4-55 布石! 杯に注がれしは欲望の酒精!

 言葉を失う、と言う状態はこういう事を言うのだろうと、ヒサコは目の前の光景を眺めていた。表情にこそ出してはいないが、心の中では諸手を上げて喝采の拍手を打ち鳴らしているところであった。


 ここ最近の騒動の結果、ヒサコはすっかり社交界において有名人になっていた。


 そもそもの公へのデビューは兄であるシガラ公爵ヒーサの代理人として、御前聴取に出席したところから始まっている。その後のヒーサの結婚式典や宴席にも臨席して、存在感を程よく出してきた。


 公爵の妹君でしかも未婚。おまけに婚約者も特に決まっていないとなると、お近付きになりたいと考える者は数知れず。たちまち社交界で注目を集めるようになった。


 そして、極めつけがケイカ村での一件だ。


 第一王子のアイクに漆器の箱と“梅の花”の短歌を贈ったことを端に発し、突如襲撃してきた悪霊黒犬ブラックドッグを退けるという豪胆さを見せ、さらには役立たずの司祭を叩きのめすなど、常人とはかけ離れた姿を人々の脳裏に焼き付けた。


 公爵家のお嬢様、文学や芸術にも明るく、漆器と言う新たな美を指し示し、それでいて怪物まで退治してしまうという剛の者、ここまで聞いて興味を持たない方がおかしいのだ。


 そんな彼女は司祭を殴り飛ばしたことを反省してか、三日間の断食行に入ることを宣言し、そして、約束通り三日の間、屋敷を外から封印し、一切の外界からの接触を取った。


 その断食行が終了すると同時に、アイクに対して社交場サロンに参じる旨を伝えた。


 なお、夜を待てずに、ヒサコの逗留する屋敷にまでやって来るせっかちな者も複数名いたのだが、そこはヨナが丁重にお引き取り願った。


 否応なく期待が高まる中、日が傾きかけた頃、村の中心部にある社交場サロンにヒサコが姿を現した。噂通りの巨大な黒毛の馬に乗り、悠然とやって来たのだ。


 改めて見る者も、初めて見る者も、その迫力ある姿に圧倒されたが、そんなざわつく空気をよそに、ヒサコは歓迎してくれている面々に対して優雅にお辞儀をして、謝意を示した。


 出迎えの先頭にいたのは、もちろんケイカ村の代官にして、社交場サロンの主催者でもあるアイクであった。


 アイクは断食行を行っている最中にも見舞いに行こうかと何度も考えたが、それでは司祭に対しての心象が良くないとどうにか我慢してきた。


 そして、目の前にヒサコの元気な姿を目の当たりにして、ようやく安堵することができた。


 アイクに先導されて社交場サロンの広間に入ったヒサコは、改めてその熱気に酔いしれた。



(この前に訪れたときよりさらに人が増えている。まあ、うわさ話につられてやって来た人もいるのでしょうけど、宣伝戦を仕掛けるのにはもってこいよ)



 舞台は整った。あとは役者が表に立ち、舞いを披露するだけだ。


 そう考えたヒサコは随伴のテアに命じて、持ってきた大きめの箱を開封した。


 その中身は漆器のお盆と対となる杯であった。


 先んじて用意した法王宛の漆器セットはお盆と五つの杯であったが、それを用意している時間がなかったため、すでに完成していた小さめの漆器セットを持ってきたのだ。


 お盆は螺鈿細工が施され、黒い夜空を連想させる黒塗りの土台に光沢ある螺鈿が星々のように写った。その上に乗る対となる二つの杯は、外側が黒塗りで、内側が朱塗り。そして、外側には金にて月と太陽がそれぞれに描かれていた。


 星々の海に浮かぶ月と太陽、お盆と対となる杯で、それを見事に表現したのだ。


 そして、それを見た者はアイクを筆頭に、文字通り言葉を失ったのだ。


 明らかに自分達が今まで美しいと見惚れていた彫刻や絵画、そうした芸術品に比べて異質の存在。黒地に浮かび上がる螺鈿と金による装飾は、それだけで一つの世界を成していた。


 多種多様な顔料を用いず、派手な色彩はないが、なにか染み入る美しさを目の前の漆器に感じた。


 普段、芸術品などいくらでも見てきた貴族や名士であっても、その見たこともない品には物珍しさも手伝って、羨望の眼差しでそれを見つめた。


 芸術家達は自分達の信ずる美意識とは違う美を見せ付けられ、ある者は嫉妬し、ある者は呻き声を上げ、称賛しながらも複雑な心境に陥っていた。


 また、詩人や作家もそれを表現するのに、自分の持つ言葉では表しにくいと、自らの語彙力の乏しさを嘆く者まで出てくる始末だ。



(フフッ、反応を見るに上々ね。これは売れる!)



 漆器を見つめる人々の熱い眼差しを感じ取り、ヒサコはすでに勝利を疑わなかった。


 漆器の美しさは、それを見たものならば誰しもが認める物であることは確証を得た。あとは口々に話が広がっていくであろうから、情報は勝手に拡散していく。


 すでに、漆器ブームの火は点いたと見て間違いなかった。



「アイク殿下、いかがでございましょうか? 我がシガラ公爵領にて生み出されました、漆器の完成品の出来栄えは?」



 漆器に魅入ってたアイクは、ヒサコのその言葉によって現実に引き戻された。漆器に注いでいた自らの注意と視線をヒサコに向けると、そこにはこれまた見惚れる笑顔の女性が視界に飛び込んできた。



「あ、ああ、見事、としか言いようがない。それ以上の言葉をかけられぬ、自らの見識の浅さを恥じ入るばかりだ。以前受け取った漆器の箱か、あれも黒一色の見事な物であったが、ヒサコはあれを未完成品だと言った。あそこまで純な黒には下手な装飾など無粋だと思っていたが、なるほど、これを見てしまえば、未完成品だと言った意味を理解したよ」



「殿下にそれ程の評価を頂けれるとは、最大の賛辞にございます。兄が急ぎ送って来ました労も無駄ではありませんでしたわ」



 ヒサコは【瞬間移動テレポーテーション】で持ってきたのではなく、ヒーサが早馬を出して届けさせたという体で話を進めておいた。


 細かな点には矛盾があるかもしれないが、大きな嘘の前では些事のことにまで目を配れる者はいない。全員が今は漆器に目を奪われているのだ。



「さあさあ、皆さん、存分にご覧になってください。シガラ公爵領の新たな特産工芸品“漆器”でございますよ。今宵はお盆と杯のみでございますが、他にも箱や食器、机など、様々な物をご用意させていただいております。ご用命は是非シガラ公爵領の工房の方へお申し付けください」



 煽り立てるヒサコの掛け声に、早くも是非購入したとの意思を示し、ヒサコに詰め寄ってくる貴族まで現れる始末だ。


 そして、堰を切ったように我も我もと手を上げ、欲する声があちこちから飛び出してきた。


 それに対して、ヒサコは笑顔を振るまきながら懇切丁寧に説明して回り、注文の仕方などを教えて回った。現在、工房は公爵家直轄の新設された村にしかなく、大急ぎでの増産体制を整えるのに必死になっている最中だ。


 注文にすべて応えれるかどうかは現場の職人次第であるが、術士の配備や職員の増員など、できる限りの生産力向上には努めるつもりでいた。


 しかも、これはこの社交場サロンにいる顔触れだけの話である。王都と教団総本山にも、ブームの火種を撒くつもりでいるので、さらに注文が増えるのは必至であった。



(ここが正念場よ。漆器を普及させ、それによって財を成し、同時にシガラ公爵家の“箔”を高める絶好の機会! 逃してなるもんですか!)



 ヒサコはそう考えたが、実際、それに沿って動きつつあるのは確かな手応えとして、この場の空気から感じ取っていた。


 あとは、人々の欲を操り、煽ってやればいいだけの話だ。そして、それはヒサコにとって最も得意とする分野であり、一度巻き起こった漆器ブームを拡散させる気でいた。



(さあ、売って、売って、売りまくるわよ! 稼げるときに稼いでおくのが商いの本質! 財布のひもを緩めて、ジャンジャン買っていきなさい!)



 松永久秀にとっての一側面である“商人”としての性質サガが疼き、漆器の説明にも自然と熱が入ると言うものであった。

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