第32話 理想と空想は思いのほか重なっていることが多い
「悪いなこんな遅くに」
「いえいえ、ちょうど狼の親子も眠りについたところでしたので」
バトラー、お前森暮らしだったのか……。
俺んちに居候するか?
「とんでもない。僕は自然に身を委ねた方が落ちつきますので」
「そっか……」
さすが伝説の騎士。寝床は不必要らしい。
「ところで、どのような要件で僕を呼び立てられたのですか?」
部屋を見回すバトラーの表情は、言外に異状が見受けられないということを物語っている。
俺のベッドで姉貴が昏々と眠っているのに、だ。
「念のため確認したいんだが、俺のベッドの上になにか見えるか?」
「と言いますと?」
少し抽象的すぎたらしい。バトラーは俺がなにを問うているのかさっぱりと言った様子で、首を捻っている。まぁこのリアクションが答えも同然なんだけど。
「女性が眠りこけてるんだが見えるか?」
「女性? すいません。僕には不自然に盛り上がった布団しか見えないです」
なるほど。お前にはそう見えてるのか。
「川野咲月って名前に覚えはないか?」
バトラーが姉貴を思い出さないことには話が進まない。
フィクションの世界だと、名前を思い出すと同時に記憶が蘇るという流れが定番だから、とりあえずその型に沿ってみるとしよう。
突然、誰にも気づかれなくなるなんて非現実的な現象の解決方法は、ネットに頼っても仕方ないからな。仮にヒットしても、九分九厘眉唾物だ。
「川野……咲月? マスターの親戚の方ですか?」
「姉だ。覚えてないか? お前が昨日、ルクシア様の血筋を引く方だとかなんとか言って、崇めてた女性だ」
バトラーはこめかみを押さえながら呻吟すると、
「……柔らかな笑みが素敵な方ですか?」
「っ⁉ ああ、そうだ。年中ほわほわしたオーラを纏ってる」
バトラーは思い出せそうで思い出せないというむず痒い時間に苛まれながら、しばし声にならない声で唸った末、
「……咲月様。思い出しましたマスター。川野咲月様ですね」
興奮気味に言うとバトラーは再びベッドを一瞥し、前回とは大きく異なるリアクションを見せた。
「咲月様っ⁉ いつの間に……」
驚愕に目を見開いている。
今しがた姉貴が現れたと言わんばかりの驚きようだ。
「お前が来た時、姉貴は既にそこで寝てたよ」
「そんな……」
「不可解な現象に陥っていた、と把握してもらった上で聞きたいんだが、この手の現象を起こす奴に心当たりはないか?」
ここでバトラーが白旗を振った場合、必然的にこの現象を心霊現象の類いだと思わなければならないが、まあそんな事態は起こりえないわけで。
「はい。いくらか」
複数候補があるのか。
俯いて黙考し始めたかと思うと、バトラーは確信に満ちた表情を浮かべて姉貴を見据えた。
「サキュバス、と思われます」
サキュバスと言えば、男を誘惑することで有名なえっちなお姉さん悪魔である。
なんでそんな超自然的存在がいるんだよ……と思うが、神様も魔法少女も騎士もいるのだから、なにがいたっておかしくない。
しかしサキュバスは男を襲うもんじゃないのか?
「女性型はサキュバス、男性型はインキュバスと言います。ですので、インキュバスが咲月様を惑わした、と一般論に基づけば結論づけられるのですが……」
バトラーは難解な数式に直面したかのような小難しい顔を作る。
「サキュバス、なんですよね。咲月様の命を奪ったのは」
「待て。姉貴は死んでるのか?」
「ああ、すいません。言い方が悪かったですね。現在咲月様は外部に存在を認識してもらう生命エネルギーが極端に低い状態にあります。存在を感知されなければそれは死も同然。もしマスターが咲月様に気づかずに眠りにつかれていましたら、恐らく咲月様は明日の世界に存在し得なかったでしょう」
淡々とバトラーが語る一方で、俺はもしもの可能性に身体を震わせていた。
姉貴がいなくなっていたかも知れない。
他ならぬ俺の願いごとのせいで。
百合の一件といい、今回の一件といい、どうしてこうも身内に被害が及んでしまうのだろう。
いや、身内じゃなけりゃいいってわけでもないんだ。
俺のせいで誰かが不幸になるなんて、そんなのは絶対に嫌だ。
俺は、俺の私情で誰かの何気ない毎日を壊したくない。
誰にだって与えられた人生がある。
楽しみがある。夢がある。つらいことがある――。
そんな大切なものに掣肘を加える権利は誰にもないんだ。
「ですがもう大丈夫です。なぜなら僕が気づいたのですから」
カチャっと金属の擦れ合う音がした。
顔を上げると、バトラーが虚空に剣を向けている。
なにもいない、姉貴と天井の隙間の空間。
まるでそこになにかがいるかのように。
「どうする淫魔。今すぐ咲月様の元から去るなら、命だけは見逃してやってもいい」
バトラーの瞳に剣呑な光が宿る。
昨日から温和な一面しか見ていなかったからか、引き締まった顔つきで虚空を睨み据えるその姿に思わず息を呑んでしまう。
まるで別人だ。これが英雄バトラーの真の姿。
味方の俺にさえ、目に見えない圧がガンガン伝わってくる。
「――降参よ」
どこからか艶めかしい女性の声がした。
「まったく……もう少しだったってのに、とんだ誤算よ。伝説の騎士様に、伝説の皇女の力の片鱗を見せたお嬢ちゃん。わたし一人の手に負えるわけがないじゃない」
はぁと重々しい溜め息が聞こえてくる。
気怠げな声色から女性の疲労が窺えた。
「やっぱりか」
しみじみ呟くバトラーが、なにに納得したのかはわからない。昨日から意味深な言動が多いように感じるが俺の思い過ごしだろうか。
まるでなにか慮っているかのような……。
「ひとつだけ問いたい。お前は自らの意志でマスターの命を奪いに来たのか?」
俺? どうしてそこで俺の名前が……と思うが思うだけに留める。緊迫した空気が漂ってるんでね、とてもじゃないが口を挟めまい。
「ふーん。今の状況だけでそこまでわかっちゃうんだ」
「いいから答えろ。お前はお前の意志でマスターを狙ったのか?」
しばしの沈黙の末に、再びため息をつく音が聞こえた。
「……いいえ。カルマ様の命よ」
またカルマか。天が言うように、すべての悪事の後ろ盾にはカルマがいるらしい。ほんと、我ながら厄介なもんを作っちまったよ。
「そうか……もういい。とっと異界に帰せ」
「あら、もういいの?」
「今、カルマに目を付けられたら色々と面倒だからな。今の会話は他言無用にするように。口外したら呪術で命を落とすことになるぞ」
呪術ねぇ。口封じのためのはったり、なんてことはないんだろうな。
こいつは昨日から一度だって虚言を吐いていない。言葉は全部真実だ。
そのことは、目には見えない彼女も重々承知しているようで。
「忠告してくれるなんて、案外優しいのね」
「無駄な命を奪いたくないからな。カルマを討てばすべては解決する。お前だって自由に生きたいだろ?」
「やだ、本気で惚れそう」
「ならもう二度とマスターの元に来るな。いいな?」
横柄に言い捨ててバトラーは剣を振るう。
すると、気のせいかな、ブラックホールのような暗黒空間というか時空の断裂というか、筆舌に尽くしがたい現象が生じて、その空間にたぷんたぷん二つの双丘を揺らす妖艶な女性が吸い込まれていく様子が薄らと見えた。
え、今のがサキュバス?
イメージ通りすぎて驚きなんだが。
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