第二十八話
動きを止めていた異形は鏡の向こうでみるみると姿を小さな小狐へと変貌させていき、やがて顔の無い苔生したその姿で、掠れる声を出した。
「さびしい……」
「そうか、アナタは……信仰を失ったお塚の稲荷。かつて人がここに納め、長い年月を経て雨風に晒されるだけとなったお塚の……」
哀れみの目を狐へと向けたツユは、
――怪異への同情は禁忌であると、メザメから言われたのも忘れて。
「可哀想に……」
狛狐の頭に向かってそろそろと伸ばしていった掌が、その身に触れようとした瞬間。異形は元の姿形へと立ち返り、そのおぞましい尾でツユを絞め上げたのである。
「わかって……クれル……ノ?」
「ぁ……やめ、て……っ」
吊し上げられたツユへと顔を近付けていった“狛狐の異形”は、砕けた口元をぱっくりと開き、深い谷底の様になったその口で、人の生気を吸い上げ始めた。訳の分からぬ未知なる不快感に襲われたツユは、全身より力の抜けていく感覚に抗う術も無く、ゆっくりと項垂れていきながら、だらりと下げたその手から、雲外鏡をぶら下げた。
井戸の底より這い上がって来る様な声がツユを呼ぶ。
「おかあぁ……サ……ああ……ァ」
途絶しそうな意識の狭間で、この世のものとは思えぬ狂気の景色を最後に、ツユは瞳を閉じ掛けた……。
――私、吊るされて……。
ツユが思ったのは、こんな時でさえも兄の事であった。
――お兄ちゃんもずっとこうして吊るされているんだ。いつまでも終わらない苦痛を感じながら。
それでも尚、ツユはその手に握った雲外鏡を離さなかった。その指先に込められた僅かな力は、彼女の最後の気概である。
それでもいよいよとツユの手元から雲外鏡が取り零されそうになると、鏡の向こうから声がした。
鏡の映した小道には、現実世界の姿が映っている。
「
――次の瞬間、大口を開いていた怪異の横っ面が、見えない何かに殴り付けられたかの様に強烈に歪んだ。
朧気な意識でツユが知覚したのはフーリの声だ。雲外鏡がそこに映し出すは、懐より赤い札で封をされた“小瓶”を取り出していく男の姿。
一体何をされたのか、ズタボロの姿でフーリの膝下に投げ出されている格好の安城は、息も絶え絶えに瞼をピクつかせながらこう言っていた。
「それは呪物……なのか? そんなものが何故!?」
深く腰を下げて、フーリが小瓶の封を開いていかんとする
『“呪物”とは、人を呪い、悪しき気を孕んだ物だけがそうでは無い。人智を超えし、まじないの力を内包するも、また呪物』
これより何が巻き起こらんとしているのかに理解が及ばずに、安城は唇を震わせている事しか出来ないでいる様子であった。
『やれ、フーリ』
メザメのその一声をキッカケにして、フーリは小瓶の赤い札の封を開いた――。
呆気に取られた安城は、手のひらにすっぽりと収まる位のサイズの小瓶から生じているらしい、その凄まじい吸引による風圧に髪をかき混ぜられながら目を剥くしかなかった。そして異形の手より取りこぼされ、地に墜落しそうになったツユをフーリがその片腕に固く抱き留めるのを目撃する。
メザメの声が間髪入れずに滑り出していた。
『
「それは……九字真言なのかっ!? どうしてお前が陰陽師の術をっ」
邪気祓いの真言を唱え、九字を完成させていくメザメの声に安城は絶句を禁じ得なかった。
――そうして思う。
この男は、まだ見ぬこの耳の向こうに居る男は一体――
『「
メザメとフーリの声が重なる――。
そうして安城が目にした結末は、もがき抵抗しながらも小瓶の中へと引きずり込まれていった神霊の姿であった。
妖気の残滓さえもが消え失せた静寂の中で、赤い紋様の光る札を小瓶の蓋に貼り付けて封をしながら、フーリは怪異を仕舞い込んだ胸ポケットを叩く。
「言うだろうがよぉ、狐七化け、狸
『それを言うなら狐七化け、狸八化け、
――呑気な奴だと呟いてから、メザメは意識朦朧としたツユへと語り掛ける。
『すまなかったなジョウロくん。キミを怪奇に巻き込んでしまった様だ』
メザメの声に改めて安堵したか、ツユはフーリの腕の中で微笑んでいた。その胸に確かに雲外鏡を握り締めながら。
「成功報酬、三割引にして貰いますから……」
そして安城はこの信じられない光景に脱帽としながら、地に膝を着いて下顎を落とした。
「何者なんだよ、アンタら……」
するとフーリは鼻の下を指先で擦り、メザメは相も変わらず平坦な口調で彼に答えて見せるのだった。
『
彼等は怪奇の。
怪奇そのものの
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