屡々

青いひつじ

第1話

それは何も、たいそうな言葉ではないのだ。


今日も、青い空にぶら下がる月を眺めながら、1日の出来事を頭の中で再生する。

するとどうしてかいつも、あの瞬間、ああしていれば何か変わったのかもしれない。そんな気持ちになるのだ。

後悔しないようにと始めた習慣が、今では生活の一部になってしまい、数年同じことを繰り返している。



朝、玄関の門を抜けると、右方向から水の音が聞こえる。

いつものように、隣に住む年配の女性に挨拶をする。60歳は超えていると推測される。


この立派な家に1人で住むようになってから、寂しい生活ではあるが、唯一、年配女性とのささいな交流が、私の癒しになっていた。



「おはようございます。今日もすてきなスーツですね」


「おはようございます。いってきます」


私がぺこりと一礼すると、年配女性もぺこりと一礼を返してくる。





今日も無事に生きた。

見上げれば、白い月を雲が隠している。

あの日もこんな夜だった。


3年前のあの日、私は仕事で大きなミスをして、酒を浴びるように飲んで帰った。

帰宅すると、妻は何か言いたげな表情で、少し怒っているようにも見えた。

しかし私は、気づかないふりをして、朝も早めに家を出た。


昨日は2人にとって大切な日だった。

仕事をしながら思い出した私は、その日早く切り上げ、プレゼントを買い、簡単な手紙を書いて、妻の帰りを待った。


プレゼントと手紙は、あの夜からずっと私の手元にある。




おかえりがなくなった家に、今も1人で暮らしている。

仕事から帰宅した私。丸い机には、ビール瓶とねぎがたっぷりのった豆腐と醤油が並ぶ。


そういえば、昔好きだったドラマが配信していたな。

突然そんなことを思い出して検索してみるが、ドラマは見つからなかった。

どうやら、配信期間は終わったようだ。


そういえばと思い出してからでは遅いのが人生である。



そういえば、隣の女性はいつも水やりをしているな。

なんの花なのか聞いてみるか。

しかし、挨拶を始めて1年以上経つが、私から話しかけたことは一度もなく、会話の始まりが見つからない。

そうだ。明日の一言目は"花、きれいですね"にしよう。

女性が、その花をとても大切にしていると思ったからだ。



次の日の朝。挨拶をしようと前を通ったが、女性はいなかった。


庭には、白く柔らかそうな花びらが、何層にも重なっているのが見えた。

そういったことに疎い私でも分かった。あれは薔薇である。

薔薇を育てるのは難しいと、昔妻から聞いたことがある。

しかし、残念であるが、挨拶は明日にするか。



次の日、ネクタイをいつもよりきれいに締め、鏡を見たりなんかして、私は門を抜けた。

また、女性の姿はなかった。明日にするか。



その日、窓の外は青い夜になり、木魚の音が響いていた。

隣の家には、黒服姿の人々が列をなしている。



いつだってそうだ。

どうして、私は言えなかったのだろう。

明日もそこにあるとは限らないのに。


窓を開けて、タバコに火をつける。

一本の白い煙が、夜に溶けていった。









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屡々 青いひつじ @zue23

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