第38話 内陸部に住んでいるヤツは四月に雪なんて降るわけないと鼻で笑う

 仄かな夕陽が最後の足掻きだとばかりに街に光を届けている。

 東の空には既に白い月が控えていて、バトンタッチの瞬間を今か今かと待ち兼ねているようだ。


 あれから校内を隈なく散策し、商店街を駆け巡り、一度家も覗いて見たが、ついに天の姿を確認することはできなかった。


 運動不足のツケが回って足の限界を迎えた俺は、情けなく公園のブランコに腰掛けてコーヒーを啜っている。


 春の夜はまだ寒い。温かなコーヒーが、汗が引いて冷えた身体に染み入る。


 意気消沈してひとり黄昏れる俺は、道行く人にどう思われているのだろう。


 失恋? 落第? 


 なんだっていいさ、天に会えれば。今はそれ以外になにもいらない。


「どこ行っちまったんだよ……」


 そんなつぶやきは誰にも届くことなく、ひとしきり吹く空っ風にかき消される。


 やがて、ぽつぽつと某所で光が点り始めた。橙色だったり、白色だったり、けばけばしい光の周りからは、どんちゃん騒ぎする声が聞こえてくる。

 あのセッションに親父も参加してたりするのかな。


 街はますます夜の色を帯びていく。


「……やったな天。このまま俺が凍え死んだらお前の目標達成だぞ」


 スマホで気温を確認すると、4度。日中との気温差が20度近くあるというのに、俺はブレザーを脱いで熱りを冷ましている。身体のではなく、頭の、だ。


 外套にマフラーという重装備の人が大多数を占める中で、白シャツ一枚、しかも身体を震わせながら温かなコーヒー片手に脇にブレザーという意味不明な状態にあれば、誰だって変質者を疑うもんだ。


「ママ、あの人なんで上着羽織らないの?」「見ちゃいけません」コンボをつい先ほど喰らって泣きそうになったね。

 子供の無邪気な問いかけほど、心を抉るものはない。


 印象は最悪で、警察に通報が入ろうが文句を言えない状況にあるが、それでも家に帰るつもりはない。ひとりでは。


 あらかじめ姉貴に帰りが遅くなると連絡してある。いつか記載した通り、川野家は自由放任主義だ。強制連行なんてことはありえない。


 となれば、あとは我慢勝負である。もっとも、土俵の対面に相手がいるか定かではなく、一人相撲という可能性も十分にあり得るのだが。


 タンタンと寒さを紛らわすために足踏みしながら、その瞬間が来ると信じて身体を摩る。


 どこからか漂うおでんの香りが食欲を掻き立て、わいわいはしゃぐ子供の声に羨ましさを覚えるが……いかんいかん。今日だけは欲望に屈してはいけない。


 そんなこんなで苦行を一時間堪え凌ぐも、結果は得られず。


 さらに一時間経過したところで、視界が揺らぎはじめた。


「……れ」


 ぺたんと力なくベンチに横たわる。ベンチはステンレス製で大気の冷たさが伝播しているはずなのに、頬に触れたベンチはちっとも冷たくない。


 というか、身体が温まってきたんだが、これはホメオスタシスの秘められた作用かなんかか?


 ……なんて。わかってるさ、これは凍傷の症状だ。


 どうやら本格的にヤバい状況らしい。諦めて快復を願ってしまおうか。


 ……いや駄目だ。それは天を諦めることと同義。これまで諦めてきたものとはわけが違う。


 もう少し……もう少し……。


 景色が徐々に霞がかりはじめる。春雪だ。


 はは、とことんツいてないな。四月に雪だなんて。


 ま、地方じゃそれほど珍しいことでもないんだけどさ。


 しんしんと降りしきる砂糖みたいなパウダースノーが、俺の意識をさらっていく。


 なんだか気持ちよくなってきた。このまま夜を明かすのも悪くないかも知れない。



「――なにしてるんですか!」



 ああ、幻聴かな。


 何時間待ったんだろう。3時間? 4時間? 


 はは、よく覚えてないや。きっと俺の願望が幻聴となって現れているのだろう。



「――早く家に帰りますよ!」



 既に夢の中だろうか。

 身体が動かないのに、ぼやけた視界は動いている。



「――ほんと……どうして……」



 消えかけの視界の中、瞳に映った妹は涙を流していた。


「……よかった。無事で」


 けどさ、せっかくなら笑顔を見せてくれないか? 


 恥ずかしくて言えなかったけどさ、俺、天の笑顔が好きなんだよ。


「そんなの……できるわけないじゃないですかっ!」


 微睡みの中に落ちていく。


 しくしく妹の啜り泣く声が、意識が絶えるその瞬間まで耳を揺らしていた。

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