第41話 本当に面倒で、大した女……
上着は脱いでいたが、まだ寒いこともあり厚着していたため、
ただ、涙やら唾液やら鼻水やらメイクやらで文字通り
「……クリーニング代を要求していいか?」
「私のような美女に噛みつかれるなんて、むしろご褒美じゃないですか~」
「俺にそんな性癖はない」
「本当ですか~? そういうこと言う人に限って、意外と「血が出るほど噛んで欲しい」とか言い出す変態さんだったりするみたいですけど~?」
柏木はそう言いつつ、腰に抱きついた姿勢から膝枕の体勢に移行する。
ただ、メイクの乱れた泣き顔を見せたくないのか、顔はうつ伏せのままだ。
この状態でそんなことを言われると、いつか本当に歯を立てられそうな気がして少し怖い。
……とはいえ、下ネタを言う余裕くらいはあるようで少し安心する。
ここは犬――もとい、美女に噛まれたと思って諦めておくことにしよう。
「……そうだな。俺にももしかしたら、そういった秘められた性癖があるかもしれん。……確認くらいはさせてやってもいいぞ」
「……ふぇ? 一誠先輩、それって――わぶっ」
こちらに顔を向けようとする柏木の頭を、手で押さえつけ阻止する。
無表情の仮面こそ取り繕えているが、赤面までは防げなかったからだ。
……折角優位な状況なのだから、もう暫くはこの関係を維持しておきたい。
「おい! 何やってんだコラァ!!!」
「ん?」
遠目にこちらを
それに連動するように、後ろから何人かの男がついてきた。
「……何の用だ?」
「何の用だじゃねぇ! てめぇ、何堂々と性犯罪犯してやがる!」
「性犯罪?」
「とぼけんな!」
一瞬本当にコイツが何を言っているかわからなかったが、周囲の反応や視線から状況を把握する。
……成程、これは誤解を受けても仕方ないか。
今の状態は、恐らくどの角度から見ても俺が柏木の顔を股間に押し付けているようにしか見えない。
というか、押し付けているのは事実なので誤解とも言い難いものがある。
もちろん俺に他意はないが、これをどう説明したらいいものか……
以前沼田にも同じような場面で誤解を受けたことがあるが、今の状況の悪さはあのときの比ではない。
まず目撃者の数が多いため、全員の誤解を解くことは不可能に近いということ。
そして何より、俺の下半身と柏木の状態がマズイ。
今現在俺の下腹部及び股間部分は、柏木の涙や鼻水、そしてメイクなどによりグチャグチャになっている。
これは見ようによっては
さらに言うと、その発生源である柏木の顔も酷いことになっていると思われるため、よりリアリティが高い仕上がりになっているのではないだろうか。
……ここまで再現性が高いと、神さえも
こういった状況では被害者と思われている柏木が否定するのが一番ではあるのだが、今の状態だと俺に言わされているようにしか見えない。
現物を見てもらえば信じてもらえるかもしれないが、その行為自体犯罪感あるうえに、恐らく誰も確認しようとはしないだろう。
……これは、詰みか?
「あの貼り紙もてめぇの仕業だな? それで脅して――」
「いや、断じて違うぞ」
自分で言っておいて何だが、違うとだけ言って信じてもらえるのであれば警察はいらない。
厳密に言えば警察自体が必要ないという意味ではなく、もしそんな警察であれば役に立たない――という意味でだ。
仮に犯罪の容疑者にされたとして、「私はやっていない」と言っただけで嫌疑が晴れるのであれば何も苦労はしないだろう。
「……面倒だな」
「あぁ!?」
「信じる信じないはそっちの勝手だが、あの貼り紙を貼ったのは俺じゃない。ついでに言うと、柏木がこんな状態なのは単純に俺に泣きついてきただけだ。お前達が想像しているようなことは一切ないから安心しろ」
実際はむしろ貼り紙を剥がして回収したのだが、それを言っても証拠隠滅だとか言われそうだし、柏木の状態についても悪いようにしか受け取られなさそうなため、誤解を解くこと自体諦めることにした。
柏木の頭も解放し、ハンカチで顔を拭いてやる。
「い、一誠先輩、も、もっと
「我儘を言うな。とりあえず応急処置はしておくから、本格的な修繕はあとで自分でやってくれ」
「しょ、しょんな
実際凄いことになっているぞ――とは言わないでおく。
ただ、柏木の場合素材が良いためメイクが落ちても美人であることは変わらない。
……こう言うと何故か怒られた経験があるため、これも言わないでおくが。
「さて、じゃあ行くぞ柏木」
「え? 行くって、どこに?」
「学生生活課だ」
「でも、講義は?」
「……真面目か?」
この状況でもまだ講義を受けるつもりだったとは、中々に胆が据わっている。
まあ、今の今までこんな生き方を貫いてきたのだから、メンタル強者なのは間違いないだろうが……
「お、おい待てよ! 無視して行こうとするんじゃねぇ!!!」
柏木の回答を待たずに手を引いて立たせたところで、先程突っかかってきた男達が立ちはだかる。
「……まだ何かあるのか?」
「まだも何もねぇだろが! 智ちゃんを連れてこうとするんじゃねぇ!」
「さっきも言ったが、お前達の想像しているようなことは何もないから安心しろ。これから向かうのはただの学生生活課だ」
まあ、信じる信じないはそっちの勝手と言ったのは俺なので、信用されないのも仕方がないとは思う。
なので言うだけ言って横をすり抜けようとしたが、残念ながら阻止されてしまった。
「ざけんな! 行かせるワケねぇだろ!」
「いや、行かせてもらう」
「んなっ!?」
腕を掴まれたので、遠慮なく
「これ以上邪魔をするなら、実力行使させてもらうぞ」
「っ! 上等だてめ――」
「お、おい高城! やめとけって!」
逆上して立ち上がろうとする男を、後ろにいた何人かが止めに入る。
「おい! なんで止めんだよ!?」
「ヤバいんだって! 今ので思い出したけど、コイツ一昨年、信藤君とか先輩達をボコボコにして停学になったヤツだよ! なんか、武術か何かやってるとかいう――」
「っ!?」
……あの件を知っているヤツがいたか。
俺が去年起こした暴力事件については、内容が内容なので学校と一部の関係者にしか知られていないハズだ。
それを知っているということは、少なからず奴等と面識があったということなのだろう。
見た目で判断するのは失礼かもしれないが、確かに奴等と同じようなチャラい雰囲気を感じる。
「……知っているなら話は早いが、俺は手を出してくるなら
俺がそう言うと、男達は何か言いたそうにしつつも黙って道を開けてくれた。
少々野蛮な脅しではあるが、喧嘩に発展すればお互い損するだけだから最善の結果だったと言えるだろう。
「い、一誠先輩、あの、暴力事件って、もしかして――」
周囲に誰もいなくなった時点で、柏木が少し躊躇いがちに尋ねてくる。
「ああ、俺が二年のとき長いこと休んでいた原因だ」
柏木には以前、俺が長いこと学校に行っていない時期があったと教えている。
理由は伏せていたが、もう言ってしまっても構わないだろう。
柏木にはもう隠し事をする気はないし、それにより軽蔑されたのであれば、それはまでのこと――
「それって、もしかして沼田先輩絡みだったりしますか?」
「っ!? ……よくわかったな」
「ふふ♪ 女の勘ってヤツですよ!」
女の勘も侮れないが、それ以上にこの状況で笑える柏木の方に驚かされる。
……本当に、大した女だ。
「……柏木は、本当に面倒な女だな」
「なっ!? それを今言いますか!?」
「今だからこそ言ったんだ」
何せ、その面倒な女を好き好んで選んだのが俺なんだからな。
自分でも知らなかったが、もしかしたら俺はいわゆる世話焼き体質というヤツなのかもしれない。
俺は正直、ダメ男に惚れる女の精神が全く理解できなかったが、今となっては完全に「おまいう」案件になってしまった。
まあ、こうなってしまった以上、もう開き直るしかないだろう。
俺はこの先何があっても、全力で柏木の面倒を見ることを心に誓った。
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