第3話 キス・イン・ザ・ダーク
栞は、毎日のように会社帰りに瀬良の店に寄った。桂は来ない日の方が多かった。瀬良の話だと、一流企業に勤めているエリートらしい。
瀬良と二人きりの時間はあっという間に過ぎて、店の開店時間になり、店が混みだすと、栞は帰るのが常になってきていた。カウンターの女たちも、あの子は、開店前からいる――と気付き始めていた。真理子も――。
桂が一緒でないことが多いので、桂の恋人ではない、ということも認識されるようになっていた。カウンターに並ぶ女性全員が、まるで、意識を通じ合わせることができるかのように、一斉に自分のことを、『なんなの、あの、なんか、最近、マスターに特別扱いされている女』と考えているのが聞こえて、だから女同士は怖いんだと思いながらも、あまりのシンクロに栞はちょっと噴き出しそうになった。
ふと、瀬良の方を見ると、瀬良もあらぬ方向を見ながら、笑いを堪えているのがわかった。栞がこちらを見ていることに気付いた瀬良と目が合ってしまった。その途端、二人とも耐えられなくなって噴出した。
またカウンターの女性陣が全員で『何なの! 今の!』と考えたので、堪らず二人で笑った。
(私たちだけー二人だけの特別)栞がそう思っていると、瀬良もこちらを見た。同じ色の目を合わせると、離すことができない。カウンターの女たちの『声』も、もう気にならない。栞の胸の中に甘い思いが溢れた。
「何にする?」
今日も、開店の二時間前に、栞はやって来た。
いつもの席を栞に示しながら、瀬良が尋ねた。
「んー」ソフトドリンクでもいいな、と思いながら栞が考えていると「たまにカクテルでも飲む?」と瀬良が勧めてきた。
「いいですね。瀬良さんがシェーカー振ってるの好きです」
実際、カウンターの女たちは、みんな好きだった。
瀬良にシェイカーを振らせたいがためだけに、マルガリータやシンガポールスリングなんかをオーダーする客が多かった。そんな時は栞も見とれてしまっていたが、瀬良はいつもオーダーした女性に視線を向けていた。
「俺は、シェーカー振るカクテルより、ステアするカクテルのほうが好きなんだけどね」
そう言いながら、瀬良は手際よく氷の入ったミキシンググラスにメジャーカップで測った洋酒を注いだ。バースプーンで音もなくステアする瀬良の視線を下に向けた顔が、本当に綺麗だと思えた。さほど指を動かしていないのに、バースプーンがミキシンググラスの中をくるくると回るのが不思議と思えるほど、器用な手つきで瀬良はカクテルを作った。バースプーンのスクリューがカウンターのライトにキラキラと光った。
華奢なカクテルグラスに冷えたカクテルを注ぐと、瀬良はグラスを持ち上げ、栞の顔の高さに合わせた。
受け取るつもりでいた栞は、一瞬きょとんとしたが、瀬良がカクテルと自分の目を見比べているのに気づいた。
「ああ、このカクテルー瀬良さんの目の色だ」栞が言うと、瀬良は栞の目を見つめて微笑みながら、「もう少し、赤いかなー」と言った。
「飲んでみる?」と渡されたカクテルに口をつけた栞は、ちょっと眉をあげた。
「私には、キツいです」むせそうになりながら、グラスを返した。
「それに、栞ちゃんの目は、もっと、赤味がかっているかな……」そういって、瀬良はシェイカーに酒を注ぎだした。
「私の目の色、瀬良さんと同じじゃないですか?」そこは譲りたくなかった。特別なことだから。
「んー、何故かな。君の瞳を縁取るまつ毛が濃いからか……肌の色が白いからか……」そう言うと、瀬良はシェイカーを振り出した。
瀬良に肌の色が白いと言われただけで、落ち着かない気分になった。
ゆっくりと、目は栞を見つめながら、シェイカーを振る瀬良。手の形まで奇麗だった。
(困る。さっきステアしてる姿もセクシーだと思ったけど、やっぱりこっちも素敵)
また、こんな瀬良を見たくなった時のために、このカクテルの名前を聞いておこうと栞は思った。
「オリジナルカクテルなんですか?」と問う栞に、「まさか。俺はそんなに勤勉じゃないんでね。どっちも、どのカクテルブックにも載ってる有名なカクテルだよ」と答えながら、瀬良は新しいカクテルを栞の顔の高さに掲げた。
「君の色は、こっちかな」さっきよりも赤味がかったカクテルを栞に渡した。
むせないように用心して、一口飲んでみた。さっきのカクテルよりわずかに甘く、何かさわやかな味がした。
「こっちの方が好きです。なんていうカクテルですか?」
問いかける栞に、最初のカクテルグラスを持ち上げて「こっちは、【ハンター】」と言って、瀬良は一口飲んだ。「ハンター。瀬良さんに似合ってますね」栞がそういうと、
(そう?)というように、瀬良は眉をあげた。
「こっちは?」栞が自分の飲んでいるグラスをあげて尋ねた。
【キス・イン・ザ・ダーク】
瀬良が栞を見つめていた。
「セクシーなネーミングのカクテルですね」そう言いながら、栞はもう一口含んだ。
瀬良はハンターを一気に呷った。
二人がグラスを置いた瞬間、どちらが先に身を乗り出したのかは分からなかった。
栞はスツールから浮くようにして、瀬良はカウンターに手を突くようにして、近づくと唇を合わせた。
唇を合わせるだけの軽いキスだった。
栞は目を閉じたかった。でも、瀬良の瞳に見つめられていたので、閉じることができなかった。瀬良が離れそうになった気がしたので、栞は追うように、強く唇を押しあてた。
瀬良が片手を栞の耳の後ろに添えて、深く口づけた。
栞の中の、ドライベルモットの香りが瀬良の舌に移ってきた。瀬良が絡め取るように味わうと、栞も瀬良のキスに、目がくらみそうなスコッチウイスキーの香りと、微かなタバコの味を感じていた。
栞は、息を吐く方法を忘れたように、それでも窒息しないように、息を小さく吸い続けた。肺が破裂しそうだった。肺ではないかもしれない。ひどく強く打ちつけている心臓かもしれない。瀬良は何度も顔の角度を変えて、唇をほぐすように、自分のほうへ誘うように栞を味わっていた。
耐えきれなくなって、栞が息を吐くと、小さな声が混ざってしまった。
カウンターの上で、栞の手を瀬良の手が握った。
栞は体が熱くなるのを感じていた。アルコールにあてられたからでないことは、わかっていた。
うっとりと、目を閉じたかった。引き合う瀬良の瞳が許してくれなかった。
(瀬良さんのキス……)火照る身体が震えそうだった。
その時、入り口が開く音がして、「ばんわー」と桂の声がした。
「いらっしゃい」瀬良は、すんなり栞を放すと、自分の口についた栞のリップを片手でぬぐい、涼しい顔で応対した。
桂も、何も気付いていないようだった。
栞だけが、火照った身体と、高鳴る心臓を落ちつけようと必死だった。
「今日も早いね。栞ちゃん、あれ、何、カクテル飲んでるの? 珍しい」桂がいつもの軽い口調で話しかけながら、隣に座った。
栞は、今しゃべったら、声がうわずってしまいそうで、何も言えなかった。
「桂くんに飲んでもらったら? 栞ちゃんには、まだちょっと強かったみたい」と瀬良が言った。
「栞ちゃん、お子ちゃまだから~」と言いながら、桂はキス・イン・ザ・ダークのグラスを取って、一口飲んだ。
「これ、結構キツイっすね。口当たり良いけど。」
「ショートだからね。アルコール度数は高めだね」
「栞ちゃん、こんなもの勧める男を信用しちゃダメだよ。これ、デートカクテルじゃない?」と、桂が言うと、
「じゃあ、伝票は桂くんにつけておこう。一杯二千円ね」と瀬良が言った。
「高っ――ま、いいか。栞ちゃんの間接キス付きだし」と桂がおちゃらけた。
キスの一言だけで、栞は、ドキリとした。
「私、ちょっとお酒にあたっちゃったみたいで……。今日は帰ります」このまま、とても瀬良の顔も、桂の顔も見ることができそうもなかったので、栞は席を立った。
「ごめんね。こんどはもっとソフトなのにするから」瀬良がにこやかに言った。
(カクテルのこと? キスのこと?)と、問いかけるような目で、栞が瀬良を見ていた。
「大丈夫? 送ろうか?」桂が心配してくれたので、「いえ、大丈夫です。そんなに飲んだわけじゃないんで。それじゃぁ、失礼します」と言って栞は出口に向かった。
瀬良が普通に見送りに出た。
「気をつけてね」いつものように声をかける瀬良に「なんで、そんなに平気そうなんですか?」と小さく抗議した。
「何? 俺にもドギマギしてほしかったの? で、二人で桂くんの前でアタフタするの?」瀬良は面白そうに笑った。
「桂さんが来て……正直、ちょっと残念です」栞がそういうと、瀬良は愉快そうに栞の頬にかかる髪を、指ではじいた。
「またどうぞ――おやすみ――」いつものように、みんなにするように、瀬良はそう言うと、店に戻っていった。
「なーんで、こんなカクテル出しちゃったの? 瀬良さん。栞ちゃんにはキツイッてわかってたでしょうに」残り少ないキス・イン・ザ・ダークを一口飲んで、桂が瀬良に尋ねた。
「色がね。比べてみたくて」瀬良がそういうと、桂が「ああ――」と漏らした。
「なるほどね。栞ちゃんの瞳の色――ね」
桂は残りのカクテルを一気に飲み干した。
「で、瀬良さん――俺にもキスする?」
「んー?」瀬良が余裕で笑いかけると
「わかりますよ。栞ちゃん、明らかに動揺してたし、メイクちゃんとしてるのに、口紅だけとれちゃってたし」
「ふーん」愉快そうに瀬良は笑って肯定した。
「駄目ですよ。瀬良さん。栞ちゃんは、他のカウンターの女の人たちとは違うんだから。僕もそうだけど、【同じ仲間】に会いに、ここへ来てるんだから。からかわないであげてください」
「他のカウンターの女の人たちみんなに、キスして回ってるわけじゃないけどね」あくまで軽い瀬良に、桂はちょっとムッときた。
「僕にも、栞ちゃんに手を出すなって言ってたじゃないですか」
「言ったよ。俺が狙ってるから」
「本気で言ってるんですか?」桂は驚いた。
「本気って、何だろうね?」瀬良は涼しい顔で、桂にビールの瓶とグラスを渡して、タバコをくわえた。
桂は、瀬良がはぐらかして いる時は、どれだけ食い下がっても無駄だとわかってるので、この話題をやめた。
「女帝とかにも、そんな思わせぶりなことしたんですか? 刺されますよ、今に。瀬良さん」
「桂くんが女帝って言ってるだけで、俺は、そんな風に思ってないもん、真理子さんのこと――あの人、初めてうちの店に来た時、本当に、支えてあげなきゃ崩れそうな感じの人だったんだ。今は、嘘の世界で生きることで、なんとか自分を保ってるんだよ。どっちが嘘の世界か、考えないようにしながら……」そういうと、瀬良は桂にかからないように、横を向いて、煙を細く吐きだした。瀬良は、最近真理子が座る席を見つめながら、(本当の自分が知られていない世界で生きるのは、楽で、安全で、そして虚しいんだ……)と考えていた。
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