまで、どんな夢にも口出ししたことはなかった。夢なんぞ、所詮夢だからだ。しかし、今回は違っていると思ったのだ。体は痛むし、バッタは交尾を生き生きとしているし、タカは格好が良かった。本当に芸術性があって、それでいて素朴な、夢らしくない夢だと感心していたのだ、僕は! ……その声に、僕の背に跨った女は困惑するように反応した。

「なぜ怒るのですか……」

 君はこれだから……全く。僕はその惚けた顔の附子が僕の上にいること、それ自体はどうでも良いのだ。夢の中で彼女が僕の上にいる関係において、夢が仕組んだ彼女という存在が、その想像主である僕という存在に感情を見せるとは、これいかに矛盾したことだろうか。そういうところで、僕はさらに夢に苛立った。白々しい奴め! それはもう、僕自身への憤りにも等しかった。僕はなんて粗雑な夢を見ているのだろうか。

「……」

 しばらく沈黙が続いた。夢で沈黙とはこれいかに、そういう気持ちになった。沈黙が僕の背骨に重くのしかかり痛みとして顕現する。耐えられなくなって、ついに口を開く。

「君は一体何なんだ」

 女の唇からは、何も発音されない。汗が背中に沁みてくる。

「動けないでしょう、ひとまず私の家に連れて行きますから」

 何か切り替えたのか、女は再びタカに変身して、爪で僕の背を抉った。そしてその窪みに引っ掛けて、飛び立った。

「痛い、痛い痛い」

 風と汗が傷口に染みるので、背中はいっそう痛み出した。関節や筋もまるで作り物のようで、依然駄目である。三分ほど経つと、意識は遠のいていき、五分ほど経つと、おおよそ失神していた。夢の中で失神するとは、夢にも思わなかった。


 起きるとそこは、家の中である。木造らしき小屋に、僕はベッドで横たえていた。未だに体は動かない。「それ」はまだそれだし、現状は全く変わっていなかった。しかし、もしや、自分でこの夢を見ているというのは、全くの事実無根なのではないかという考えが、浮かび始めていた。あの女が、なんらかの形で僕に催眠をかけているのではないか……それなら、現状の説明は容易い。

「起きましたね」

 僕は見て驚愕した。そこには女がいた……が、幾分格好が変わっていた。なんとその女は、下着のみを着用していたのだ。裸ならまだ分かろう、夢の中の住民は、(本当の意味で)裸族なのかもしれない。あるいは、あの興醒めな変身のために、裸であることが条件かもしれない。しかし、一度裸にあって、次に下着だけを着ているとなれば、それはあの女には貞操観念があって、なおかつ、あの様子だということになる。それは証左である。つまりその女が、僕に対してある種の魅惑的趣向……誘惑を働こうとしているのではないかということだ。

「そうです」

 とは言えども、僕は女に全くその気が起きなかった。無味無臭の空気を見て興奮できる人間がいれば、それは間違いなく異常者だろう。それと全く同じ話だ。

「……ですがねえ」

「なんだ」

「私だってこうする理由があるんです」

「ほお」

 女は釈明の機会を求めた。一方で、それは僕へ、ある宣告の予感を生じさせていた。


「私は夢魔と言います。知らないかもしれませんが、私たちだって食わなきゃあ、やってられません。それも男の精力ですよ! 随分と不味くて食いたくもないようなもんでね」

 夢魔というのか……そんなもの、食わなくて結構じゃないか。タカになれたりするんじゃあ、たくさん食べられるだろう。

「そんな簡単におっしゃいますがね、私たちは夢の中でしか生きて行けないのです。夢には……日本人なんかは特にそうですが……大層なものばかりしかなくて、そう簡単には飯にはありつけないのですよ。あんたが見てた気持ち悪いバッタなんか、今でも吐きそうになります」

 それで精力を食うのか? あまりに馬鹿げている。もっと効率のいい方法なんて、いくらでもあるだろう。

「人間だって、原子力なんて凄いもので、タービンを回してるだけじゃないですか」

 そりゃそうだが、ならせめて僕だけでも助けてくれよ。他に威勢のいいやつなんか、沢山いるじゃないか。

「お腹が空いてたら、イナゴでも食べるのが当たり前の話です。それしかないのだから仕方がないですよ」

 イナゴ呼ばわりとは失礼だな……ところで、その精力とやらが取れれば、僕は解放されるのか?

「もちろんですよ」

 じゃあそれはつまり、僕はお前としなければならないと。「それ」をしなければならない……

「当然」

 …………。


 

 ふと気づいた。女の顔は、……僕の母親の顔だった。

「おい、なんて事してくれる」

「なんですか、また急に」

「顔が僕の母親じゃないか」

 夢魔は少し考えたようにしてから、

「しょうがないですよ、あなたの記憶にある鮮明な顔は、これくらいしかないのです」

 と言った。

「他じゃ駄目なのか」

「父親、祖母、祖父、兄、あとは叔父伯母くらいは記憶にあるようですが」

 それじゃあ何も変わらないじゃないか! 無能な夢魔め……人になにか物を頼むなら、人気女優の一人や二人くらい連れてくるのが道理というやつだ……

 僕は自分の現実的な立場が悲しくなった。

「そんなことを言っても、用意できないものは仕方がないでしょう。あなたの自己責任です」

 だからと言って、いくらなんでもこれはいけないし、できない。

「もう、なんでもいいから、動物とか……そうだ、さっきのタカでも、この際いいよ。被り物をしていると思えば無理なもんでもない」

「私の方が無理ですよ、あなた動けないでしょう」

「動かせるようにしたらいい」

「できません」

「なぜ?」

「逃げ出されると困りますよ」

「……大体夢魔の分際で、なぜ誘惑の一つも十分にできないんだ」

「資格が取れなくて……」

 資格? ふざけているのか! この低能夢魔めが……僕はとんだ被害者じゃないか、なぜこんな惨めな思いをしなけりゃならんのだ。

「お前の努力不足じゃないか、資格なんぞぱっと取って仕舞えばいいだろう」

 すると、僕の叱責か、怒りに従って、夢魔はすっかり泣き出してしまった。

「とは言っても、私だって一流の悪魔になりたかったですよ。そりゃあ……もちろん」

「は?」

 夢魔は突然に語り出した。

「昔は秀才とよく言われましたよ、でも母さんが離婚してからもう……」

「君ね、僕とそれになんの関係がある」

「貧乏で、暴力も振るわれたし……」

「あの……」

「本当は、夢魔なんてなりたかぁなかったのです。私がなりたかったのはもっと立派なのだ」

「随分言ってるけど、」

「受験には落ちたし、かと思えば、母さんは私を夢魔に売りに出した」

「だからね……」

「あなたの自由は私しか知らない……しかしね、私だって自分の自由は知らないんです。成果報酬制だと、他の資格持ちにはとても敵わない。だって奴ら大卒のエリートたちですよ……生活は苦しいばかりで」

「僕は君じゃないんだから」

「資格だって、そんなにぱっと取れるわけがないでしょう。倍率は五倍ですよ。それに、私には、もともと学がないのです」

 ……僕は身の危険を感じた。このまましばらく起き上がれなけりゃ、僕は死んでしまうのではないだろうか。配偶者や家族はもちろんいないし、親も滅多に家には来ない。どうやら、……いつからか気づいてはいたものの、やはり、この夢は夢魔によってしか明かされないらしい。自暴自棄になってこのままでいられると、随分困ったことになる。

「まあ、分かった……僕が悪かったよ。一旦状況を整理しようじゃないか」

 夢魔はムスッとした顔をしつつも、僕の態度に免じてか、なんとか落ち着きを取り戻したようだった。

「……君は不幸なことには違いない、それは僕にもわかる。しかし、まだ若いじゃないか。夢魔になって日も浅いだろう。まだ間に合うんだ、気を持ち直して資格の勉強をしよう。奴らを見返さなきゃ、気が済まないところまで君は追い上げてきているのだ」

 未だ、やや反抗的な態度だ。

「まず、食い物は今出してやる。とても美味しいやつだ、君も気に入るに違いない。で、付き合ってやるから、たまに僕のところに来るんだ。美味い鴨がいるんだって言ってね。いいだろう。それで手打ちにしよう」

 取り敢えずは食料の安心ができたのか、夢魔は顔の表情を緩めた。

「分かりました。ありがとうございます、こんな、どうしようもないのにかまってくれて」

「いいんだよ……」

 夢魔には、体が動けば何発でも蹴りや拳を喰らわしてやりたい気分だった。

「ほら、じゃあ食事は出してやる」

 すき焼き、牛丼、ラーメン、バーガー、うどん、寿司、餃子……一生懸命に考え、想像した。すると、画像の解像度が上がっていくようにして、印象派の背景からじわじわとそれらが出てきた。

 夢魔は、自分が半ば脅してきたようなものなのに、何かもじもじと恥ずかしそうにして、恐る恐る箸に手をつけた。

「美味い……美味い!」

 僕は憤っていた。純真ぶっている奴の態度は、馬鹿丸出しだった。こんなものに俺は生殺与奪権を握られているのか? 悔しい気持ちが溢れてくる。そのうちに、夢魔はやがて全てを完食した。


 食い終わった時に、夢魔はニヤリと笑っていた。

「ほら、約束は守ったろう。解放してくれ、元の僕の夢の中に」

 惚けた顔をしている、母親の臭いがついたその顔で。

「しかしね、やはり『それ』は必要なのです」

「何を言うんだ。約束が違うじゃないか」

 ヒヒヒヒヒ、と笑い上げて見せた夢魔は、僕の方に母親の顔を近づけて、こう言った。

「手回し発電機では、電気自動車は動かないのです。やはり、『それ』なしには駄目なのです」

「じゃあ、今の泣き落としみたいなのはなんだ! まるっきり嘘だったのか」

「もちろんです。夢魔とはいえ、所詮悪魔の端くれですから」

 酷い話だと思った。思えば、馬鹿みたいな言い分ではあった。資格がどうだの大学がどうだの……あまりにも人間にとって恣意的すぎるだろう。でも僕の判断は決して間違っていなかったと思う。あのまま僕が徹底的に反論をし続けていたならば、夢魔はやがて僕に見込みがないことを知り、さっさとことを済ませ、そのまま去ってしまっていたはずだ。や……つまり、こんな奴に握られていたのか……どちらにせよ、屈辱は避けられないことだった。

「あとは、契約についてもひとつ言わないといけないことがあります」

 契約? なんのことだか見当もつかない。

「つまり、私があなたの夢に、好きな時に入り込める契約です」

「そんなことは言っていない!」

「いいや、言いました。『付き合ってやるから、たまに僕のところに来るんだ。美味い鴨がいるんだって言ってね。いいだろう。それで手打ちにしよう』とね」

 僕のその時の声そのままに言った。

「こんな脅迫みたいなので結んだ契約なんて、無効だ!」

 夢魔は小屋の扉に手をかけた。

「それでよろしければ……」

半分開いたドアの奥には僕の部屋が映っている。

「分かった……契約成立だ」

 僕はやむなく同意した。

「週に一度は来て、あなたと『それ』をします。しかも、あなたの母親の姿でね。……もちろん快楽はありますし、疲れも出ます。次の朝には、洗濯にも苦労する羽目になるでしょうから、オムツでもつけるのがいいかもしれません……」

 ヒヒヒヒヒ、と笑った。なんのつもりなのか、わからなかった。楽しんでいるのか? 僕を辱めて、歪めて、それで気分は満足で、食にもありつけ……いいこと尽くしというわけか、この寄生虫めが!

「しかし、こちらもできれば末永い付き合いがいいと思いますから、そうですね、何曜日に来るとか、そういうのはこちら側も譲歩ということにしましょうか」

 もう、僕の手から遠く離れたところに論点はある。怒りを越して呆れが強まってきた。

「土曜日がいいね。お願いするよ」

「分かりました、そうしましょう」

…………。



 二ヶ月が経った。僕はきっちり毎週欠かさず『それ』を行った。その行為は、本当に、最初のうちは全くの拷問だった。泥のついた布を糞で洗って干したような気分が、目の前で果てしなく広がり、唾痰や何かの噴出物に係る臭いのきつさというのも、本物に相違なく感じられた。嫌悪感は快楽と元々の背徳感、ともに作用して巨大に膨れ上がり、僕自身への存在否定、そして夢魔への果てしない恨みとしてさらに増長していった。

 しかし半ばを過ぎた頃には、これは単なる夢であると気づいた。本当に母親としているわけでもないのだから、こんなに嫌悪しなくてもいいじゃないか。むしろ、現実では到底体験できない貴重な体験だとも言える。……そうなると話は早い。僕もそのことに満更でもなくなっていった。むしろ、嫌悪感は僕の興奮を助長し、背徳感は身震いするような悦楽へと翻り、僕の心が、躍動する夢魔の母親に浸っていくのが明確に分かった。段々とその顔は絶世の美女に感じるようになった。声帯から、耳の溝までが全て人の所業とは思えないほど、正に悪魔的な魅力を発散していた。僕は夢魔との関係の中で、……着実に実の母親へ思いを抱き始めていた。

 


 今日の昼、僕の母親が家に訪れることになった。何、今に始まった話ではない。進学で県外に出てからというもの、三ヶ月に一度は彼女は僕の家に訪れる。しかし、そう思ってもやはり、頭に浮かぶのはある一つの騒めきだ。八夜に上る狂騒、夢魔の面に張っついた軟骨と唇……身の火照り。芯から来る温もりが、悪魔を呼びつけている。

『手回し発電機では、電気自動車は動かないのです。やはり、『それ』なしには駄目なのです』

 アマゾネスはもういない。もっと生ぬるい、気の滅入るような昂りが、僕に語りかける。……入念に準備するといい。そうすると、きっと成功するさ。

 僕は朝のうちに三回家を掃除し、風呂に三回入った。耳かきを入念にし、歯磨きと歯間ブラシを常に咥えながら、普段着ないようなシャツとズボンにアイロンをかけ、着て、そのまま母親のくる空港に向かった。途中に酒屋に寄って、中でも高級な物を仕入れた。高級感のあるラッピングをしてもらった。これで完璧だと思った。香水もつけようと思ったが、全くの知識不足によって断念したこと、それのみが残念だった。

 空港で母親を見つけた時は、胸が跳ね上がった。手を振ると、少し困惑した彼女の目尻がきらりと光っている。……


「夢の話をしよう」


 僕は彼女が向かいに座った自宅のリビングで、ご馳走の並べられた机から椅子を少し引いて、そう言った。

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母親の夢魔 @elfdiskida

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