医者とのトラブル
スタジオの日がやってきた。岩本はとても緊張していた。山本に悪いことをしてしまった意識が性格が改善してから生まれ、その影響からくる緊張だった。鳥越はというと自然体で緊張している様子はない。山本は緊張の最中にいた。
まず山本は本当に岩本の性格が改善しているか当然不安だった。鳥越の説明では本当に怒ることもないし、話しやすい人間になったとの評判だったが、疑うのは仕方なかった。そんなこともあり、スタジオの当日の朝、行こうか迷うほどだった。迷った末、行くことにはしたが、行きの電車でもずっと悩んで苦しんでいた。「岩本マジで嫌な奴だからな」「しつこいし、キモいんだよな」そう思っていると約束の場所に着いてしまった。
岩本と山本の邂逅の瞬間は緊張感がほんの少しあったが、久しぶりに会うということもあって一瞬で緊張は瓦解した。
「おお、山本君、久しぶり。その、以前はしつこくてすまなかった」
「岩本さん、謝ってくれるんですね」
「当たり前ですよ。悪いことをしたからね」
「岩本さんがそういう態度なら許しますよ」
「ありがとう!」
鳥越が微笑む。2人だけでなく鳥越も含んだ3人の仲が深まった瞬間だった。
「早速、スタジオ入りましょうか」
そう鳥越が声をかけると、3人でスタジオに入った。スタジオに入り、それぞれがセッティングを始める。徐々に準備ができてきて、三々五々演奏をしようという空気になる。今回の課題曲はサンボマスターの「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」だった。ベースの山本がベースボーカルで、それぞれが演奏する。原曲が割とテンポの速い曲なので、ドラムの鳥越が少し走り気味にドラムを叩く。それに合わせて、岩本、山本が演奏をする。山本が少し苦しそうだが、演奏は順調に進む。岩本のギターソロに入ったところだった、岩本のギターが少し、調子っぱずれになってしまい、演奏が止まってしまう。
「岩本さん、ちょっとずれてましたね」
「え? そうかな? 私としては合ってるつもりだったけど」
「いや、私もずれてると思いました」
岩本はここでハッと気づく。耳が悪いせいだ、そう強く思った。岩本は自己嫌悪に陥ってしまう。
「ああ……私が耳が悪いせいでずれてしまったんだ……」
「岩本さん、そんなに落ち込むことないですよ。私たちだってずれることあるんだし」
「そうですよ。またもう1回合わせましょう」
もう一度「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」の演奏を開始するが、またしてもギターソロで躓いてしまう。またしても岩本は落ち込む。鳥越と山本が慰めるも、岩本は頑固に落ち込んでいた。もう一度、もう一度とトライするがやはり同じところで躓いてしまうので、ギターソロはなしで演奏することにした。そのテイクはまとまりもよく、山本のボーカルもノリノリでいいテイクができた。しかし、鳥越、山本の達成感とは隔離して、岩本の胸中は最悪だった。「耳が悪いから……耳が悪いから……」と落ち込む岩本は見られたものではなかった。スタジオ後、喫茶店に入り、久々の再開を喜んでいた3人だったが岩本はやはり穏やかな胸中ではなかった。
「しかし、山本君、体調良さそうだよね。やっぱり佐藤工業時代は辛かったんだね」
鳥越が言う。山本は言葉を返す。
「そうですね。でも今はいい会社と巡り合えて、幸せですよ。でもあの課長たちは許せないですね」
「本当に良かったね。あの課長ちょっと変だったもんね」
「岩本さんは最近お仕事どうなんですか?」
「岩本さん、いい人になったから評価よくなりましたよね」
岩本は心ここにあらずといった面持ちで、じっと座っていた。
「岩本さん、岩本さん、聞いてますか?」
「え? ああ、聞いてますよ。本当に最近仕事が楽しいですよ」
「それは良かった。ところでさっきのスタジオ気にしてらっしゃるんですか?」
「まあ……はい」
「ギターソロは難しいからしょうがないですよ。またスタジオ入ったとき頑張りましょうよ」
「そうですよ。岩本さん、ギターソロなんて僕そもそも弾けないですからね。挑戦できるだけすごいですよ」
2人の慰めで少しは回復したが、岩本はやはり落ち込んでいた。「耳が悪い」、その事実が重く岩本にのしかかった。
岩本は耳が悪いことを未だに受け止め切れていない。なので、今でも評判のいい医者を見つけたらその医者にかかることを日常としていた。しかし、岩本曰くやぶ医者が多く、解決に導ける医者は1人もいなかった。一度うかがった医者から「あんたのそれ、治らないよ。諦めな」そう言われたとき、岩本は心からイライラしたが、怒ることができなかった。それほど岩本を苦しめてきた感音性難聴だが、やはり岩本は完治をあきらめることができなかった。
岩本は今日も新たな医者にかかることにした。距離はだいぶあったが、評判がよく、長年苦しんだ難聴が完治したという口コミもあったし、医者が難聴に関する本を出版していたので信頼感はあった。一時間ほど待つと岩本の名前が呼ばれ、病室に入る。医者は50代頃だろうか。岩本よりは年下でおとなしそうな男だった。
「今日はどうされましたか?」
「昔から感音性難聴に悩まされてまして……。先生の評判を聞いてやってきたというわけです」
「ちょっと見せてくださいね。レントゲン撮ってみましょうか」
レントゲン室に看護師に案内される。看護師は丁寧に岩本の耳を気遣ってか、大きな声で話してくれる。態度自体も岩本を尊重してくれているようで、岩本は看護師にこの病院に好感を持った。レントゲンをレントゲン室で撮影し、待合室でお待ちくださいねと言われ、そのまま10分ほど待った。「岩本さん、どうぞ」と声がかかり、再び病室に入る。撮ったばかりのレントゲンを見た医者が笑いながら言う。
「あはは、これは無理だよ。治らない、治らない」
岩本は笑われて絶句する。そんな言い方ないだろうとは思ったが、なにも言うことができなかった。
「岩本さん、わかる? 聞こえる? 治らないよ。諦めな」
岩本はその言葉を聞いてとうとう怒り出した。
「そんな言い方ないでしょう! 私は患者であなたは医者なんだから治す義務がある!」
「そんなこと言われても治せないよ。どこ行ったって同じ。どの医者も治せないよ」
「うるさい! どうあっても完治したいんだ! 私は!」
「だから無理だって。もういいから帰って」
そう医者に言われると看護師たちが岩本を病室から引きずり出す。岩本は顔を真っ赤にして怒っていたが、看護師たちは面倒くさそうな顔をして引きずり出されただけだった。
会計を済ませ、病院から出た岩本はカッカしながら家路に着いた。帰りの車の中で高中を聴いたがまったく耳に入ってこなかった。それどころか周りの音も聞こえない気がした。それほどに怒りが岩本を支配していた。周りの音が聞こえづらいせいか、運転にも集中できなかった。何度か危険な運転をしてしまった。そんな運転をしていると、右折しようとしたときに歩行者に気づかず、思わず轢きそうになってしまった。すんでのところでブレーキを踏むことができたが、危なかった。歩行者は岩本をにらんできたが、岩本は頭を下げて、そのまま歩行者は去っていった。そのことがあって溜飲が下がったが、心の奥底にわだかまりが残ってしまった。あの医者一生忘れない、そう強く岩本は思った。
家に着くと妻が迎えてくれる。
「どうだった? お医者さんは?」
「最悪だったよ。藪医者だった」
「そう……」
岩本の妻はそれ以上は何も聞いてこなかった。岩本は妻のそういうところが好きだった。岩本が怒っているときは一歩引いてくれるし、喜んでいるときは一緒に喜んでくれる。妻がいて本当に良かったと岩本は思っている。だからこそ岩本の妻に不自由な思いはさせたくないと岩本は思っている。岩本は息子と娘に対しても同じことを思っている。耳の悪い父親というハンデがある中で、家族には不自由な思いはさせてこなかったと岩本は自分で思っている。ただそれは岩本の主観であって、事実、岩本が怒っりぽい父親というだけで、家族は辛い思いをしてきた。レストランで違うものが運ばれてきただけで怒り、順番待ちを岩本たちに気づかず、追い抜いてきただけで怒る。岩本の周りはトラブルだらけだった。
岩本は部屋にこもってギターを触りだした。やはり前のスタジオを思い出し、うまく弾くことができなかった。それほどに耳が悪いことを突き付けられたことがショックだったのだ。そこでも岩本はイライラし、ギターを放り投げてしまった。ベッドに転がり込むと、なんとなくスマホで山本に連絡をした。
「この前はスタジオありがとうございました。山本君は最近ギターやベースの調子はどうですか?」
山本からはすぐに返事が返ってこなかった。岩本はそこにもイライラしてしまった。目上の人に対してとる態度ではない、遅い、遅すぎるなどとなんども罵倒の言葉が頭をよぎったが、岩本はこらえた。ようやく山本から返事が返ってくる。たった30分後のことだった。
「岩本さん、こちらこそありがとうございました。最近は仕事が忙しくて両方弾けてないんです」
「そうなんですね。返信が遅かったのもそういう理由かな?」
「そうですね。すみません」
「次からは早く返事返してね」
そんなメッセージを送ると、既読がいつまで経ってもつかなかった。岩本はおや? と思う。岩本は山本に電話をかけた。しかし、無機質な声で留守番電話サービスを案内されるだけだった。今度はメールを送ってみた。しかし、エラーメールが返ってくるだけだった。岩本はもしかしたらブロックされているのではないかとそこで初めて思った。岩本はまたしても怒りに身を震わせる。あれほどよくしてやったのに、恩を仇で返すのか。有り得ない、有り得ない。強い怒りが岩本を支配している。そこで妻がご飯よーと呼ぶ声が聞こえる。岩本は怒りに支配されながら食卓へ向かった。
食卓で岩本の不機嫌さは周りの家族全員に伝わっていた。皆、一様に岩本を刺激しないようにと黙っている。岩本が口を開く。
「みんななんで黙っているんだ? 楽しく食べようじゃないか」
少しばかり狂った様子が感じられた。妻が言う。
「あなたイライラしてるわよね?」
「ああ、実はしている。医者のこともあるし、仲が良かった人にLINEをブロックされたみたいでね」
「それはショックね」
やはり刺激しないように柔らかな言葉を妻は選ぶ。岩本は唸りながら言葉を返す。
「ああ、本当にイライラするし、ショックだよ」
息子、娘はさっさと食べて食卓を後にしようとしていた。それを見た岩本が怒る。
「そんなに焦って食べて詰まらせたらどうするんだ!」
息子、娘はおびえながら「……はい」と返事をし、ゆっくりと食べだす。岩本はさらに続ける。
「母さんの料理がまずいわけないんだから、もっと楽しんで食べろ!」
完全に岩本は怒り狂っていた。妻が助け舟を出す。
「あなた、イライラしてるのはわかるけど、イライラを私たちにぶつけないでちょうだい」
「そんなことしてないだろう」
「いや、してます。とにかく落ち着いて」
「……わかった」
岩本は怒りを飲み込むことができた。岩本は一度温厚になってから、言葉や感情を飲み込むことができるようになった。冷静な言葉は岩本は家族に愚痴を話す。
「お父さんな、今日新しい病院に行って、あんたの耳治るわけないよって笑われたんだ。しかもそのあと仲良くしていた人からブロックされたみたいなんだ」
「それは辛いわね。でも医者は許せないけど、その仲良くしていた人は返事が遅れているだけかもしれないわね」
「そうだよ。お父さん、少し待ってみようよ」
妻や娘の言葉もあって、岩本はさらに冷静に落ち着いてきた。
「お父さん、これからどうすればいいんだ? 耳は諦めた方がいいのかな」
「それはあきらめる必要はないけど、地道に探していきましょう」
家族の連帯感が強まった食卓だった。そんな中息子が言葉を発する。
「お父さん、俺また仕事探すよ。お父さんも変わったことだし、俺も変わらなくちゃ」
「おお、そうか。頑張ってくれ。応援、手助けはするからな」
岩本家は暖かな空気に包まれた。食事が終わり、家族それぞれが自分の部屋に戻る。岩本はスマホを確認すると山本から返事が来ていることに気づいた。
「ご飯食べてました。返事遅くなってすみません」
そのメッセージを見て岩本は、せかしすぎたと反省し、次のメッセージを送った。
「私こそ、せかして申し訳ない。自分のペースで返してください」
「はい、わかりました」
メッセージはそこで終わったが岩本は満足していた。
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