岩本の過去⑦

 そしてとうとう、忌々しい高校生活が終わり、専門学校での新しい生活が始まろうとしていた。岩本は期待に胸を膨らませながら専門学校の門を叩いた。専門学校は全校生徒が100人ほどの学校で岩本達、新入生はおよそ60名ほどであった。クラスは2クラスあり、岩本は建築について学べるコースを選んだ。早速レクリエーションが始まり、この学校で学べることや先生の紹介などがあった。そして最後に、岩本お待ちかねのサークル紹介があった。軽音楽サークルは30名ほどいるようで、主なジャンルはロックが中心のようだが、岩本はとりあえず話を聞いてみようと思った。レクリエーションで知り合った今泉優子という女子とともに行くことになった。2人がどのようにしてそんな流れになったかというと、今泉の方から岩本に話しかけてきたのだった。岩本は「なんで俺に話しかけてくれたんだ?」と聞くと、今泉は「なんとなく楽器やってそうだなと思って。私もキーボードを弾くんだよね」と答えてくれた。今泉はロックが好きなようだったが、ジャズやフュージョンにも興味があるようで、岩本はそこも嬉しかった。今泉は目が少し吊り上がっていて、顔立ちは細かった。薄顔の美人と言ってもいいくらいの見た目であった。そして、岩本はなんとなくこの子、俺に好意があるなと感じていた。


 軽音楽サークルの部室に着くと、2人は歓迎を受けた。今泉は素直に喜んでいたが、岩本は少し警戒心を持っていた。なぜなら耳が悪い癖に楽器やるのか、と笑われるのが怖かった。しかし、サークルは落ち着いた雰囲気の人が多く、バカにしてくるような人間はいなかった。岩本は少し安心し、歓迎会に参加することにした。歓迎会は学校の近くの公園で行われる。桜を背景にお酒を飲む。普通の飲み会だった。岩本は未成年だし、今泉も未成年だが酒を飲む流れになってしまった。岩本は真面目なので、最初は遠慮した。しかし、今泉や他の同級生ががぶがぶ飲んでいるのを見て、少しくらいならいいかと思い、ビールを一口飲んだ。初めてのビールは苦いだけでとてもおいしいものだとは思えなかった。だが、調子に乗って飲んだ岩本たちの酔いは回っていく。9時ころになるとお開きの空気になったが、岩本はふらふらで先輩に肩を貸してもらっていた。岩本はこれがお酒か、などと飲んだことを少し後悔した。しかし、先輩や同級生たちに高中を勧めればハマってくれそうだとにらんだメンツがいるので、岩本は少し嬉しかった。岩本は一人暮らしのアパートに着くと、そのまま横になり眠りに落ちた。


 次の日から専門学校の授業が始まった。CADに興味はあるものの、触ったことのないものを扱うのは苦労した。しかし、だんだんと人間は慣れていくもので、1か月もするとCADや専門学校自体にも慣れていった。そして、岩本待望のサークル活動も楽しかった。最初は「高中が好きだ」と言うと、「誰それ?」とか「知らないな」くらいの反応だったが、岩本が熱心にレコードを貸したりと布教活動をしているうちに、みんなが興味を持ってくれるようになった。今泉も高中を評価してくれるようになったのは岩本にとって大きな歓喜だった。高中のコピーをするバンドメンバーも集まっていった。ギターが岩本、今泉がキーボード、田中がドラム、ベースが加藤だった。田中と加藤は2年生の男の先輩で、加藤は岩本に酒を勧めてきた人でもある。加藤は少しおちゃらけた人物で、田中はどちらかというと真面目な男だった。2人とも楽器歴は長いらしく演奏は問題なさそうだった。高中も岩本が勧めたらすぐに「いいね」と返してくれた。そんなわけでメンバー集めはすんなり終わった。あとはライブに向けて練習をしていくだけだった。しかし、高中を深く知っているのは岩本だけなので、他のメンバーは高中を聴くことから始まった。岩本もその間に練習をたくさんした。岩本がメンバーの中で楽器が一番下手だったのだ。今泉も加藤も田中も中学生から楽器を始めていたので、差は歴然だった。高校からギターを始め、しっかり練習してきた岩本もうまい部類だが、レベルの差があった。


 バンドは8月のライブに向けてスタジオに入ることになった。早速合わせるとみんな一様にうまかった。アンサンブルも調子が良く、コピーバンドとしてはなかなかレベルが高いのではないかとメンバーみんなが自画自賛するほとだった。加藤が言う。


「俺たちなんかうまくない?」


 みんなが同意する。俺たちはうまい、と。予約時間の2時間があっという間に過ぎ、みんなでファミレスに入る。親睦を深めるというか、練習よりもみんなはこういう時間が好きだった。しかし、岩本は違った。耳が悪いせいか会話に入れないことも多々あったのだ。岩本にとっては苦痛と言わないまでも、緊張の時間であった。だが、みんな岩本の耳のことを知っているので配慮して大きな声で話してくれる。そこに岩本は心地よさも感じていた。


「岩本君はロックは聴かないの?」

「ああ、俺は高中一筋だから」

「なんかもったいないね。いろいろ聴くと世界が広がるよ?」

「じゃあお勧めしてよ」

「じゃあ、洋楽だけど、Pink Floydかな」

「どういう音楽なんだ?」

「プログレって言って、曲が長くて複雑なのが特徴だよ」

「わかった。今度聴いてみる」


 今泉の勧めを受け、Pink Floydを岩本は聴くことに決めた。田中と加藤もいろいろなロックバンドを教えてくれたが、岩本の興味は可愛い今泉の勧めたPink Floydだけだった。田中と加藤もそれ以外のいろいろな話をしてくれた。加藤の付き合っている彼女の話や、田中の片思いしている女子の話との恋バナなど、とても楽しかった。それに何より、岩本を置いてけぼりにしないみんなの姿勢に胸を打たれた。


 帰り道で岩本はレコードショップに立ち寄りPink Floydの『狂気』というアルバムを購入した。真っ黒な背景に三角形のプリズムの少し怖い雰囲気のジャケットだったが、岩本は躊躇なく購入した。家に着くと、早速レコードをかける。心臓の鼓動のような音が岩本の部屋に鳴り響く。なんて不気味な音楽なんだろう、岩本はそう思った。アルバムが進むにつれて、「Time」や「Money」などの名曲に心を打たれた。そしてアルバムが終わりを告げると、岩本は勧めた今泉に感謝しようと思った。


 次の日、岩本は今泉の姿を見かけると、すぐにPink Floydの話をした。「あのアルバムは芸術的だ」とか「あんな音楽あるとは思わなかった」などと岩本は口にした。今泉はうれしい表情になりながら、岩本の話をうんうんと聞いてくれた。そして、今泉が言う。


「他のレコード、貸すから聴いてみてね」


 岩本は今泉に感謝し、Pink Floydの質問をいろいろした。「あんな雰囲気のアルバムが他にもあるのか」、「ギターが泣きのギターで心にしみるが、なんというギタリストなのか」など。今泉も楽しそうに話をしてくれた。岩本は「今度また機会を設けて音楽の話をしたい」と今泉に言い、食事に行くことを約束した。岩本はそのときは気づかなかったが、これはデートであると家に着いてから気づいた。


 家に着いた岩本は今泉から貸してもらえる予定のアルバムを想像しながら『狂気』を聴き返していた。何度聴いても素晴らしいアルバムに間違いなかった。特に終盤の連曲が岩本の頭の中を覗かれているような感覚になって、興奮させられた。どうやらこのアルバムが最高傑作という声も多いようだったが、もっといいアルバムがあるに違いないと岩本は確信していた。岩本はPink Floydの音楽を胸に深く刻んだ。


 翌日、早速今泉がPink Floydのレコードを持ってきてくれた。『Wish You Were Here』というアルバムだった。男が燃えている男と握手しているジャケットで、ただならぬ気配を岩本は感じた。今泉が言う。「私はこれがPink Floydの最高傑作だと思う」岩本はそうなのだろうなと思って、レコードを借りた。


 その日の授業はあまり集中できず、家に早く帰って音楽を聴きたい気持ちに駆られていた。そして、授業が終わるとさっさと家に帰った。家に着くなり、手も洗わず、借りたレコードをセットし、音楽を流す。1曲目からとても長い曲だった。前奏のギターソロだけで7分ほどあり、長いなと思った。しかし、そのギターはいわゆる泣きのギターでギターを弾く岩本の心に沁みた。そして、歌のパートも感動的で、岩本はこれが最高傑作だと強く確信した。そして、アルバムを聴き終わるころにはPink Floydのアルバムを集めようと決意した。


 今泉との食事の日がやってきた。岩本は少しおしゃれをして家を出た。今泉のことが好きになっていたし、楽しく話したかった。そして、借りていたアルバムを返そうと思い、持っていった。待ち合わせ場所に着くと、今泉はもう着いていた。


「岩本君、おそーい」

「いや、ごめん。服を選んでいたら時間が経って……」

「ふーん。でも服装いい感じだね」


 ふいに今泉から服装を褒められ、嬉しくなる岩本。店に入り、料理を食べながら、『Wish You Were Here』の感想を伝える。


「アルバムありがとう。『狂気』以上だったよ。泣きのギターがいいね。確かに最高傑作だと思った」

「でしょ? ほんとデヴィッド・ギルモアはいいギタリストだよね」

「ああ、デヴィッド・ギルモアっていうのか。高中以外にもいいギタリストいるもんだな」

「岩本君はもっといろんな曲を聴いた方がいいよ」


 そんなPink Floyd談義に花を咲かせていると、ふいに今泉が話を変えてきた。


「岩本君、彼女いるの?」

「いや、今はいないよ」

「へえ。今はってことは昔いたんだ?」

「ああ、高校の軽音楽部の後輩と付き合っていたよ」

「あっそ。私はね今の話をしたいの。好きな人はいる?」

「いるよ」

「誰?」

「今泉さん」

「私も好き。岩本君、好き」


 今泉は妖艶な表情になったと思ったら、少女のようなにこやかな笑顔を岩本に向けてくれた。こうして、岩本は2人目の彼女をゲットした。


 それからの岩本は今泉とべったりで、お互いの家に行って、一緒に音楽を聴いたりして過ごした。今泉はかなりの数のレコードを所有していて、ロックを岩本は今泉から教わった。逆に、今泉に岩本は高中などフュージョン系の音楽を仕込んでいった。ロックを知ってからの岩本は自分のギターのプレイスタイルも変化した。今まではソロを聴かせるタイプだったが、パワーコードのバッキングなど、シンプルなギターも好むようになっていった。そしてもちろん、デヴィッド・ギルモアのような聴かせる泣きのギターも真似するようになっていった。今泉のキーボードも岩本の教育もあってか、ギターを際立たせるような弾き方もするようになっていった。そして、加藤、田中たちとの初ライブが近づいてきた。

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