しょうもない価値観






※相当暗い、しょうもない内容になります。


























































 僕は、ただの16歳のガキです。

 そんじょそこらの高校生と一緒です。

 将来の夢。

 志望大学。

 ある程度は決まっています。

 僕のしたい事はもうずっと決まっているので。


 僕は、ただの16歳のガキです。

 ただ変に捻くれている性格が呪って、小学生の頃は、良く傷心していた。

 大人ぶろうとした。

 人とは違う特異感が良かった。

 変と言われるのが好きだった。

 男子でピアノをしている。

 散々嘲笑された。

 誰かに言う度、ほぼ毎回言われた。

 小一の頃は、良く殴られていた。

 だから空手を始めると、誰も殴って来なくなった。

 今思うと所詮人とは弱者の殻を破れない生物なのだなとつくづく思う。



 ◇

 


 作曲をしている。

 その上執筆もしている。

 連帯責任が大嫌いだ。

 理不尽が大嫌いだ。

 人と一緒くたにされるのが大嫌いだ。

 好きな物を馬鹿にされるのが大嫌いだ。

 自分の努力を嘲笑されるのが大嫌いだ。

 誰かが不幸になって行く姿は大嫌いだ。

 自分の所為で誰かが不幸になるのは大嫌いだ。

 変に自分に期待をしてしまう所が大嫌いだ。

 この閉じられた社会が大嫌いだ。

 強制されるのが大嫌いだ。


 そう書き尽くして。

 これらに関しては、一切揺るがぬ信念である。

 だからこそ、信念を否定されると、落ち込む。

 一般の高校生のほぼは(リアルで僕の周りの同級生)、志望大学もあやふやで、信念も揺らぎ、周りに流され、結局今にしか目を向けていない存在。(勿論そうで無い人も沢山いるが、一般にこういう人の方が多いと思っている)

 だからこそ、色んな意味で正義感のある大人は、その性根をより“一般的”なものへ矯正しようとする。

 模索している、つまり既に敷かれているレールをフラフラしている人は、そこに矯正と言って通行止めにされても、新しいレールを見つける。

 でももう進むレールが一本に固定されている人は、そこに矯正と言って通行止めにされると、無理矢理そこを突破するしか方法は無くなる。

 僕は進むレールがほぼ一本に固まっていると思ってるので、それを真っ向から否定されたり刺激されると、相当な憤りを感じる。

 時に落ち込む。

 ちなみに今は落ち込んでるのでこんなもの書いてます。


 連帯責任が一番嫌いです。

 自分は悪く無いのに、何故が咎人にされる。

 しかも学校では、自分たちが希望した訳でも無い赤の他人を、クラスという檻の中に閉じ込めるだけで、そこに何かしらの友情が生まれると思っている。

 そしてクラスは結束しているという誤謬より、大して仲良くも無い奴の咎を自分も被る事となる。

 苛立たしい。反吐が出る。心底、憤慨する他ない。

 しかし、不思議な事にあまりこの考えに誰も疑念を抱かない。

 だからこそ僕の様な思想は、マジョリティにより欺瞞される。

 そしてそれが正答だと社会も黙認する。


 しかし連帯責任は楽なのだ。

 ただその一帯を咎めるだけで終わるのだから。

 咎人一人を咎めるよりよっぽど早い。

 効率的なのは連帯責任であるがそれは個を見ない。人を人として見ることを放棄しているに等しいと思う。

 結局、“その辺”なのだ。

 だからこそ理不尽なのだが。

 余計に腑が煮え繰り返るものだ。



 ◇



 改めて読んでも、しょうもない文章っすね。

 ただの自己満ですよ。

 ほんと――――何これ。

 ただの我儘です。

 クソガキの我儘です。

 もう、忘れて下さい。

 投稿はしますが。

 是非忘れて下さい。

 お目汚し失礼しました。



 





 

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