第46話 たったひとりのヒーローに

「ふざけるのも大概にしろ。悪魔ともあろうものが神にすがろうとするなッ!」

「んぐ……ッ!」


 打撃音は響かない。

 それもそのはずで、カルマの蹴りは天の腹部に命中していた。


 ……限界だ。

 もう傍観者を貫いてはいられない。


「……おい。そこは命を授かる大切な場所だぞ」

「なんだ。死にたいのか人間」


 どうやら『神様』という単語は悪の帝王の逆鱗に触れるものだったようで、カルマはかなり気が立っているようだった。相変わらず、言葉に起伏はないが。


「天が大切な人とのつながりの形を宿す唯一無二の場所なんだ。数少ない俺の将来の楽しみを奪うんじゃねぇよ!」


 本当に命を落とすかも知れない。


 けど、それでも、妹がぽっくり逝っちまう様を見るよりは幾らかマシだ。


 バトラーは意識があるものの、起き上がることもままならない。


 天は頭部からの流血が酷くて、片目は青紫色に腫れ上がっている。


 対して俺はどうだ? 


 五体満足、無傷の健全体である。


 ……情けない。能力がなくなったってだけでこのザマだ。妹に鼓舞されなきゃ、ろくに歩くもできない兄だってのに、それでも天は信じてくれている。


 俺が助けるって。自分を救い出してくれるって。


 十年前、天の川に願った夢。


 子供の妄言と唾棄されて当然の理想。


 ――ヒーローになりたいという願い。


 絶体絶命のこの状況。


 舞台の配備は皮肉なまでに行き届いている。


 ああ、なってやろうじゃねぇか。




 たった一人の、妹の――天のヒーローに。




「お前は兄貴失格だ。天は返してもらうぞ」


 強く言い放って伸脚開始。


 なんとも締まりないがやむを得まい。俺にあるのはこの身ひとつだ。


「あてられたか。お前がオレに触れることなど到底叶わなぬというのに」


 ――愚かな奴だ。


 冷笑も憤りもなく、カルマはただ無表情に蔑んで呟く。


「どうかな。やってみないとわからないぜ」


 少なくとも未来は変わっている。俺がアクションを起こしたことで、カルマの暴行がやんだ。天に人心地つく時間が生まれた。なにもしなければ、天は今も悶え苦しんでいたに違いない。


 さて、準備運動終了っと。


 仕上げに肩を回して前傾姿勢を取る。


「正気の沙汰とは思えんな。なぜ自ら死を選ぶ」

「とか言いつつ、どうせお前は自分の手で人類を滅ぼしに来たんだろ? ならここで動かなくてもどうせ死ぬ。死に場所くらい選ばせてくれよ」


 ふっと、ここにきてカルマははじめて微笑を見せた。


「変わった人間だ。……面白い。お前の拳がオレに届いた暁には、人類滅亡を繰延してやろう」


 薄ら笑いを浮かべながら、カルマは堂に入ったファイティングポーズを取る。


 いつか見た、ゆかりのヘンテコなものとは格が違う。十メートル近い間合いがあるのに、重圧がひしひしと感じられる。


 正拳突きを狙っているのか、腰は低く落とされ、固く握られた拳は腰に据えられている。 


 魔王様渾身の一撃か。

 肉片ひとつ残らず吹き飛ばされそうだな。


 最悪の展開が脳裏を掠め、回れ右して逃げようかと一時思うが、逃げたところで死というシナリオは変わらない。


 ……いや、嘘だ。俺が一発入れれば未来は変わる。


 掛け値なしに、世界の命運は俺に託されていた。


「……いくぞ」

「ああ。こい」


 角を生やした悪の帝王と対峙した男、か。

 

 こんな肩書きを持つ奴は、俺の他にいないだろうな。


 などと、早くも死後の世界に思いを馳せて、俺は駆け出す。


 仕方ないだろ? 

 そうでもしないと、いつまでも尻込んで一歩を踏み出せないんだからさ。


 人生大概は体験できるが、生と死の瞬間は一度しか味わうことができない。

 産後ほどなくして言語と知性が大成することはないし、死後「そういえば俺、この間トラックに轢かれてさー」などと世間話の一端として誰かに語り継ぐことはできないし、要するに、この二つの経験は世に共有されていない未知の事象である。


 羊水に浮かぶ感覚なんて知らないし、首が吹っ飛ぶ感覚も知らない。


 知らないが故に、未知は恐怖という感情を呼び起こす。

 人間、知らないから恐れ戦くのだ。


 気づけば、カルマの眼前だ。どうやらその時は近いらしい。


 振りかぶった拳をカルマの頬めがけて放つ。


 対してカルマは腰に据えた拳を放ち――




 あ、死んだ。




 と思った矢先、渾身のブローを放った握り拳に違和感を覚えた。

 じんじん痛んだのだ。


「……え?」


 痛んだということは痛覚があるということ。

 神経が途絶えていないということ。 


 ――生きているということ。


 身体ごと吹き飛ばされそうな豪風が吹きつけて死を悟ったのだが、瞳の先に広がる世界は俺のよく知るものだった。


 ぱちぱちと瞬きして伸ばした腕の先を凝視すれば……なんと、俺の拳がカルマの頬を捉えているじゃないか。

 蚊でも止まったかのように無反応であるが、間違いなく俺の一撃はカルマに見舞われている。


 凡人の悪あがきが、悪の帝王に一矢報いた奇跡の瞬間だった。

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