凶行

 岩本は会社に出社していた。以前とは違い、会社での関係も改善していたので、相田部長や清水との関係も良くなっていた。ただ、岩本が勝手にエアコンをいじることだけはやめていなかったが、注意すればやめてくれるようになった。そんなある日のこと、岩本は相田部長と評価面談があった。別室に呼び出され、相田部長と2人で話をする。相田部長が口を開く。


「岩本さん、仕事は楽しいですか?」

「はい、最近は充実していると感じますよ」

「そうですよね。岩本さん、最近みんなと話して楽しんでいるように見えます」

「そうですね、私も怒りっぽいのが治ったし、みなさんが仲良くしてくれるのがわかります」

「そんな岩本さんの評価ですが、A-です。わかってると思いますが、一番いい評価です」

「そうですか。ありがとうございます。嬉しいです」


 穏やかに面談が進んでいく。寒い冬のことだったが、のどかな空気に満たされていた。そんな中、その空気を壊すように突如、切迫したアナウンスが流れる。


「これは訓練ではありません。3階の情報システム部にて、人が刺された模様。皆さん、直ちに避難してください。繰り返します。3階の情報システム部にて、人が刺された模様。皆さん、直ちに避難してください。これは訓練ではありません」


 なにかとんでもないことが起きていた。岩本と相田部長も顔を見合わせ、直ちに事務所から飛び出す。すぐに警察と救急がやってくる。どうやら犯人は事務所の3階に立てこもっているようだった。岩本と相田部長は2階にいたので大丈夫だったが、人質もいるようで、警察もすぐには突入することができない状況だった。周りの社員たちの話が聞こえてくる。


「犯人は元社員っぽいよ」

「え? マジ? 誰だろう。会社に恨みがあるってことだよな」


 岩本の頭には先日一緒にスタジオに入ったある人物の顔が浮かんでくる。


「まさか……」


 すると3階の窓から顔を出した人物がいる。山本だった。岩本はやはりかと思ってしまった。課長にパワハラを受けていたと話していたし、恨みがあり、少し精神不安定なところもあった。以前スタジオに入ったときも少し思い詰めた表情をしていたし、恨み言を口にしていた。それらのことから岩本は山本ならやりかねないと納得してしまった。岩本は思わず大声で声をかける。


「山本君! 今すぐこんなことはやめて出てくるんだ! まだやり直せる!」


 それを見た警察に犯人を刺激しないでくださいと注意される。岩本を手で静止すらする。しかし、岩本は止まらない。


「山本君! 聞こえているのか!? 今すぐ出てきてくれ!」


 山本の表情が少し沈んだ様な気がした。しかし、すぐに中に戻ってしまった。警察から再度、「やめてください。犯人を興奮させないでください」と注意を受ける。岩本はかなり苦しそうな表情を浮かべる。私が救えなかったばかりこんなことに……と思い、岩本は悔しさでいっぱいだった。警察も説得を開始する。


「そんなことはやめてすぐ出てきなさい。まだ救える命があるんだ。これ以上罪を重ねるのはやめましょう」


 山本は顔を出さなかった。中の様子はわからないが、あたり一帯はなぜだか静かだった。山本は何をしているのだろうか。包丁を人質に向けて笑っているのだろうか。岩本はとにかく山本が心配だった。岩本は中に入っていって山本と対話を試みたいと思った。しかし、そんなことは当然できるわけもなく、岩本も固唾を飲んで見守るしかなかった。警察が説得を続けているが、中の様子は変わらない。すると男のものと思われる悲鳴が聞こえた。おそらく山本が包丁で刺したのだろう。周りの人間に緊張が走る。警察がもう頃合いだと思い、突入の準備をしだす。岩本は警察が準備に気を取られているうちに事務所の中へ走り出した。目的は当然、山本の説得。警察は岩本には気づいていない様子で、すんなり侵入することができた。3階まで階段を駆け上がる。老いた体にはしんどかったが、そこはなんとかこらえた。3階に着くと山本と人質の姿が見えた。人質は1人で横には社員と見られる死体が転がっていた。人質は山本にパワハラをしていたらしい課長だった。課長も胸を包丁で刺されたようで、虫の息だった。岩本は山本に声を上げる。


「山本君、大丈夫か?」


 事件の犯人にかける言葉としておかしな気がしたが、岩本はそれこそがこの場にふさわしい言葉だと思った。山本は岩本に気づいた。こちらを振り返る。


「岩本さん、なぜここに……」

「君を救いに来た。助けに来たんだ。今すぐ課長を開放して、警察のところに行こう」

「もう無理ですよ。こいつも殺さないと気が済まないし。もう行くとこまで行くんだ。俺は」


 山本は覚悟を決めた顔をしていた。それが間違った覚悟だということは誰の目にも明らかだった。山本は止まらない。


「こいつを殺して、俺は人生を終了させるんだ。もう人生に未練なんてないし、もうどうでもいいんだ」

「山本君、それは間違ってる。まだやり直せる。罪を償って、やり直そう」


 山本は唸りながら迷っている様子だった。その顔には返り血が付き、妖艶たる様子だった。そのとき山本が手元に寄せていた課長が山本の手首を噛んだ。「痛っ」そう言った山本は課長を手から離してしまった。課長がはいずりながら、岩本の方にやってくる。山本は鬼の形相で、課長に向かっていく。その時、警察がなだれ込んできた。警察が銃を向けると山本はびっくりして包丁を落としてしまい、その場に這いつくばった。山本はその場で逮捕された。そのときの山本の表情を岩本はうかがうことはできなかったが、おそらく安心した表情なのだろうと思った。


 岩本は警察に呼び出され事情聴取を受けるとともに、勝手な行動をしたことをこっぴどく怒られた。岩本と山本との関係から駆け付けたくなる気持ちも分かるが、そんなことは犯人を興奮させるだけだと警察から強く言われた。岩本ははいはいと聞くだけだった。警察からは山本との関係性を詳しく聞かれた。先日、一緒にスタジオに入ったときのことを細かく聞かれ、それに岩本は素直に答えた。その際、課長への恨みを話していたことは特に細かく答えた。


「話をまとめると、岩本さんは犯人と楽器繋がりで仲が良かったってわけね。普段から課長への恨みは話していたの?」

「いや、この前のスタジオの時くらいで、普段は特には」

「嘘じゃないね?」

「はい」

「わかりました。じゃあ、帰っていいよ」


 家に帰った岩本は今日のことを家族に話した。仲の良かった元社員が殺人を犯してしまったこと、その犯人と直面し、説得を試みたこと。家族、特に妻である優子は泣き出してしまった。「殺されたらどうするのよ。あなたがいなくなったらどうしたらいいの」妻の涙を見て、岩本はようやく危ないことをしていたと気づかされた。息子、娘も泣いたりはしなかったが、心から心配してくれた様子だった。


 この事件は全国ニュースで報道された。犯人の山本の精神状態やパワハラの事実などがあり、社会的に問題視された。しかし、それも10日ほど過ぎれば新たなニュースが話題となり、忘れられていった。岩本は山本にぜひ会いたいと思った。何度か面会のお願いをした。最初は断られたし、山本は一切の面会を拒否していたが、最終的に岩本の面会は受けてくれた。開口一番岩本は謝罪の言葉を口にする。


「山本君、本当に悪かった。私が君を救えていれば」

「岩本さん、ありがとうございます。でも僕の問題なので気にしないでください。僕が勝手に恨んで、殺して、殺し損ねたけど、満足しています。」

「そんなこと言わないでくれよ。殺して満足だなんて。山本君の言葉じゃないよ。優しい君の言葉じゃ……」

「僕は世間的に殺人鬼なんですよ。泣かないでください。僕の両親だって泣いてないですよ、きっと。むしろ怒ってると思います」

「親というのはそんな生き物じゃないよ。きっと悲しんでくれているよ。そこは疑っちゃいけないよ」

「ありがとうございます。僕は死刑にはならないかもしれませんが、人生を失いました。さあ、岩本さん、帰ってください。もう話は終わりです」

「終わりなんてないよ。俺は山本君と出会えたことを運命だと思ってる。また、会えるよね? いや、会おう」

「何十年後ですよ? 出所できるのは。まあでも、会えたらいいですね」

「うん。必ず会おう。次会ったら、もっと私を頼ってほしい」

「わかりました。また会えるかわかりませんが、その言葉、覚えておきます」


 そう言ってあっという間に面会は終わってしまった。山本は結局社員一名の殺害と課長への危害の2つの罪に問われていて、山本へのパワハラ等の背景から死刑は免れそうであった。生き残った課長の発言が裁判では注目される。岩本はその課長を恨んだ。山本のことを運命の出会いだと感じるほど、大事な友達だと思っていたからだ。やはり、あの時課長を山本君か私が殺していれば……。あのとき、山本君が落とした包丁で、私が課長を刺していれば……。そんなことを思ったが岩本はもうそれ以上考えるのを止めた。

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怒張 石島時生 @ishijima_tokio

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