パンドラ

ゆぎ 真晝

第1話 同じ瞳

(ざわめきが違う……)

出勤ラッシュの地下鉄の中、『うわぁ、めっちゃいい男だぁ』という、誰かの【声】が聞こえていた。珍しいことじゃない。この不快な人混みで、よくそんな楽しみを見つけられるものだと思うほど、他人の観察をしている人は、意外と多い。栞はうつむいてスマホをいじるのが常だった。自分を見られるのが嫌いだった。

それにしても、今朝の【声】は、異常だった。

『すごっ。あの人』『やばい。モデルか何かかなぁ』『次の駅で、動けそうだったら、あっちに移動しよう。』『こっち、向いて! もうちょっと、正面から顔、見せて!』『きっと、いい匂いする。あの人』あちこちから、何人もの賞賛する【声】が聞こえていた。

ふと視線を上げると、少し離れた所に立っていた男がこちらを見ていた。

見つめられることには慣れていたが、大抵は、こちらが見返すと視線を反らすものだった。

その男は、悪びれもせずに、まだこちらを見ていた。

少し浅黒い肌。長めの髪。

吊革につかまった腕に、自分の頭をもたれさせて、けだるそうな格好でこちらを見つめ続けている。

【声】たちの賞賛は、この男に向けられたものなのだろう。

ものすごく、綺麗な顔をしていた。だからなのか、その権利があるかのように、栞の顔を、目を、見つめ続けていた。

(何だろ、嫌な感じ)と、思いながら栞は気付いた。(あれ、この人……)驚きが表情に出てしまった。

男は、ニヤリと笑った。

丁度、栞が降りる駅に電車が停まった。栞は慌てて立ったが、男のことが気になって、降りるかどうか、迷った。

男は、察したように、栞を促して、自分もその駅で降りた。

「気付いたね。やっぱり、君もなの?」目の前まで来て、男が言った。

どういう意味か、栞は量りかねた。

ただのナンパだろうか。

相手の意思を量りかねるなんて、人生初の出来事だった。

「初めて、解らない――だろ?」男が、人混みの中で、栞の耳に口を寄せて、そういった。

あまりに驚いたので、栞は声を出すことができなかった。

小さい頃からの秘密だった。見ず知らずの男が知ってる訳が無い。

「ふーん、君もブラウンだ。」男は栞の眼を覗きこんで、興味深げに言った—なぜか怖くて、男の目を一瞬見返しただけで、栞は目を逸らした。

「もう一人いるんだ。気が向いたらおいで」そう言って、男は名刺を栞に渡すと、次の電車に乗り込んだ。


その日一日、栞は仕事が手に付かなかった。同期で親友の愛梨が、今日の栞は変だと思っているのがわかった。

(そう。私は、今日、変だ。)

正気でいられるわけがなかった。

この二十五年間、自分が人と違うことは分かっていた。すべての人が、自分と同じことができるわけではないことが、物心ついた頃には分かっていた。

【君もなの?】男の言葉が、頭の中で何度も繰り返された。

(彼もなの?)

もう、確かめなければ、居ても立ってもいられなかった。

ほんの短い時間だったが、男はすごくハンサムだった。

歳は、きっと、ずっと上だろう。スーツ姿のサラリーマンがひしめき合う地下鉄の中で、Tシャツにジーンズの恰好が若々しく見えたけれど、おそらく、三十代の後半、四十代になっているかもしれない。

貰った名刺は、ショットバーのものだった。

見ず知らずの男なので、警戒する気持ちはあったが、バーならば、行って覗くくらい、いいだろうと思った。

【君もブラウンだ】

男の言葉を思い出していた。

小さい頃から、「栞ちゃんの目、茶色いね」と、よく言われていた。栞の瞳は、日本人に見えない程ではないが、少し人より明るい、赤みがかった茶色をしていた。

栞の目を覗きこんだ男の目も、同じように、赤みがかったブラウンだった。


耐えられないほど長い時間に感じた一日が終わって、考えているだけでは気が狂いそうな栞は、名刺の店に向かった。


ショットバーは閉まっていた。

入り口には、21:00 openのプレートが下がっていた。

「まだ、二時間もある」栞は帰ろうか迷った。

このまま、家に帰っても、ただ気になるだけだろう。どこか近くの店にでも入って、時間をつぶそうかと思っていたところに、朝の男が向こうから歩いてきた。

装いは違っていたが、間違いなかった。

「あ……」栞は、思わず声を出した。

「へぇー、早速来てくれたんだ。――ま、来ると思ったけどね」入り口の鍵を開けながら、男は言った。

「あの、開店まで、どこか、他で、時間潰してきます」

「いいよ。入りなよ。桂くんも、そのうち来るよ」

「桂くん?」

「会えば分かるさ」男は栞を促しながら店に入った。

知らない男だった。店内を覗くと、開店前なので薄暗かった。警戒するべきだと思った。

普段なら失敗しない自信があった。危険なら回避できた。安全なら確信できた。

でも、今日は解らなかった。

それでも、(どうする?)という表情でドアを押えている男を見返した。

男は、少し愉快そうに、首を傾けると「襲わないよ」と言った。見とれる程魅力的な容姿だった。

見た目なんて、なんの興味もないと思っていた。自分がいつも見た目で選ばれていると思っていたから、見た目で相手の魅力を図ることを嫌悪していた。

信用できない……。頭の隅で警鐘がなっていた。それでも、栞は足を踏み入れていた。

男はスタスタとカウンターの中に入ると、手で、カウンターの端の席をさして、「どうぞ」と言った。

示された席に栞が座ると「何か飲む?」と軽い調子で訊いてきた。

「じゃあ、ビールを」あまり普段はアルコールを飲まない栞だったが、少し酔わなければ話ができない気がした。

「今日は、暑い長い一日だったからね」男はカウンターの下の冷蔵庫からハイネケンの瓶を取り出し、グラスに注ぎながら言った。

「本当に……長い一日でした」栞が同意した。

 実際、四月初旬だというのに、夏日だった。長袖のシャツを着ていることを後悔した人は少なくない筈だ。

「俺も貰っていい?」男が言ったので「どうぞ」と栞は同意した。

二つのグラスに緑の瓶からビールを注ぐと、片方を栞に手渡して「出会いに」と男が言った。

祝える出会いなのか、これから確かめるのだと思いながら、栞はグラスを合わせた。

その時、入り口の扉が開いた。

「あれ? 瀬良さん、もう彼女、来てるの?」という新客の問いかけに、男はニヤニヤしながら黙っていた。   

新客の方を、振り向いた栞は、(この人が桂さんだ)と確信できた。

カウンターの男とはタイプが違ったが、お洒落で、すごく整った顔をしていた。

こちらへ近づき、カウンターの照明の下まで来た時、彼の目も、明るい赤茶色であることがわかった。確認する前から、きっとそうだろうと思っていたので、栞は小さな声で「やっぱり」と漏らしてしまった。

桂はニコりとすると「そう。俺もそう思う」と言った。

カウンターの男は、もう一本、ハイネケンの瓶を取り出すと、グラスに注ぎ、桂に渡した。

「じゃ、もう一回。出会いに」

「乾杯」新客が調子よく会わせた。カウンターの男より、ずっと若かった。自分と同じくらいだろうかと栞は思っていた。

栞は黙ったまま、グラスだけを上げた。

「うまっ」一気にビールを喉に流し込むと、桂という男は、栞の方を向き、

「で、君は……、えっと、名前、なんて呼んだらいいかな?」とテンポよく話した。

「な……、栞です。」なんとなくフルネームを伝えるのを警戒して、栞は名前だけを告げた。

「な――栞ちゃんね。」桂はからかうように繰り返した。「んー、普段なら、その『な』が何なんのか、訊く必要なんてないんだけど、栞ちゃんはやっぱりわからないな」

カウンターの男が桂に向かって「あーあ、そんなにいきなり核心ついちゃう?」と苦情めいた口調で言った。

「あれ? まだ、確認しあってないの?」桂の方が驚いたように返した。

「栞ちゃんも、今、来たところでね。桂くん、早いじゃない。仕事忙しくないの?」

「忙しいですよ。でも、瀬良さんからのメール見たから、夢中で終わらせてきましたよ」桂は栞の方を向いて

「『同じ目を見つけた。彼女、きっと、今日来る』って。うおー、女子ー! って。一人でメール見ながら叫んじゃったよ。」と笑った。

桂の登場で、ちょっとミステリアスな雰囲気のあった場が、すっかり明るくなっていた。

「あの、お二人は、ー人の考えが聞こえたり……するんですね」栞は、ほぼ確信できたので、切り出した。

 男たちがニヤリと笑うのは同時だった。

「そう。相手が心の中で思ったことが聞こえちゃう」桂が同意した。「僕も、瀬良さんに会うまでは、そんなの自分だけだと思ってた。でも、瀬良さんが、僕を見つけてくれて」

「考えが聞こえない相手が初めてだったんでね。興味あったから」

「それで、僕も、あ、この人の考え、読めないって。『君が何を考えてるかわからない』って瀬良さんに言われて、『僕もあなたの考えがわかりません』ってね。なんか、僕、瀬良さんにヴァージン奪われたくらいの衝撃だったぁ。あれ、一年くらい前でしたっけ?」

「そのくらいになるかもね。君のヴァージンをいただいた覚えはないけどね」 

 栞は驚いていた。ずっと小さい頃から、自分は人と違っている。気持ち悪い人間なんだと思っていた。同じ人間がいる。

「私だけだと思ってました。けっこういるんですか?」

「俺が知ってるのは、今、この三人だけだね。君たちより、たぶん長く生きてるけど、最初に桂くんが、同じだとわかるまで、この世に自分一人だと思ってた。ここにきて、パタパタと仲間が見つかって、正直戸惑ってるよ」カウンターの男は、向かいに座った二人の顔を交互に見ながら言った。

「瀬良さんは、生まれた時から、人の考えが読めました?」栞は、もう、こうなったら、いろいろなことが知りたかった。

「まあね」と答えて、グラスのビールを口に含みながら、(生まれる前からだけどね)と瀬良は心の中で答えた。この声が、聞こえる奴はいない。瀬良は少し笑った。

「最初に感じたのって、やっぱり母親?」桂が栞に尋ねた。

「記憶にある限りでは、そうです。母が私をあやしながら、本当に愛してくれているのが伝わって、嬉しくて。そういう記憶です」

「僕も。なんてかわいい王子様、的なことを母親が思ってるのが聞こえて。まだ病院にいる時で、『他のどの赤ちゃんよりも、断然かわいい』って。だから、僕、生まれた時から、けっこうそのつもりで生きてきちゃったのね」桂の言いように、栞は笑った。

 二人に話させておいて、瀬良は開店の準備にかかった。(幸せな家庭で育った奴ら――ね)と思いながら。

 瀬良が心の声を聞いたのは、おそらく母親の胎内にいる時だった。

『生まれてこないで!』という悲痛な叫びだった。

瀬良が忙しそうにし始めたので、栞は桂を相手に会話を続けた。

「瀬良さんって、この店、一人でやってるんですか?」店を見渡しながら、ショットバーにしては、まあまあの大きさだと思った。

「今に、わかるよ。けっこう人気あるんだから、この店。僕も、先輩が常連で、連れて来てもらって、瀬良さんに出会ったんだ」桂が後の席のテーブルを拭いてまわる瀬良を横目で眺めながら、「瀬良さん、ビール出してもいいですか?」と訊いた。

「おー、自分でやってくれ。君のは聞こえないんでね」と瀬良は答えた。

 桂はカウンターの中に入って、冷蔵庫からビールを出しながら、「栞ちゃんは?」と訊いた。

「まだ、あります。そんなに飲めないんで」と栞は断った。

 カウンターの中の自分の伝票にビールの追加を書き込き込んでいた桂が、「あ、瀬良さん、栞ちゃんの伝票つけてないでしょ。奢りですか。ずるいなぁ。僕のはしっかりつけてるのに。」と言った。

「私、ちゃんと払います。さっきの、瀬良さんのビールも」と栞は慌てた。

「大丈夫。桂くんにつけてあるから。桂くん、お金持ちだから」さらっと瀬良は答えた。

 桂は否定せずに、栞の隣に戻ってきて、ビールを注いだ。

「僕たちって、何なんでしょうね。人の考えが読めて。仲間同士の考えは読めなくて。同じ瞳の色をしていて、容姿が抜群にいい」桂が、共通点を挙げた。

「自分で言っちゃいます?」栞は思わず噴き出した。

「だって、そうだろ? 正直、容姿を褒められて、『そんなことないですー』なんて僕らが言ったら、嫌味だよ。そこは認めざるを得ないでしょ」

「そんなことないですー」栞が桂の口調を真似して答えたので、桂も瀬良も噴出した。

「あ、ヤバ。かわいい」桂が笑いながら、栞を見つめた。

「栞ちゃんって、幾つ? あ、何か、ナンパ口調になっちゃってるけど、僕」桂は相変わらずテンポよく話した。

「今年二十五になりました。」「二十五かぁ。女の子に年を訊くのって、結構無いかも。僕は二十七でね。目下、恋人募集中です」

「瀬良さんは、お幾つですか?」桂の軽口をさらりとかわして、栞が訊いた。

「営業秘密です」瀬良は軽く笑った顔をこちらに向けて答えた。

「絶対教えてくれないよ」桂が肯定するように言った。

 栞は、ちょっと知りたかったな、と思いながら、思わず意識を瀬良に集中した。

 こちらを見つめる栞に気づいて、瀬良も栞の目を見つめ返した。

 不自然な沈黙が続いて、瀬良と栞が見つめ合っているのを、邪魔しないように黙ったまま、桂は見ていた。薄暗い店内で、少し離れた距離なのに、お互いの瞳の色を見つめていた。

 同じ瞳。栞の胸の奥で、何かが痛んだ。

「駄目ですね。ホントにわかりません」栞が諦めて集中を説いた。

「あー、ドキドキした。けっこうイケちゃったりして……とか、思っちゃったよ」桂が大きく息をついた。

 そこへ、新しい客が入ってきた。

「あ、もうやってる?」四人の男たちが入ってきて瀬良に聞いた。

「どうぞー、料金倍ですけど」瀬良が笑って答えた。

「マジー?」と笑いながら常連らしい客は、奥のボックスに陣取った。

 瀬良は手際良く、飲み物を用意した。特に注文は聞かなかった。常連の好みは、熟知しているようにふるまっていたが、何を飲みたいと思っているのかは、栞にもわかった。

「なるほと、便利ですね」栞が呟いた。

「ま、僕たちも、多かれ少なかれ、こういう利点、あるよね」桂がビールをあおりながら言った。

「あんまり無いと思いますけど」栞は、自分の仕事を思いながら答えた。パソコン相手の経理業務だった。向かいの男性職員が、自分を見つめて卑猥な想像をしてるいのを感じて、ゾッとすることはあっても、この能力が仕事に役立っていると思ったことはあまりなかった。

「学生の時も、テストとか、楽勝だったでしょ?」桂の言葉に、栞は唖然とした。

「私、それは絶対、やっちゃダメって思ってましたもん!」と、全力で否定した。

「でも、聞こえてくるじゃん、みんなの考えが。『ああ、この公式か』とか」桂が愉快そうに言った。

「私は、自分が一生懸命勉強したことを信じよう! って思ってるのに、余計な声が聞こえて、自分の答えが急に間違っているような気がして、でも人の答えを書くのも嫌で、迷ってるうちに、結局間違うってパターンが多かったです」栞が苦々しく思い出しながら話した。

「なーんと、栞ちゃん。要領悪いのね?」桂がからかうように言うと、

「いいじゃない。純朴で、かわいい」と、瀬良が栞の耳元に口を寄せて囁いた。

 自分の背後に瀬良が近づいていたことに、まったく気付いていなかったので、栞は小さく悲鳴を上げて驚いた。

「瀬良さん、駄目ですよ。栞ちゃん口説こうとしたら。瀬良さんには、お相手、沢山いるんだから」桂が、瀬良を指さすようにして言った。

「沢山いるんだ」無理もないと、思いながら、栞は桂の言葉を繰り返した。

「今にわかるよ。このカウンターが、瀬良さん目当ての女たちで埋まるんだから」桂は自分たちが座っている端の席から、向こうの壁までのカウンター席を指し示しながら言った。

 瀬良は、特に反応せずに、奥へ引っ込んで、スナック菓子の用意をした。

 警戒が溶けた栞は、瀬良が気になって仕方なかった。こんなに綺麗な男の人に会ったのは初めてだった。瀬良が、戻ってきて、自分のグラスをあおって空にした。そのグラスがちょっと欲しいと思った瞬間、瀬良や桂が自分の考えを読めなくて、本当に良かったと栞は思った。

(やだ、間接キスとか。小学生じゃないんだから)馬鹿馬鹿しく思いながら、あまりに綺麗な瀬良の容姿に、見とれずにはいられなかった。さっき、背後から耳元に囁かれた時の動揺も、まだ続いていた。そして、あの瞳。

見つめ合った時、思った。磁力でもあるようだと。惹かれあったまま、放すのは、難しかった。

 余計な声の聞こえない会話が、新鮮で楽しくて、時間はあっという間に過ぎた。

 正規の開店時間になって、店は徐々に混み始めた。

「マスター、来ちゃった」「マスター、会いたかった」

次々に瀬良の【ファン】らしき女の一人客が入ってきて、カウンターは埋まっていった。

 瀬良は6人の女客、ボックス席の4組に気を配り、飲み物を待たせることもなく、手際良く動き回った。

「凄いですね」 

「俺もそう思う。女の人たちの中に、凄い人がいるんだ。今夜は来るかな?」

「凄いの?」桂の言う意味がわからず、栞が訊き返した。

「うん、女帝みたいな人がいるんだよ。今、栞ちゃんが座っている席が、その人の指定席みたいになってて、誰も座らないの」

「え、ここ、座っちゃ駄目だったんだすか? でも、入ってきた時、瀬良さんがここに座れって指したから」

「そう、瀬良さん、僕の時も、ここに座りなって言ったんだよ。そのうち女帝が来て、

『ここは私の席なのに!』って、ずっと考えてるのが聞こえてさ。いたたまれなくてどけたよ」

「別に、席なんて決まってないんだよ」栞の目の前に戻ってきた瀬良が、可笑しそうに言った。

「でも、『ここは、私の席だ!』って、思ってるよ。あの人」

「5番ボックスみたい……」ボソッと栞が呟くと「何それ?」と、桂が間髪いれずに尋ねた。

瀬良が噴出しながら「言ってやろー。栞ちゃんが真理子さんのことをファントム扱いしたー」と言った。

「違います、そういうつもりじゃ」慌てて、否定しながら、瀬良が自分の意味したことをわかってくれて嬉しかった。

 桂は、自分がわからなかったことは、もう無かったことのように、話し続けた。

「ここって、ほら、カウンターの下に冷蔵庫があるじゃない。だから、瀬良さんが頻繁に戻ってくる場所なんだよ。だから、端っこの席なのに、特等席なわけ」

桂が丁度そう言ったところで、店に入ってきた客がいた。

「お帰り、真理子さん」瀬良が笑顔を向けると、「ただいま、マスター。今日も疲れちゃった」と言いながら、カウンター席を見まわして、仕方ないというように、空いている席に座った。

『この人が、桂さんの言う、女帝だ』と栞は思った。

ダントツ。

年は――、実際四十七歳。見た目もほぼほぼそれくらい――と、栞は思った。

若い時は、それなりに綺麗だったんだろう。『自分は美人なんだ』という自信を、鎧のようにまとっていた。化粧のノリの悪くなった肌に、一生懸命、保湿化粧水を吸わせて、パックまでしてここへ来ていた。それでも、今、仕事終わりで、店に来た—という体で、話を進めていた。

「若い子たちは、さっさと帰っちゃって。もう、結局私が、片付けなきゃいけないんだから」

 メイクは、出掛ける前にしたばかりだったけれど、仕事終わりで通るような疲れた仕上がりになっていた。

「確かに……。ちょっと、聞いててキビシイ……」栞は、桂にコソッと言った。

「でしょー。あの人ね、瀬良さんが、自分に気があるって、ホントに思い込んでるの」

 栞は、真理子という女の方をちらっと見た。目があってしまって、慌てて視線を手元に戻した。

『何、あの私の席に座ってる小娘。ちょっと若いからって、感じの悪い』いつも自分が座る席に、知らない、若い、そして、美人の女が座っているのが、気に入らなかった。

『若い男の方は、ときどき見かけるイケメンくんね。この子の彼女ね。なら、いいけど』

 瀬良は、真理子にワインを出した。

 本当は、予定外に暑い日だったので、真理子は桂があおっているビールを、おいしそうだ、と思っていた。

それは、瀬良にもわかっていた。でも、真理子は、自分の世界を演出している最中だった。

仕事ができて、良い女。いつも店にやってきて、注文するのは、グラスワインの

赤—。

「ありがとう」注文を訊かなくても、マスターは私の欲しいものを出してくれるのよ……という演出をしながら、真理子は瀬良に向かって微笑んだ。

「もう、嫌になっちゃうことばかりだけど、ここへ来て、マスターの顔を見たら、また、明日がんばれるのよね」シナをつくりながら真理子が言うと

「良かった。ゆっくりしていって」瀬良はやさしく微笑んだ。


瀬良は手際よく、小さなショットグラスに透明の酒を注ぎだし、細いトレーに並べると、冷蔵庫からライムを取り出してナイフで切り始めた。

ライムのさわやかな香りがし始めた時、奥のボックス席の団体から

「マスター!」と声がかかった。

ライムをショットグラスの間にポンポンと置くと、「そろそろ、テキーラタイム?」と、答えながら、トレーを持って奥の席に向かった。ボックス席の一団から「さすがー!」と、歓声が上がった。

「あ、マスター、こっちもそれ貰いたいな」と隣のボックス席の客たちが注文した。

「今、用意しますね。――ああ、でも、そちらの女性は、軽めのカクテルにします? テキーラベースでできますよ」その一団に女性は弐二人いたけれど、瀬良は一人にだけ尋ねた。

「お願いします」さっきから、もうあんまり飲めないな……と思っていた彼女は、嬉しそうに瀬良を見つめ返した。

「えー! マスター、何で私には訊いてくれないの?」もう、だいぶ酒がまわっているらしいもう一人の女が、瀬良に抗議するように言った。

「こちらの彼女は、きっと――。この中で誰よりも強い」瀬良がそう言うと

「正解!」と、同席の男たちが爆笑しながら言った。

「ひどーい!」と言いながら、言われた女も笑っていた。

酒に弱い方の女も、飲んだくれの女も、どちらも、

『次は、一人で来て、カウンター席に座ろう』と考えていた。


 栞は、ずっと、相手の考えが聞こえてくるのが嫌で仕方がなかったし、きっと、相手にそれが伝わったら気持ち悪がられるだろうと思っていた。

『瀬良さんに考えを読まれた人は、わかってもらえて嬉しいんだ』さっき、自分もオペラ座の怪人の下りでそう感じたのを思い出した。

『瀬良さん、私の考えが読めるわけじゃないわよね』ちょっとドキリとした。


 カウンター席では、瀬良がボックス席に取られているので、女帝の機嫌が悪くなっていた。

『だいたい、あの娘が私の席に座っているから、調子が出ないのよ。隣に彼氏がいるくせに、マスターを目で追っちゃったりして。浮気女め!』と栞を横目で睨みつけていた。

「まったく、ぼくというものが、ありながら……」桂が栞の耳元でささやいて、栞を笑わせていると、後ろから瀬良が平手で桂の頭をたたいた。

「げ、なんですか、瀬良さん」

「栞ちゃん誘惑しないの。桂くんこそ、お相手いっぱいいるでしょ」と瀬良が言いながら、カウンターへ戻ってきた。

「別に、誘惑してませんよーお相手なんて、そんな。全然……仕事一筋で、寂しいもんです」後半を栞に向かって言うと、栞が「嘘くさーい」と笑った。   


「ビール、もうぬるくなっちゃったでしょ」瀬良が、栞の前のグラスを下げて、新しく注いだビールのグラスと交換した。

「あ、私、そんなに飲めないんです」と栞が断ろうとした時、瀬良が栞のグラスに残っていたビールを飲み干した。

悲鳴のような心の叫びが伝わって、思わず栞も桂もビクッとした。女帝だった。

「わざとでしょ、瀬良さん」桂が、栞と瀬良にだけ聞こえるように言った。

瀬良はこちらへニヤリとした視線を向けて肯定した。


 真理子の凄いところは、自分の想定に、自分自身、本気で浸ることだった。

 今や、本当に、若いできそこない社員たちの仕事を一人で片づけて、やっと愛しいマスターの(そして、マスターも私に会いたかった)もとへやってきたのに、図々しいボックス席の客たちや、空気の読めない新客の女が邪魔して、私とマスターの時間がとれない。マスターは、私の前に戻ってきたいのに、あちこちで足止めされて、なかなかここへ辿り着けない。マスターも仕事だから、呼ばれれば行かないわけにはいかない。私の前を動かずにいたいのに。私、大人の女だから、こうしてマスターを待っていてあげられるけど、あの小娘ときたら、マスターの迷惑も考えず、黄色い声をだして……

「なんか、ちょっと、キビしくなってきました」栞が怖気づくと、桂も「もう、十一時ですね。僕、明日早いんで、そろそろ……」と言った。

「ほんとだ。楽しかったんで、遅くなっちゃいました。私もお勘定してください」と、栞もバッグから財布を取り出した。「あ、いいよ。僕払っておくから。どうせ栞ちゃんの伝票ないんだし。栞ちゃん、どっち方面? 送るよ」と桂が言った。

「いえ、大丈夫です。タクシー拾いますから」と栞が断ると、「じゃあ、タクシー拾えるまで一緒にいこう。大丈夫、そんなに警戒しなくても。ぼく、瀬良さんが怖いから」と瀬良に向かってニヤリとした。

 瀬良は本当に桂の伝票だけカウンターに乗せていると、女帝が『そうだ、帰れ帰れ。仕事もできない半人前ども!』と心の中で思っているのが聞こえた。

 もう慣れているので、他人の考えていることで、いちいち腹を立てたりしないようになっていた筈だったが、どうしても、この真理子だけは、癇に障った。

「自分は、専業主婦じゃない」と小さく栞が呟くと、桂は不思議そうな顔をして、瀬良は驚いていた。


「さっき、どうしてわかったの?」店の外まで栞と桂を送りに出た瀬良が訊いた。

「何を?」栞は、きょとんとしていた。

「真理子さんが、専業主婦だって――俺は、長い付き合いだから、知ってるけど」瀬良は、興味深げに栞を見つめていた。

「え……、どうしてって」なぜ、今更そんなことを訊くのかと、栞が思っていると、

「そう、俺も思った。そんなこと、俺には聞こえなかったから」と桂も栞を見つめた。

少しの沈黙の後、栞が二人に訊いた。

「ひょっとして、お二人は、その人が、今、考えている【声】が聞こえる。だけ?」

栞の言葉に、瀬良は思わず、ニヤりとした。

「栞ちゃんは、他に何が聞こえるの?」

 桂が栞の顔にくっつきそうな程、自分の顔を寄せて尋ねたので、瀬良がその襟首を掴んでいると、店の中からマスターを呼ぶ声が聞こえた。

「栞ちゃん、明日も来れない? 開店前に、他の客がいないときに話そうよ」瀬良にそう誘われて、栞はちょっとドキッとした。

「えー、明日は僕、来れないなぁ。栞ちゃん、やっぱり送ってくから、僕には帰り道で教えてよ」と桂が言うと、「ずるいよ」と言いながら、瀬良は店に戻っていった。

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