岩本の過去①

 幼い頃のやけどが原因だった。岩本の耳が聞こえづらくなってしまったのは。母親の不注意で幼い岩本はやけどを負ってしまった。岩本は仕方ないことととらえているが、人生の苦しみを幼い身で負ってしまった。岩本が成長していくにつれ、岩本の苦しみは増していった。小学校でのいじめが辛い人生の始まりだった。


「おい、岩本のバーカ。どうせ聞こえないだろ」


 確かに岩本には聞こえなかったが、表情からバカにされていることはわかった。


「ふざけるな!」


 岩本はそう怒鳴ったつもりだったが、「ふじゃけるな!」にしか聞こえず、さらに笑われてしまった。岩本は顔を紅潮させ怒りに震える。


「ふざけるな! 俺にかまうな!」


 なお一層笑われる岩本はどこまでも惨めだった。岩本は走ってその場から逃げ出し、家に帰る。家族が岩本を迎えてくれるが、岩本の様子に気づくと、顔色を変える。


「昭、どうしたの? いじめられたのかい?」

「そうじゃない。ちょっとからかわれて……」

「それをいじめと言うのよ。なにがあったかお母さんに話して」


 岩本は惨めな気持ちになりながら、今日あったことや今までされたことをつらつらと話し出す。岩本の母はときには驚きながらも、岩本の話を受け止める。


「そんなことされたんだね。辛かったね」


 岩本はいつの間にか涙を流していた。そんな岩本を母が抱きしめる。


「ごめんね……。ごめんね……。私が注意していれば昭は大丈夫だったのに……」


 岩本は母に抱かれながら、母に対して怒りを覚え始めた。そうだ。こいつがミスしなければ俺は健聴者だったんだ。岩本は母の腕を振り払う。


「お前のせいで俺は耳が悪くなったんだ。お前のせいで……」


 岩本は次の言葉が出てこなくなった。母の事は好きだったので急に罵倒することなど出来なかった。母が言葉を返す。


「昭、ごめんね……」


 2人は抱き合いながら涙を流した。


 いじめはそれだけでは終わらなかった。岩本が休み時間にのんびりしていると、同級生が岩本にタッチする。「岩本菌だー、触ると耳が聞こえなくなるぞ」そんなことを言いふらしながら、また別の同級生に岩本に触れた手をタッチする。岩本は怒りに震える。


「俺は、汚くなんかない! そんな菌なんて持ってない!」


 そう大声で主張するが、同級生はあざ笑うだけで止めることはなかった。岩本は悲しくなってきて、泣きたい気分だった。そんなとき担任が現れる。


「おい、お前ら何をしてるんだ!」


 担任は大声で、岩本をバカにした生徒を叱りつけると、一人ずつ並ぶように指示する。


「岩本は好きで耳が悪くなったんじゃないんだぞ。お前らだってできないことがあるだろう。それをバカにされたらどんな気持ちになるんだ? 嫌な気持ちになるだろう? だから人をバカにしてはいけないんだ」


 岩本をいじめた生徒たちは怒られたことに対して、涙を流していた。一方、岩本も悔しさと担任の対応に対して涙を流した。なんていい先生なんだろう。岩本は心からそう思った。担任が説教を終え、岩本に言う。


「岩本、今度またいじめられたら、先生に言うんだぞ」

「はい」


 岩本は涙を流しながらうなずいた。


 担任は種田といい、20代の若く情熱のある先生だった。岩本がいじめられないか日々厳しい目で、クラスを観察していた。少しでもいじめの気配を感じると、すぐに注意し、種田の前ではいじめは起きなかった。当然、他の生徒にも気を配り、問題が起きないように注視していた。一言で言えば、よくできた担任だった。


 ある給食の場面だった。その日はメロンがデザートとして、出ており、みんなで余ったメロンの取り合いになった。種田も大人げなく、取り合いのじゃんけんに参加していた。岩本もメロンが好きだったので、じゃんけんに参加したかったが、じゃんけんが始まる合図を岩本は聞き逃した。じゃんけんの決着がつき、メロンを持っていく種田。岩本は種田に抗議する。


「じゃんけんやるなんて聞いてません」

「なあ岩本、聞こえなかったお前が悪いんだぞ」


 岩本は種田からの言葉にひどく絶望した。あんなに俺のことをかばってくれたのに、結局こいつも俺をバカにした人間だったのか。そう思った岩本はおとなしく、席に戻り、給食を食べた。


 それからの小学校での日々は地獄だった。種田も岩本をバカにするようになったのだ。岩本菌だーといったいじめはさすがに参加しなかったものの、「まあ岩本にはどうせ聞こえないだろうけどな」と言って、クラスの笑いを誘っていたりした。岩本は無になるしかなかった。小学生でそのような状態になることはとてもつらかった。両親にもそんな話をすることはできなかった。同級生だけではなく、担任からもいじめられている、その事実は幼い岩本には重すぎた。


 体育の授業でドッジボールが行われれば、岩本の顔面を狙う奴らが後を絶たず、国語の授業で読み上げをする場面になれば、岩本が積極的に当てられた。当然うまく読めず、おかしな発音になる。それを周囲の人間が真似をして笑う。岩本にとって地獄の日々だった。担任には嫌われているし、両親にも話せず、岩本を救ってくれるものはなかった。そんな中、転機が訪れる。


 音楽の授業だった。音楽の授業は種田ではなく別の音楽教師が担当していた。いつもだったらクラシックを聴くのだが、その日は少し違った。フュージョンを聴く授業だったのだ。どうもその音楽教師の趣味らしく、このギタリストはこういう経歴で、こういうアプローチが得意でなど、いろいろ語っていた。だが、岩本はそれには興味はなく、フュージョンという音楽に強く興味を惹かれた。岩本は耳が悪かったが、音楽が好きだった。フュージョンという音楽はこんなに自由なんだ。ギターってかっこいいな。俺も弾きたいな。そんな想いがあふれていった。その音楽教師が流したフュージョンの曲はそれで終わり、いつも通り、クラシックを聴いていったのだが、岩本はそのフュージョンの曲を忘れることができなかった。授業終わりに岩本はその大して仲良くもない音楽教師に先ほどの曲について聴いた。


「さっきのフュージョンの曲は誰のなんて曲なんですか?」

「あれはカシオペアのAsayakeって曲だよ」


 岩本はその名前を深く自分の中にしまい込んだ。他の授業が始まっても、家に帰ってもそのフュージョンというジャンルとカシオペアのことは忘れることができなかった。岩本は思い切って両親にそのことを話した。音楽に興味を持ったことを、フュージョンがかっこいいということを。両親は初め、面食らっていたが、岩本の救いになるだろうと判断し、すぐにカシオペアのレコードを買ってくれた。岩本はとても喜び、毎日毎日何回もそのレコードを聴いた。岩本は自然とその曲を覚えていった。覚えた曲を口笛で吹いたり、なんとなく手や足でリズムとったりして遊んでいた。そして、興味は楽器、特にギターに向いていった。しかし、すぐにギターを購入することはなかった。両親がお金の面で苦労していることはなんとなく感じていたし、恥ずかしさから話すことができなかった。


 そして、岩本は地獄の小学校を卒業した。バカにされ続けた6年間だったが、なんとか耐えることができた。担任の種田が岩本に近づいてきて言う。


「卒業おめでとう」


 岩本は何も言わなかった。無視をした。それが岩本にできる最大限の反抗だった。しかし、さらに種田が言う。


「そりゃ聞こえねーか」


 岩本は怒り狂う。


「なんなんだあんた! ずっと俺をいじめやがって! 死ね!」


 そう言って岩本は種田に殴り掛かる。しかし、そこは大人と子供、種田に腕一本で封じられる。


「死ねなんて言ったらダメなんだぞ。岩本」


 岩本は悔しくて涙を流した。そうして苦しかった6年間は終わりを告げた。

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