聞かされていない事
家に帰ると、リビングには二足歩行のトドがいた。
ウチの母ちゃんだ。
何やら、スーツを着込んでいるので、ボクは首を傾げた。
「あれ? これから仕事?」
時間を見ると、17時過ぎ。
ウチの母ちゃんは、17時前に帰ってくる。
朝早く行って、他の人よりちょっと早めに帰宅するので、「変だな」と思った。
「出張」
端と答えるのだ。
「へえ。え? ボク、聞いていないけど」
「言ってないもん」
「ちょっとさぁ。放任主義はいいけど。それぐらい言ってくれよ。どれくらい空けるの?」
「1カ月くらい。でも、仕送りはするから。危ないことはしないでね」
キャリーバッグを持ち、母ちゃんはさっさと家を出ようとする。
ボクは玄関まで見送り、靴を履くところを眺めた。
「あ」
その途中で、母ちゃんの動きが止まった。
「そうだ。部屋のね。蛇に餌あげておいて」
信じられないかもしれないけど。
ボクは親が蛇を飼ってる事なんて知らなかった。
結局、お互いに放任すると、こういう事態を招く。
「……え、いや、蛇って。ちょ、母ちゃん」
「何よ」
「ハードル高くない⁉ 犬や猫と違うぜ⁉」
「噛まないわよ」
「噛むって! つか、こええよ!」
蛇だぞ。
夏場にニョロっと動く、あの奇妙な軟体生物は、見る者を絶望の淵へ追い込むのだ。
「部屋に冷蔵庫あるから。そこに餌入ってる」
「餌って、……なに?」
「ネズミ」
「おえっ」
ペットが違えば、餌も違う。
犬や猫はフードで済むけど、蛇は生ものだ。
「言っとくけど。殺したら、母さん本当に怒るよ」
「だったら、心の準備くらいさせてくれない?」
母ちゃんは、息子よりペットの蛇に愛情を注いでいた。
指を突き付けて、眉を釣り上げると、母ちゃんはこう言うのだ。
「蛇には悪い子もいるけどね。アオダイショウは人間に一番近いの。神様の使いよ」
「め、迷信だよ」
「アオ」
さらに詰め寄ってくると、何とも言えない迫力で言ってくるのだ。
「神様の使い、……見たことないでしょ」
「あるわけないよ」
「白い蛇なの。真っ白なの。本当は、白い体に赤い目をしてるんだけどね。あの子は、目が金色だから。……たぶん、マムシのアルビノかな」
背筋がぞわっとした。
蛇、というだけでも餌やりは、とてもハードルが高い。
アオダイショウは優しい蛇ってことくらいは、ボクだって知っている。
だが、蛇の中でも、まさかの凶暴な種類の登場だった。
マムシ。――絶対に近づいちゃいけない暴れん坊である。
猛毒があり、噛まれると10分以内に死ぬとか。
「あ、の、さぁ」
「じゃあ、行くから。餌やりお願いね」
「噛まれて死んだら、どうするの」
母ちゃんは扉に手を掛けて、もう一度言うのだ。
「だから、あの子は噛まないの。見れば分かるわ。本当に大人しくて、変わった子よ」
母ちゃんは、それだけ言うとキャリーバッグを引いて家を出た。
残されたボクは、振り返って階段の上を見る。
「どうすんだよ」
人生で、これだけ恐怖に震えたことはない。
間違いなく、生と死の狭間に立たされていた。
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