第31話 親族を名前で呼ぶと無性に羞恥が込み上げる

 予習ってのはダルいが、しないのはもっと面倒だ。

 てなわけで、食事と娯楽を終えた就寝直前、俺はすっかり忘れていた数学の課題を片付けていた。


 今は正の数、負の数とかいう中学生でも大抵の奴は解けてしまいそうな緩い問題が並んでいるが、ぺらぺらと数十ページ繰ればそこは未開の領域。三角関数だの、グラフの分散だの誰得な公式がヒエログリフのように並んでいる。


 数ヶ月後の数学の授業を想像して間もなく頭痛を覚えるが、なに一年の辛抱さ。来年は文系を選択して、数学と科学とはおさらばすると前々から決めている。


 そう思えば、数学の授業を終える度に終わりの瞬間が刻一刻と迫っているのだと痛感できて、名残惜しく思えてしまうというものさ。実際はほくそ笑んでるんだけど。


 そんなこんなで課題を潰し終えると、時刻は10時50分。

 うむ、6時30分までに7時間以上の睡眠時間を確保できる。明日も気持ちよく起きられそうだ。


 隣の部屋からカタカタキーボードの音がする中、照明を落として目を閉じ……。


「キーボードの音?」


 部屋は無音。外で吹く風の音がかすかに聞こえるだけで、機械的な音なんて少しもしない。


 なのになぜだろう。隣の部屋でキーボードを叩く音が響いている気がする。


 そもそも隣の部屋に誰もいないのに。


「……」


 心霊現象ってやつか? 

 んなアホな。UMAとか都市伝説とか、そういうオカルトの類いは心理的作用の一環だって、前に手首に珠々をつけたばーちゃんが言ってたぞ。


 それにこの家は、心理的瑕疵なんてものとは無縁のはずだ。


 ……でも爺ちゃん、どうして探偵なんて職業で生計を立てられていたんだ? 

 そんな非現実的な職業がこのご時世に成り立つわけがないが、しかし霊的な力を借りていたとしたら? 


 例えば霊が見えて、常人では得ることのできない情報を仕入れていたとしたら?


「なんてアニメの見過ぎだよな」


 寝よう。早く寝よう。


 羊が一匹。


 羊が二匹。


 羊が……



「――くん」



「ッ⁉」


 おいおいおいおい冗談だろ?

 なんか女の声がしたんだが?


 心霊再現ドラマなんかだと気になって身体を起こす、というが決まり切った型だが、俺はそれほど好奇心に満ちていないんでね。

 瞳を閉じたままだんまりを決め込ませてもらうとするぜ。



「――くん」



 聞こえない聞こえない。


 そうだ、これは夢だ。


 変なこと考えてたから夢にまででてきたんだ。


 はは、にしてもなんでそんな涙ぐんだ声なんだよ。


「しーくん……思い出してよ」


 ……しーくん?


 はっきりと女性の声が聞こえた瞬間、稲妻が落ちたかのような衝撃が全身を駆け巡り、気づけば俺は布団を払いのけて叫んでいた。


「――姉貴!」


 しくしく泣き声のする先に視線をやると、寝間着姿の姉貴が体操座りをして膝に顔を埋めていた。


 姉貴は驚いたように顔を上げると、


「……見えるの?」


 腫れぼったい目の端には今も涙が浮かんでいて、その姉貴に似つかわしくない姿が、俺の中の罪悪感を肥大させる。


「ああ、見えるよ。……もしかして、今日ずっと近くにいた?」

「うん。朝からずっと。でも誰も気づいてくれなくて……」


 涙ぐんだ姉貴が、鼻声でぽつりぽつりと漏らす。


 信じられない。俺の眼前で姉貴が泣き言や弱音を吐露するなんて、生まれてはじめての経験だ。相当に孤独が堪えたのだろう。


「落ちついて咲月。大丈夫、俺は見えてるから」


 隣に並んで肩に毛布をかける。


 骨身に染みるというほどではないにしろ、4月の夜はそこそこに冷え込む。こんなくだらないことで、姉貴の体調を崩させてたまるかってんだ。


「え、今咲月って」


 きょとんと目を丸くして、姉貴が上目遣いに見上げてくる。


「遭難したときなんかに、名前で呼んで意識を保たせることが大切だって言うじゃん? だからパニクってるときも有効かなって思って試してみたんだけど……」


 思えば名前呼びするのはじめてだな。


 やばい、気づいた途端に恥ずかしくなってきた。訂正したいんだけど、天、過去に戻れるかな? ってもう寝てるか。天は基本、十時には寝付いている。


「すごい落ちつく。もっと呼んで?」


 微笑を浮かべた姉貴は本当に落ち着きを取り戻しているようで、効果覿面だった以上、同じ処置を施すしかない。


「ごめん咲月、気づけなくて」

「いいよ。こうして気づいてくれたから」

「もう絶対、咲月のこと忘れたりしないから」

「約束、だよ? じゃあ、指切り」

「そんなことしなくたって、咲月との約束を破ったりしないって」

「いいじゃん。しようよ指切り」

「まったく、咲月の思考回路は相変わらず幼いままだな。……いつもありがとう」

「文脈が滅茶苦茶だよしーくん。……どういたしまして」


 お互い顔を見合わせて微笑み合い、指切りげんまんをする。


 それからしばらく、取るに足らない会話をしながらぽんぽん肩を一定のリズムで叩いていると、姉貴はすぅすぅと寝息を立てはじめた。

 安心しきって眠っちまったらしい。まるで子供だ。


「いつも俺が世話になってるんだ。たまには助けさせてくれよ」


 姉貴を持ちあげてベッドに寝かす。

 ふにゃふにゃ百面相を見せる姉貴は、どんな夢を見てるのだろうか。


 一人で悲しみに耐えたいい子なんだ。

 神様、どうか特上の夢を見せて上げてください。

 今日の悪夢を忘れてしまうくらいの。


「さて、天……は寝てるから騎士様に頼りますかね」


 目には目を。歯には歯を。異世界人には異世界人を。


 入浴時を除き、常に手首に付けているリストバンドに俺は強く願う。


 バトラー、力を貸してくれ。


「もちろん、マスターのためなら喜んで」 


 目を開けば、軽装のバトラーが眼下で平伏している。


 なんてレスポンスの速さだ。さながらリストバンドが魔法のランプで、バトラーは魔神ってとこか。

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