第2話 特別な力


栞は、女子トイレで鏡を覗きながら、『ちょっと浮腫んでる……』と思っていた。

昨夜、遅く帰ってから、母親が取っておいてくれた夕食を食べたからだろう。

家に着くまでは、楽しくて気が付かなかった。食卓に取り置いてあった肉団子のミートソースパスタを見たとたん、ものすごく空腹だと気づいた。全部食べてしまった。

「やだ、夜までに治るかな……」頬を手で押さえながら、栞は呟いた。

普段は、合コンでも、デートでも、あまり見た目を気にしていなかった。合コンの約束を忘れて、めちゃめちゃ普段着に、ナチュラルメイクで来てしまうこともしばしばだった。メイクも髪も服もキメた女子軍の中で、何の準備もない栞は、浮いてしまっていたが、それでいて一番モテるので、だんだん合コンには誘われなくなった。

 今日、鏡を覗くのは、何度目だろう。栞は、自分でも可笑しく思っていた。

(瀬良さんが、ものすごく綺麗な男の人だから――ちょっとこっちも気合が入っちゃう)

鏡の中の自分の瞳を見た。赤みがかった茶色の瞳。瀬良の目と同じだった。昨日、瀬良の心を覗こうと見つめ合った時、離せなくなるかと思った。引き合う力があるようだった。

『栞ちゃん、明日も来れない?』

昨日から、これを何度思い出しているだろう。丁度、昨日の今頃は、瀬良を怪しみながら、気になって仕方がなかった。今日も、気になって仕方がない。

私と同じ人――もうそれだけで、会いに行くのが正しく思えた。

ふと、桂のことを考えた。今日は来られないと言っていた。それが、それほど気にならない。桂も同じ瞳なのに――

 昨日、何度も目が合ったのに、瀬良の時のようにはならなかった。

 年齢的には桂の方が釣り合うだろう。容姿も瀬良に劣っていない。瀬良が野性的な美しさなら、桂は甘くキュートな青年だった。桂と話している時は、容姿なんて気にならなかった。瀬良を見ると、美しさに見とれた。きっと、他の人なら『おじさん』だと思う年齢の筈なのに。

(でも、瀬良さんはバーテンさんだもの。別に本気でどうこうなりたいわけじゃない。私と同じっていう、特別な人と会って、話して、そういう楽しみがあるだけで、いいじゃない)栞は、もう一度頬を引き締めるように押さえた。


今日も七時に着いた。ドアに手をかけると、開いていた。

「今晩はー」店内は薄暗かった。

「いらっしゃい。そろそろ来るかなーって思ってたよ。どうぞ」瀬良は黒いシャツの袖をまくって、氷を砕いていた。少し浅黒い肌、長めの髪に、黒いシャツがすごく似合っていた。

 今日も、【特等席】を示されて、栞はそこに座った。

「栞ちゃん、夕食食べた?」瀬良は砕いた氷を冷凍庫にしまいながら訊いた。

「いえ、会社からまっすぐ来たんで」

「ピザ好き? ここの7階のイタリアンレストランの方からもらったんだけど。俺も今から夕食にするところだから、一緒にどう?」瀬良がLサイズのピザの箱を出してきた。

「嬉しー、いただきます。実は、昨夜、あの時間に帰ってから、夕食食べちゃったんで、今日、起きたら顔が少し浮腫んでたんです」栞が言うと、瀬良は笑いながら

「そう?」と言って栞を見つめた。

栞は、昨日より念入りにメイクをして、少しカットの大胆なノースリーブの紺のワンピースを着ていた。会社を出る前にメイク直しはしてきたけれど、今日も暑かったので、メイクが浮いていないかと心配になった。そういえば、ピザなんか食べたら、リップが落ちちゃうかも……普段は恋人の前でも、合コンでも気にしないのに、瀬良の前だと、いろいろなことが気になった。

「綺麗だよ」悔しいくらい涼しい顔をしている瀬良にそう言われて、顔に血が上るのがわかった。瀬良の目を見返していると、また離すことができなくなっていた。

「ばんわー」そう言って、桂が店に入ってきた。

「あれ、桂くん、今日は来れないんじゃなかったの?」瀬良が桂の方に目を移したので、やっと栞は瞬きをすることができた。

「なんすか、その、来なくてよかったのに的な……」桂が不満そうに言いながら、栞の隣に腰を下ろした。

「何! ピザ! 俺にこんなサービスしてくれたこと無いじゃないですか。どーしたんですか瀬良さん」

「これから、これで、栞ちゃんを口説くところだったのに」瀬良がそういうと、桂は「ピザで? セコっ」と馬鹿にした。栞は、桂に向けた冗談だとわかっているのに、ドキっとした。

「栞ちゃん、今度、食事に行かない? おいしいところ、結構、知ってるんだ」桂がナンパのお手本のような誘い方をすると、「栞ちゃんに手を出したら、この店、出入り禁止ね」と瀬良は言い残して、厨房へ入っていった。

「瀬良さんが怖いんでー、栞ちゃんを口説いたりしませーん」桂が厨房へ向かってそういうと、栞は「瀬良さんが、怖いだなんて」あり得ないというように否定した。

「瀬良さんは、怖いよ。栞ちゃんが知らないだけ」

「どういうことですか?」栞は、思わず桂の方に体を傾けて訊いた。

「前にさ、そこのボックス席に座ってた客が、女の子のカクテルに薬入れたんだよ。あれ、睡眠薬的なもんでしたよね。きっと」

 厨房から取り皿を持って戻ってきた瀬良に桂が確認すると、「そんな感じのものね」と瀬良も肯定した。

「僕も、その時はブロックかけてなかったんで、わかったんだよ。あ、こいつ、やったなって。そしたら、瀬良さんが、すぐに、女の子の飲んでたカクテルと同じの作って持って行って『お取り換えします』って薬の入ったグラスを取り上げたんだよ。女の子は訳分からず、キョトンとしてたけど、男の方は、ヤバって思ってた。その時、瀬良さんが男の顔を見たんだよ。睨むとかじゃなく、ただ見たんだけど、その時の目がさ。マジ怖くて凍りつきそうな目してたんだよ。その男もちびりそうになってたけど、僕も見てて泣きそうになりましたよ」

瀬良はピザを取り皿に移しながら、眉をあげた。

「瀬良さん、怒らせたら、めっちゃ怖いよ」という桂の言葉を聞かずに、栞は「素敵……」と溜め息をついた。桂は、カウンターについていた肘をガクっと滑らせた。

瀬良は、思わず笑ってしまった。営業用ではなく……

取り分けられたピザを頬張りながら、「あ、けっこう、上手い!」と桂が褒めると、

「ここの7階のイタリアンレストランの方から頂いたんだよ」と瀬良は栞にしたのと同じ説明をした。

「確実に、女でしょ」決まってるというように、瀬良を指さしながら桂が言うと、「ま、女性だけどね、毎日は無いからね」と瀬良が二人に向かって答えた。栞も一口食べた。本当においしかった。どういう状況で、レストランの女性が瀬良にピザを差し入れたのか想像できなかった。

「で? 昨日、桂くんは聞いたんだろうけど、俺は、今日、この話を聞きたくて、栞ちゃんを待ってたんだから――教えてよ。栞ちゃんの特別な力を」瀬良がそういうと、桂が「実は、僕も昨日は聞けなかったんですよ。あの時間、結構この辺、人通りが多くて、大通りまで、その話する機会がなくて。大通りに出たら、タクシー、すぐ捕まっちゃって。一緒に乗ろうかと思ったのに、栞ちゃんが『大丈夫です』って断るから」桂がもう少し面白い下りにしようとしていたのを遮って、

「栞ちゃん、教えて――」と囁いた。


栞は、溜め息をついた。そのために、瀬良が、今日もおいでと誘ってくれたのはわかっている。このピザも、さっきからの優しさも、瀬良の色気も、あの瞳も……。栞がどんな力を持っているか、知りたいだけなのかもしれないと。

「なんか――、言いたくないです」栞は素直に言った。

「お二人に会って、この二十五年間、自分は人と違うんだって思っていたのが、同じ人が二人もいるって、昨日は、すごくハイになりました。それなのに、この話しをしたら、私、お二人にも、こいつは違うんだって思われてしまうんじゃないかと……」

瀬良も桂も、そんな栞を見て、微笑んだ。

「そんな訳ないじゃん。じゃあ、僕から話そう。たぶん、栞ちゃん、僕と同じことは出来ないだろうから。瀬良さんも出来ないって言ってたから――僕はね、周りの人の考えている事が声みたいに聞こえるんだ。ここまでは、栞ちゃんも、瀬良さんもそうだよね。そして、この能力にオン・オフがつけられる。つまり、聞きたくないなって思ったら、聞こえないようにもできるんだ」

「ほんとですか?」栞が驚くと、瀬良が頷いて肯定した。

「さっきの、ブロックかけてなかったっていうの、何のことかなって思ってたんです。そういうことなんですか?」

「うん、集中すれば、今の栞ちゃんとの会話みたいに、何も雑音なしで、普通に会話できるんだ。昔はね、相手が何も考えられないようにすることができるのかなって思ってた――僕、あの【声】のこと、けっこう小さいうちから"雑念"って思ってて。割とさ、実際声に出して話してることと、あの【声】の内容が正反対だったり、見た感じの印象と、今考えてる内容が、すごく合ってなかったりってあるじゃない? だから、あの【声】は、"雑念"だって思ってたんだよね。集中すると"雑念"が聞こえなくなるから、考えさせないようにできてるのかと思ってたんだけど、長い間に、ひょっとしたら、ただ聞こえてないだけかもって思う節もあって――瀬良さんと出会って、答え合わせして、初めて分かった。ただ聞こえないだけ。ブロックなんだって――でも、僕はけっこうこの能力を楽しんでてね」

 桂の言葉に、栞は、心底羨ましいと思った。

 昨日、この二人と、本心の聞こえない会話をして、楽しくて。今日も待ち遠しかった。それが、誰とでも、望めばできるなんて、素晴らしいと思えた。

「それ、素敵です。その力が欲しかったです」

「そう? そんなでもないんだよ」桂が不満そうに言った。

「なんでですか。さんざん、いらない声が聞こえてきて、嫌な思いしてますよね。聞こえなかったら、こんなにいいことないじゃないですか」そう栞が主張すると、

「それがね、そう、便利でもないんだよ。この力ー」と桂が語りだした。

「集中すれば聞こえるなら、便利なんだけど、集中しないと聞こえなくならないんだよ。例えばね、女の子とデートしてる時、あえてブロックをかけて、相手の本心が聞こえないようにしてると、表面上の態度が全てになって、かわいくて、すごく楽しいんだよ」

「わかります。そうなれたらって、いつも思ってます」栞が相変わらず羨ましそうに言った。

「でもね――、集中してないと、ブロックかけられないんだよー集中していられない瞬間ってあるじゃない」桂がそこまで言うと、瀬良は、もう可笑しそうに笑いを堪えていた。

「もう、最高のデートのクライマックスで、集中していられなくなった途端、相手の女の子が、どんなセリフを駆使して『こんなに良かったの初めて』って僕に伝えようかって算段してるのが聞こえてきちゃった時の萎えること……」

瀬良が、堪らず、声を出して笑った。

栞は、両手で顔を覆った。

「ぼくの特殊能力は、そんな感じ。栞ちゃんは?」桂が本題に入るように言った。

「私はー他人の意識の欠片が見えるんです。たぶん。そういう感じ。その人記憶みたいなものを選んで見ることができる。と思います。」

「どんな感じ?」桂が興味ありげに訊いた。

「んー、その人の中に入れる……みたいな。同調するっていう感じ。例えば、こうして背中を向けていても、後ろの人の目を通して、自分の背中を見ることができます」

「へー」桂が感心した。

瀬良には、その感覚がわかったが、それぱ黙っていた。

「昨日は、真理子さんの意識を操って、実は専業主婦だって告白させたの?」瀬良が興味ありげに尋ねた。

「いえ、操るっていうか……。同調ー覗けるって感じだと思います。意識を結びつけると、その人の意識の欠片みたいなものが感じられて、それを覗くって感覚です。今、その人が、そのことを思い出していなくても、意識をあわせた私が、その記憶を思い出してる、みたいな。真理子さんの意識の欠片は、ものすごく大きいのが一つあって、ご主人のことなんです。良くも悪くも真理子さんの世界はご主人のことでいっぱいなんです。ご主人には、他に女の人がいて、その人のところに行くらしいってわかった日は、真理子さん、ここに来るんです。私にはマスターがいるって」瀬良を見つめながら栞が言った。瀬良がわざとらしく胸を押さえた。

「真理子さんと意識を結びつけたら、真理子さんの毎日は、家事と、ご主人のことしかなくて。ああ、この人専業主婦なんだって」

「ふーん、すげー」桂が感心しながら「じゃあさ、彼氏のこれまでの女性遍歴とかも、全部わかっちゃうんじゃない?」と尋ねた。

「そうなんです。絶対見ないようにしようって、心に決めるんですけど、やっぱり気になっちゃって。デート中にとか、彼が、ふと元カノのこと思い出したりすると、もう、やっぱり覗いちゃいます。ダメってわかってるんですけど」栞は、これだって、嫌がられそうだから、言っちゃいけないと思っているのに、今まで、誰にも話したことのない秘密を打ち明ける、ある種の快感に、言葉を止められなかった。「いらないです。こんな力」それでも、栞は、自分がこの中でも浮いてしまわないか心配だった。

 実際には、意識を同調したとき、意識の欠片に色がついて見えると思っていた。全く別人でも、同じ意識には同じ色がついているとも思っていた。その部分は話さなかった。

「瀬良さんは? 瀬良さんも、ちょっと違う能力があったりします?」期待を込めて栞が訊くと「ああ、俺は、その人のお酒の定量がわかります」と瀬良は答えた。

「あれ、前に僕に言ったのと違うじゃないですか。僕には、『機械の心が読める。だからパチンコの当たり台がわかる』って言ってたじゃないですか」桂が信じていないくせに、抗議すると「ああ、あれはね。先週の日曜日、その能力がないことが証明されちゃったから」と瀬良が返した。

「幾ら負けたんですか」噴出しながら訊く桂に「言いたくないくらい」と答えたところで、二人の男は爆笑した。

瀬良にも違う力が有るのかどうかはわからずじまいで、なんとなくそらされてしまったと栞は残念に思っていた。そして、本気で笑い合う、桂と瀬良を羨ましく思った。

昔から、男になりたかったと思っていた。

男子同士が馬鹿みたいに笑い合っているのを見ていると、本当に裏表がなくて、本気でふざけているのが、楽しそうで、羨ましかった。

女同士は、絶対あんなふうになれない。ましてや、男と女では。

栞が楽しそうな男二人を羨みながら、「いいですね。男子同士って」と呟くと桂が、

「何、栞ちゃん、BL好き?」と返してきた。「違います!」と大きく否定しながら、それで思い出したことがあった。

「お二人は、この能力を上げようと思ったことあります?」と栞が訊くと、桂が、「あるある、もっと遠くの声まで聞けたら……と思ってね」と答えた。瀬良は「どうかな……うまくコントロールしなきゃ……とは思ってたけど」と呟くように言っていた。

栞は、「私、中学に入学して間もなく、三年の先輩が気になっちゃって」と話し出した。

「先輩は、私が昇る階段の途中に毎朝いるんですけど、なんだか私に敵意のある目を向けてくるんです。別に【声】が聞こえてきたわけではないんですけど、この先輩に何かした覚えもないし、最初はものすごく落ち込んだんです――そのうち、だんだんその先輩のことが気になるようになっちゃって」

「おっと、恋バナ?」桂がニヤニヤしながら聞いていた。

「意識を合わせちゃえば早かったんですけど、何か反則を使いたくないって思って――先輩と仲のいいバスケ部の部長がいたんですけど、この人と意識をあわせて、一緒に帰ってる気分を味わってみたり……」

「おー、そんな使い方があるんだ! 便利ぃ」桂が調子よく合わせてきた。

「一番近くにいる部長さんの意識を通して、先輩の見たこと無い一面を見たりして、けっこうハマってました」

「すげー巧妙な覗きだね」

「はい」

相槌は桂に任せて、瀬良は黙って聞いていた。

「ある時から、先輩が不登校になっちゃって、先生も原因が分からないみたいだったので、気になって、家にいる先輩の意識を捕まえようと、目一杯集中したんですけど、ダメで。何日かがんばったんですけど、私は、もっと遠くまでっていうのは無理でした」

「もっとって、どのくらいなら行けるの?」「んー、ここからなら、大通りくらいまでかな……」栞が言うと、桂も瀬良も、一瞬ぎょっとした。

「あ、ヤダ……。今、気持ち悪がってますよね」

「気持ち悪いとは思ってないけど、そんなに凄いとは思ってなかったから。在宅ストーカー……」

「ひどいです、桂さん。やっぱり気持ち悪がってるじゃないですか!」口ではそう言ったけれど、栞は笑いに持って行ってくれた桂に感謝していた。

「僕は、そうだなぁ、この店の中くらいまでしか無理だな。一番奥の人とかの声は、もう聞き取れないと思う。ブロックかけらるのも、同じくらい、っていうか、そもそも聞こえない声をブロックかけらてるかどうかはわからないからな。瀬良さんは?」

「俺は、ここからなら、店の近くまで来た客に気づけるから、そうだなぁ。五十メートルくらいかな」

「私も、【声】が聞こえるのはそのくらいです」栞も慌てて訂正した。

「意識の欠片を見つけることができるのは、けっこう遠くまで。集中すれば。意識を合わせていられるのも、うんと集中すれば……っていう意味です」

「うーん、僕にはない感覚だから、分からないけど、凄いよーで、先輩の話、その先、どうなるの?」

「ああーあの……、先輩の家を調べて、近づいて意識を合わせようと思って、部長さんの意識に同調したんですね。そしたら、先輩の不登校の原因がわかっちゃったんです」

「何?」

「先輩、部長さんのことが好きだっんです。部長さんにそのこと告白して『気持ち悪い』ってフラれて、不登校になってたんです」

「ここー? まさかのBLに繋がるのー!」

桂は本当に大丈夫そうだったけれど、瀬良は黙って何か考えているようだった。栞は、やっぱり話したことを後悔した。

(言わなきゃ良かった。瀬良さん、引いてる)

「わかった。その先輩、栞ちゃんに敵意向けてたのは、部長が栞ちゃんを好きだったんでしょ」

「好きっていうか……一年に入ってきた子がかわいい……みたいな話を部長にされて、私が気に入らなかったみたいです」桂の軽口に相槌を打ちながら、栞は瀬良の態度にショックを受けていた。

「ここから、大通りって、どのくらいだろう。1キロはないか? 僕はさ、プレゼンの時とか、相手の考えていることがわかると、ものすごく、落としやすいんだけど、たまに、大きな会場とかで、奥の席に一番落としたい相手がいたりしてさ。そういう時は、もっと遠くの【声】まで聞き取れる力が欲しいって思うんだよね」

「桂さん、本当に、この力のある生活を謳歌されてるんですね」

栞は桂と会話しながら、気持ちを保つのが限界だった。

『瀬良さん……私のこと嫌がってる?』

桂も黙っている瀬良に気づいていた。

(瀬良さん、そりゃないじゃない。栞ちゃん傷ついちゃってるよ)さっきからの軽口は、何とか栞をフォローするためだった。瀬良の態度が台無しにしていた。

「瀬良さん……やっぱり、気持ち悪いですか?」堪らず、栞が尋ねた。

「ん?」黙って考え込んでいた瀬良が、そういう栞に「ちょっと聞きたいんだけどさ」と切り出した。

「BLって何?」

「そこっすか、瀬良さん……」ガクッと肩を落としながら、桂もほっとした。

「で、何?」瀬良が今度は桂に尋ねた。

「どーしよっかなぁ。瀬良さん、空気悪くしたから、教えないかなぁ」桂が栞のために瀬良をからかった。

「何で。俺が、いつ空気悪くしたんだよ」瀬良の口調は、まるで栞の特別な力を気にしていなかった。栞もホッとして笑った。

「いーよ、別に……」と言いながら、瀬良は厨房に引っ込んだ。

「あ、瀬良さん、スマホでBL調べてるよ」と桂が冷やかした。

「うるせー」と奥から瀬良が返してきた。

「でもね、瀬良さん、フリック、めっちゃ下手だから。すんげー時間かかるのに、間違ってるから」と桂が、瀬良に聞こえるように言って、栞を笑わせた。

「きっとね、今、まずアルファベットにするのに四苦八苦してるから」と畳み掛けるように馬鹿にする桂の声に、「くっそー」と瀬良が返してよこしたので、栞も声をたてて笑った。

(よかった。この人たちは大丈夫なんだ。私のままで受け入れてもらえるんだ)栞はひどく嬉しかった。

 瀬良がすっきりした顔で出てきて。「さて、何か、飲む?」と訊いたので、栞も桂も噴き出した。

「すっきりしましたか、瀬良さん」と訊く桂に、「別に、知らなくても、俺の人生に影響ない言葉だった」と答えて二人を笑わせた。

「でも、この手の方たちにも、モテるでしょ?」と桂が訊くと。

「いや、そっちは、多分、桂君のほうが……」と瀬良が返した。

栞には、どちらも抜群に容姿の整った二人の、どちらが男性にモテるのかは、わからなかった。

「実際ね、僕が、今通ってるジムのトレーナーが、筋骨隆々でね、トレーナーとしては。ものすっごっく優秀なんですけど、僕が行くたびに、脳内で、僕を丸裸にして、舐めまわすんですよ」と打ち明けた。栞は顔を両手で覆い、瀬良は腹を抱えて笑った。

桂が不意に「僕たち、どうしてこんな力があるんでしょうね」と切り出した。「何か、使命があるとか? 今に、このそれぞれの力を駆使して、地球を救うとか?」

「えー!」突拍子もない桂の考えに、栞が驚いた。

「やだよ、そんなの。疲れる」けだるそうに瀬良が言ったので、三人で笑った。

笑う栞を見ながら、瀬良は頭の中で、記憶を探る栞の力のことを考えていた。

意識を合わせる感覚は、瀬良にもわかった。

他人の五感を手に入れることは、瀬良にも出来た。栞ほど、遠くの人間と意識をあわせることはできないが、一度に数人の意識と五感を捕まえることはできた。栞はどうなのだろう……と思った。

記憶を覗く……その感覚はわからなかった。

(危険な力だ――)と瀬良は感じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る