5-17 蠢動! そして、黒犬は動き出す!

 アーソ辺境伯領の異変は城館から始まった。


 この辺境伯の城砦は極めて強固な造りをしていた。城の背後と左右には川が流れ、その川に挟まれる格好の山の上に築かれていた。左右の川が邪魔で正面への攻め口も展開幅が狭く、しかも山の上にあるため、取り付くには坂道を登らねばならないのだ。


 その上、正面の門は跳ね橋になっており、それを釣り上げてしまえば、それこそ攻め口を失うような、そんな構図になっていた。


 今は変事ではないため、橋は降りたままになっているのだが、その城の“内側”にて突如として異変が発生したのだ。



黒犬つくもん、【影走り】で城壁の上へ。そして、盛大に雄叫びを)



 黒毛の輓馬に擬態している黒犬つくもんの頭の中に、主人ヒサコからの命令が飛んできた。


 スキル【手懐ける者】による支配を受けているため、主人であるヒサコからの命令は絶対であった。厩舎の中で横になっていた黒犬つくもんは周囲に人の気配がないことを確認してから、影の中へと溶け込んでいった。


 悪霊黒犬ブラックドッグの種族の固有スキル【影走り】は、体を影の中へと溶け込ませ、そのまま影伝いに走ることができるスキルであった。


 そのまま影の状態で厩舎を飛び出し、城壁を駆け上がった。



「ガァァァ!」



 城外にすら届きそうな盛大な叫び声に、何事かと声のする方に、兵士を始めとする人々が振り向くと、そこには城壁の上に自らの存在を誇示するかのように佇む黒犬の姿が視認できた。



悪霊黒犬ブラックドッグだと!?」



 叫び声を聞いた領主のカインが執務室の窓から、大きな黒犬の姿を確認し、冷や汗をかいた。


 ジルゴ帝国から程近い場所にあるこの地方においては、亜人や獣人の襲撃のみならず、こうした怪物モンスターの襲撃もままあることであった。


 それだけに、数多のモンスターの適性を知識として収め、即座に撃退難度を計り、対処できるかどうかを兵士に至るまで認識していた。


 そして、目の前の黒犬はその中でも、間違いなく“最悪”に分類される相手であった。



「全員下がれ! 通常装備では対処できん! すぐに術士を呼んで来い!」



 悪霊黒犬ブラッグドッグは幽体と実体を交互に切り替えることができ、通常の兵装ではまずダメージが通らない。術による攻撃か、あるいは武器に魔力付与エンチャントするかの特別な対応を必要としていた。



「クッ、こんな真っ昼間から、いきなり高難度の怪物なんぞ、いったいどうなっているんだ!?」



 カイン自身もそうであるし、城の警備に当たっていた兵士も例外なく動揺していた。


 辺境伯領は敵対勢力の侵攻に備え、強固な防御陣や索敵網を備えている。戦慣れした手練れも多数揃えており、防御の固さは最前線の領土に相応しい構えをしていた。


 辺境伯領それ自体が一つの城のような感覚だ。



(つまり、それらをすり抜けて侵入してきたということだ。闇夜ならともかく、こんな日の照り付ける時間にどうやって!?)



 カインは悪霊黒犬ブラックドッグのスキルとして、【影走り】を持っていることは知っていた。しかし、影や闇に満たされている夜ならばいざ知らず、陽の射す昼間はその真価を発揮できない。


 にもかかわらず現れた。



(そこから導き出される結論は一つ。最初から内側に潜んでいたということだ! だが一体、いつ侵入した!? それに今の今まで気配も感じさせず伏せていた理由はなんだ!?)



 考えれば考えるほど、カインの頭には疑問が浮かんできた。


 ただ一つ分かっていることは、自分も城兵も危機的な状況に陥っているということだ。言ってしまえば、敵工作員にまんまと懐に飛び込まれ、すでに首筋に刃物を押し当てられているようなものだ。


 そして、黒犬つくもんとカインの目が合った。どういうわけか、笑っているようにカインには感じられた。


 だが、次の瞬間に背筋が凍り付いた。黒犬つくもんが口をカインの方に向けたかと思うと、大きくそれが開かれた。



(まずい! あの構えは【黒の衝撃ダークフォース】!)



 暗黒の魔力を凝縮した砲弾が口から飛び出し、カインのいる部屋目がけて飛んできた。


 防ぐことは不可能だと判断したカインは、回避に専念した。先程まで執務に使っていた机を飛び越え、その影に身を埋めると、その数瞬後に部屋の中が暴風に襲われでもしたかのような轟音と衝撃波が駆け巡った。


 さらに机の下に潜り込み、衝撃波で飛び散る落下物から身を守った。


 だが、瓦礫に埋まり、完全に動きを封じられた。



「領主様ぁ!」



 カインのいる部屋が黒犬つくもんの一撃で吹き飛ばされるのが、多くの兵士に目撃され、あちこちから悲鳴にも似た叫びが飛び交った。


 その恐怖と怨嗟を一身に受けながら、黒犬はゆっくりと威圧するように首を動かし、次なる獲物を探して視線を方々に飛ばした。



黒犬つくもん、そっちはそのくらいでいいわよ。存在を誇示しつつ、カインを死なない程度に痛めつけれたから、上等上等。こっちに合流しなさい。次なる獲物は、墓の前で悲しみと怒りに打ちひしがれる、憂いた貴公子よ)



 主人からの撤収命令が飛んできた。ずっと馬に擬態して我慢を強いられてきたため、まだ暴れたりない感覚であったが、命令には逆らうことができない。


 今一度、周囲に響き渡る雄たけびを上げ、主人の握るリードを辿り、一目散にそちらへと駆けていった。


 本来なら追跡するべきなのだろうが、相手が悪霊黒犬ブラックドッグであるため、さすがに誰も追いかけようとは思わなかったのだ。万一反転でもされたら、術士を帯同していない限りはまず殺されることが明白であるからだ。


 それよりも心配なのは、黒犬つくもんの放った一撃によって、部屋ごと潰されていたカインの安否であった。


 外からは完全に部屋が潰れたように見えており、よもや押し潰されてはいな方と兵士は冷や汗をかいたが、瓦礫の中から声がするので生存だけは確認できた。


 そして、黒犬つくもんのことはひとまず頭の中から追い出し、カインの掘り起こしに専念するのであった。


 もちろん、恐るべき怪物の次なる標的が、自家の若様だとは知るよしもなかった。

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