第3話 路上

「ったく何なのよ」

 更紗はまたぶつぶつと言いながら、巨大な絵を抱え街を歩く。自分がなんなのかはまったく考えない更紗だった。

「どうしようか・・」

 突然、住まいを失い、そして、元彼の所以外行く当てなどなかった。更紗はその自己中で独特な性格が災いして友だちが誰もいなかった。

「しょうがない・・」

 更紗は突如、路上に自分の絵を並べ始めた。

「絵を売るしかないか」

 画商にそれなりの値段でしか売らないつもりでいたが、背に腹は代えられない。更紗は路上で、絵を売ることにした。

「お嬢さんその絵、売り物なのか」

 絵を並べ、数分後、すぐに、中年の男性が声をかけてきた。

「はい」

 更紗は、今まで生まれてから一度としてしたことのない愛想笑いで返事をする。更紗を知る人間が見たら腰を抜かしたに違いない。

「なかなかいい絵だね。すごく個性的だ」

「やっぱりそうですか。やっぱりね」

 自分でも当然そう思っていたが、やっぱり、分かる人には分かるのだ。更紗は得意になる。

「買おう」

 そして、その中年男性は言った。

「ほんとですか」

 更紗はびっくりする。さすがにまさか、更紗でもこんなにすぐに絵が売れるとは思ってもいなかった。

「いくら?」

「う~ん」

 値段は決めていなかった。

「三百万円でいいです」

 本当は最低でも三千万くらいほしかった。

「ははははっ」

 その中年男性は腹を抱えて笑い出す。

「おもしろい子だ」

 そのバーコード頭の中年男性は涙目で言った。

「よしっ、三万円出そう」

 笑い終わるとおじさんが言った。

「えっ」

 更紗は驚く。

「それで、私の家までその絵を運んでくれないか」

「えっ」

「そして、他のこともしてくれたら、もっとだそうじゃないか」

 その男の重い一重瞼に押し下げられた細い目がギラリと、脂ぎった光を放った。

「ぐわっ」

 だが、その瞬間、男が顔を押さえてぶっ飛んだ。

「ふっざけんな」

 更紗が、拳を突き出し、ものすごい形相で立ち上がり叫んでいた。

「三万円なんてはした金で私の大切な絵を売るか」

 だが、まったく男の意図が分かっていない更紗だった。

「うわわわわっ」

 男は混乱しながら鼻血の出た顔を押さえ、立ち上がろうとする。

「ぐわあっ」

 そこにもう一発更紗はその男の腹に蹴りを入れた。

「舐めんじゃねぇ」

「ひぃ~」

 男は顔と腹を抑えながら、慌てふためき走り去って行った。

「まったく」

 更紗は、その背中を見送りながら憤慨する。

 しかし、その後も、声をかけてくる客はいるのだが、客はそんな男たちばかりだった。

「何で、私の絵が二万とか三万なのよ。舐めるにもほどがあるわ」

 その額が、絵ではなく更紗の女としての価値だとは、更紗は、やはりまったく気づいていなかった。

「くっそぉ~」

 路上で更紗は毒づいた。

「絵が描きたいわ」

 辺りはもう暗くなっていた。

「こんな状況でも絵が描きたいなんて、やっぱり私は天才だわ」

 こんな状況でも一人更紗は自分で自分を絶賛する。

「しょうがない」

 更紗は路上で絵を描き始めた。

「画家には時間がないのよ。まったく」

 誰に怒っているのか、更紗は毒づきながらそのまま路上の片隅で絵を描き始めた。その周囲は、あの住んでいた部屋のように、まだ数分しか経っていないのに、ぐちゃぐちゃになっていた。

「・・・」

 だが、ついに通行にすらがいなくなった。深夜、誰もいない街の片隅に更紗はいた。

「何なのよ・・」

 さすがの更紗も、孤独と心細さを感じ始める。筆がとまった。

「私は絵が描きたいだけなのに・・」

 更紗は絵が描きたかった。ただ絵が描きたかった。部屋で集中して絵を描いていたかった。絵に没頭していたかった。

「私はただ、芸術がしたいだけなのよ。絵が描きたいだけなのよ。何でそれをみんな邪魔するの・・」

 更紗は半べそになる。寂しくて、惨めで、悲しくて、最高に最低な気分だった。人のいなくなったどこか寂しい、閑散とした街の片隅に一人佇む更紗の頭上に月だけがポツンと輝いていた。

「へいっ」

 その時、突然、頭上で男の声がした。更紗は顔を上げる。そこにはチリチリのロン毛のパーマに丸い薄いサングラスをかけた年齢不詳の男が立っていた。

「へいっ、どうした」

「別に」

 誰がどう見てもあやしかった。というか、今までも怪しい男しか声をかけてこなかった。この男もそうだろう。更紗は思った。

「なんでこんなとこで絵を描いてんだ?」

 男は気安く話しかけてくる。

「いいでしょ別に」

「ふ~ん」

 男は、更紗の冷たい態度にもまったく動じた風もなく、一人何かうなずいている。

「お前もしかしてホームレスか」

「違うわ。ただアパートから追い出されただけ」

 それをホームレスというのだが、更紗に自覚はない。

「行くとこないのか」

「あったらこんなとこいないわ」

「はははっ、そうだな」

 更紗が冷たい態度をとっても、やはり、その男はまったく怯んだ様子がない。それがまたさらに怪しかった。

「これはお前の描いた絵か」

 男が路上に並べられた更紗の絵を興味深そうに覗き込む。

「そうよ」

「売ってるのか」

「そうよ」

「いくらだ」

「はあ?」

「いくらだ」

「さあ、三千万くらいかな」

「あっ、はははははっ」

 男は腹を抱えて笑い出した。

「お前おもしろいよ。気に入った」

「何よ、あたしはマジよ」

「あははははっ」

 男はさらに笑った。

「お前最高だよ。あははははっ」

「はい?」

 更紗は笑う男を苛立たし気に睨む。

「もう、なんなのよ。私は絵が描きたいだけなのよ。ただそれだけなのよ」

 アパートは追い出されるし、絵は売れないし、絵は描けないし、変な男に笑われるし、更紗は、怒りと悲しみと惨めさで、もう泣き出したい気分だった。

「・・・」

 男はそんな更紗を黙って見つめていた。

「気に入った。ついて来いよ」

 そして、男は突然勝手にそう言って、勝手に一人歩き出した。

「・・・」

 当然更紗は何を言っているのか訳が分からない。

「どうしたんだ?」

 動こうとしないそんな更紗を男が振り返る。

「あんたに気に入られたから何なのよ」

「あはははっ、ますます気に入った。まあ、ついて来い」

「・・・」

 だが、当然更紗は動こうとしない。

「思いっきり芸術させてやるぜ」

 男はさらに振り返った。

「・・・」

 更紗は、不審に思ったが、しかし、他に行く当てもない。それに何より絵が描きたかった。

「・・・」

 更紗は、絵を背負い、素早く路上に散らかした絵の道具をかき集めバックに詰めると、立ち上がった。

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