順行

萩谷章

順行

 大学に入って間もないその青年は、朝に弱かった。高校までと違い、大学では自分の好きなように時間割が設定できるので、彼の理想は毎日三時限目以降の講義を受けることであった。しかし、必修科目に限って一時限目に開講されるのは、なぜであろうか。誰かの悪意が働いているとしか思えないこの事実に、青年はひそかに腹を立てていた。木曜日に限り、彼にとってあまりにも早い時間に起きなければならなかった。

 また、青年は週に三度ほど、アルバイトに行っていた。イタリアンレストランで、ホールスタッフの仕事。開店は十時だったが、その準備のために九時に出勤しなければならないのが、彼にとってはつらいところであった。それでも続けていたのは、通いやすさと、時給の高さのため。

 そんな性質だったが、青年が寝坊をしたことは一度もなかった。それは、彼にとってつらい朝を乗り越えるため、ただならぬ努力をしていたからである。仕組みは非常に単純で、目覚まし時計をいくつも設定するのに加え、就寝の直前に「明日はこの時間に必ず起きる」と強く念じるのである。すると、実に苦しいながらも目を覚ますこと自体はできるのであった。

 

 ある夜、青年はいつもと同じように就寝の儀式を行っていた。

「まったく、木曜日は嫌いだ。早起きなんてつらすぎる。しかも明日はテストだから面倒だなあ。ようし、明日起きるのは七時半、七時半、七時半、七時半、七時半……」

 やがて彼は眠り、七時半に目を覚ます。三十分で準備を済ませ、自転車に乗って大学を目指す。到着すると、重い足取りでいつもの教室へ向かう。しかし、青年は違和感を覚えた。

「あれ、教室が暗いような気がする……」

 違和感は確信に変わった。明かりのついていない教室には誰もおらず、誰かが来る気配すらなかったのである。

 休講の連絡を見落としたかな。そう思い、通知を確認しようと青年は携帯電話を取り出した。開くやいなや、彼は休講の通知どころではない重大な事実を、携帯電話の画面から知った。

「え?どういうことだ……。金曜日?」

 彼はさらに気づいた。大学から送信されたメッセージをいくらさかのぼっても、休講の連絡は入っていなかったのである。

「誰もいないし、休講の連絡もなかったらしい……。テストはどうしたらいいんだ。まさか、本当に金曜日で、木曜日をまるごと寝過ごしたのか……」

 不安になった青年は、大学内の掲示板をすべて見てまわり、教室変更でも時間変更でもないことを確認した。しかし、それでも彼は不安だった。大切なテストなのだ。何があっても受けたいところであった。日が暮れるまで教室のそばで待ったが、ついに何もなかった。

 何も分からない不安、もはや恐怖にすら変わっていたその感覚を捨てきれないまま、青年は翌週の木曜日を迎えた。おそるおそる青年が教室へ向かうと、そこからは大勢の人の気配が感じられた。入ると、先週とは違って多くの学生たちが講義直前の談笑を楽しんでいた。青年は友人を見つけ、その近くに座った。そして聞いた。

「おはよう。おい、先週のテストってどうなったんだ。今日に延期か。別の教室だったのか」

「おはよう。テストなら先週、予定通り行われただろ」

「いや、俺は受けていないんだ。先週、ここの教室に誰もいなかったんだよ。だから、ほうぼう走り回ったんだが、ついに分からなかった」

「お前、何を言ってんだよ。お前は先週ちゃんとここに座ってたじゃないか。一緒にテスト受けたろ」

 友人は、心底わけが分からないといった顔をして、隣の席を指さした。青年は、友人がからかっているのかと疑ったが、その表情は嘘をついているようには見えなかった。

「おかしなことを聞くけど、俺、テスト解けてた?」

「今日のお前はすでにおかしいよ。そうだな、表情が暗かった割には『よく勉強してきた』って言ってたっけ。実際スラスラ解けてたようだぜ」

「そのあとは?」

「そのあと?お前、本当にどうしたんだよ」

 友人はそれまで、心配するような目をしていたが、次第にうっとうしいものを見る目に変わっていった。

「別に、テストに関して特に目立ったことはなかったよ。強いて言うなら、テスト後に少し時間をつぶしてから一緒にラーメン食べに行ったな。いつもの店で」

 青年は、小さな声で「ありがとう、分かった」と言い、友人の隣に座った。そして、考え込んだ。講義を聞こうと思っても、自分に起こった不思議な出来事ばかりを思い出してしまう。


 家に帰った青年は、メモ帳を取り出した。先週体験したこと、今日聞いたことを、書きながら確認していこうと思ったのである。やがて、ペンを置いて彼は頭を抱えた。

「俺の答案が提出されていたことは、教授に直接聞いて確認した。すると……」

 彼は、あることが自分の身に降りかかっている可能性を考えていた。それは、タイムスリップ。水曜日の夜に眠り、木曜日がまるごと「とばされ」、金曜日の朝にたどりつく。もっとも、木曜日を青年が過ごした事実が残っている点は、タイムスリップと呼ぶには少しばかり違う気がしたが。

 そのうち青年は、翌朝の九時からアルバイトに行かなければならないことを思い出し、日付が変わる前に布団に入った。

「難しいことをいつまでも考えていられない。日をまたいでから寝ると、いよいよ起きられなくなる。明日におあずけだ。しかし、稼ぐためとはいえ、早起きするのはつらすぎる。ゆっくり昼頃に目を覚ましたいのに……」

 文句を言いながらも、彼は明朝に起きるべき時間を繰り返し念じ、やがて眠った。

 そして翌朝。出勤した青年は、店長に不思議がられた。

「今日は入ってないだろう。真面目な君が間違えるとは、今日は槍でも降るんじゃないか」

「そんな。今日は金曜日じゃないですか。僕は朝から入ってるはずです」

「それは昨日だよ。忙しかったから疲れ果てて、『明日入ってなくて助かりました』なんて言ってたじゃないか。それなのに間違えて出勤なんて。疲れすぎじゃないか」

 店長は笑ったが、青年はそれどころではない。携帯電話を取り出し、曜日を確認した。すると、店長の言う通り、土曜日だった。

「ほら、土曜日だろう。起きてから今まで、一度もケータイ見なかったの?」

「朝はギリギリまで寝てるので、出かける準備に集中するとそんな暇ないんです」

「そうかい。まあ、何にしたって今日は帰って眠り直すといい」

「はい。そうさせてもらいます……」

 普段の青年なら大いに喜んでいただろうが、今回ばかりはそうもいかなかった。再びタイムスリップが起こった可能性が浮上したからである。

 帰宅した青年は、昨夜、正しくは一昨日の夜と同じように考え込んだ。

「二度も同じことが起こった。たまたま、面倒なことが回避されているからいいけど、何でこんなことが起きるんだ」

 しばらく思考をめぐらし、彼は一つの仮説を立てた。

「面倒だから、『とばされた』のかもしれない。就寝の儀式のとき、翌朝のことを強く念じるわけだから、それが何かに作用して、次の日がとばされているとか……」

 彼は翌日、すなわち日曜日に出勤予定のアルバイトで試してみることにした。就寝の儀式中、意識してアルバイトのことを考えてみる。

「ああ、朝早くから行きたくないなあ。ゆっくり寝ていたいのに。明日は八時、八時、八時、八時、八時……」

 意識して、とはいっても、アルバイトは心の底から嫌だったので、わざとらしさは出なかった。青年は眠り、八時に目を覚ました。いつもならすぐさま出かける準備に取りかかるが、今回は起きてすぐに携帯電話を開いた。その瞬間、彼は歓喜の声をあげた。

「やった。月曜日だ。日曜日をすっとばしてやったぞ。俺はタイムスリップできるようになったんだ」

 

 青年は、一種の超能力者となった。寝る前に強く念じれば、望んだ日を「とばす」ことができるのである。しかし、彼自身がその日を過ごしたという事実は残る。本人にその記憶はないが。

 色々と試した結果、とばすことができるのは一日だけではなかった。一週間でも一か月でも思いのまま。夏の暑いのが嫌だったので、七月と八月をとばしたこともあった。

「実に都合のいい能力だ。記憶こそないが、とばした期間の俺は上手いことやってくれてるらしい。過去に行けないのは少し残念だけど、その分タイムパラドックスの心配がないから気が楽だ」

 やがて、普通の人に比べて圧倒的に短い時間感覚で、青年は卒業間近となった。就職先は決まっていたが、そのための就職活動は、ほとんどやっていないのと同じ。筆記試験や面接の日程だけ把握しておき、それらが行われる日をとばすのである。何度も繰り返しているうちに複数の会社から採用通知を受け、そのうち一社を選んだ。

 あとは、卒業に必要な要件をしっかり満たし、アルバイトに励んで貯められるだけ金を貯めれば文句なしである。青年は、能力を使って苦労せずそれを進めた。

 ある夜、青年は大学生活を振り返ってみた。

「大学生活がさっさと終わりそうだ。寂しい気もするが、専攻に関する講義はあまりとばしていないし、友達付き合いは大切にしてきたつもりだ。上手く無駄を省いてきたと考えるべきだろうな」

 大きな満足感に包まれながら、彼は就寝の儀式に取りかかった。

「さて、寝るか。明日は木曜日だから、一時限目の必修か。四年間、必修科目が木曜日の一時限目に設定されてるのは、誰かの嫌がらせとしか思えない。単位を取れるように適当にとばしてきたから、大いに苦労したわけではないけどね……」

 にやにやしながら、そうつぶやいた。いつものように、起きる時間を繰り返し念じてから、青年は眠りについた。翌日の一時限目はとばすつもりであった。

 目を覚まして、青年は携帯電話を開いた。能力に気づく前はそうしていなかったが、気づいてからは、望んだ日をとばせたかどうか、確認する癖がついていたのである。いつもなら、間違いなくとばせたことを確認して、もうひと眠りしていたが、その日はそうもいかなかった。携帯電話が示したのは、木曜日だったのだから。それも三年前の。

 青年は、はっきり覚えていた。その日付は、初めてタイムスリップしたときに間違いなかった。当時は、自分の身に降りかかった不思議な出来事を理解するために、その日付を何度も頭のなかで繰り返したものだが、能力に気づいてからは、自分のなかで記念日のように思っていたのである。

「過去には戻れないはずだ。おかしい。しかも、この日付……」

 青年は考え込んだが、そんな暇はないと気づいた。この日付ならば、大切なテストを受けに行かなければならない。急いで準備を済ませ、大学へ向かった。到着して教室へ入ると、友人がいた。

「おはよう。だいぶ息が上がってるぞ」

「うん。急いで来たから」

「しかも、表情が少し暗いぜ。そりゃあそうか。テスト、面倒だもんな」

「まったくだよ。すっとばせたらどんなに楽か……」

 青年の元気がない受け答えとは対照的に、友人は明るく笑った。

「どうだ。いい点とれそうか。俺はあんまり自信がないな」

 いい点はとれるに違いなかった。その講義は、青年の専攻に関連する必修科目だったので彼にとっては興味深く、とばす前までは真面目に聞いていた。したがって、内容はよく覚えていたのである。

「うん、よく勉強してきたからね。九割は確実だな」

 実際、彼は特に難しいと感じることなくテストを解き終えた。その後、昼を待って友人とラーメンを食べ、日が暮れる前に帰宅した。

 家に帰った青年は、朝と同じように考え込んだ。

「あの日に戻ってしまったとは、どういうことだ。タイムスリップに何らかの不具合が生じて、ここまで戻ったのか。だとすると、偶然か。いやしかし……」

 青年は、考えに考えた。しかし、分からなかった。そのうち、考え続けのせいで疲れ果て、ベッドに倒れ込んで眠った。


 翌朝。青年はすっかり身についた癖によって、携帯電話を開いた。そこに示されていたのは、テストから一週間と一日後の金曜日。初めてとばしたアルバイトの日であった。彼の顔から血の気が引いた。

「なんで……」

 青年のもとへやって来たのは、いわば借金返済の期限であった。とばした日をはじめから順に経験し、カレンダーに空けてきた穴を埋めていかなければならない。つまりこれからは、立て続けに面倒ごとを片づけていかなければならない。興味のない講義、何連勤になるか見当もつかないアルバイト、どうやって乗り越えたか分からない就職活動。その他の細かいものを含めると、合計して少なくとも一年半は超える。

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